第二千三百五十九話 惰眠を貪るもの(二)
(しかし……どうしたもんかな……)
セツナは、ロッドオブエンヴィーから提示された試練を前にして、その場に立ち尽くしていた。
周囲には、無明の暗黒空間が広がっている。見渡す限りの闇、闇、闇だ。天を仰ごうとも、後ろを振り返ろうとも、遙か先を見遣ろうとも、どこもかしこも絶対の暗黒が埋め尽くしている。音もなく、風もない。自分以外のだれかがいる様子もなければ、なにかがあるようにも見えない。実際には目に映らないだけで、平坦な地面ではないのかもしれないが、こうもなにも見えないと、そう勘違いしてしまうのもやむを得ないだろう。
光の一切存在しない闇は、なにもないのと同じように、感覚として捉えられてしまう。
実際は違う。
そんなことはわかっている。
しかし、この絶対的かつ不変的な暗闇の中では、自分の手足さえも不確かなものと認識してしまいかねなかった。なにせ、目の前まで持ってきても、見えないのだ。幸い、その目の前まで持ってきた手で顔面を触れれば、確かな感触があり、実感を確認できるのだが、それにしたって、なにもかもが不安定に感じてしまう。
そんな状況下で、ロッドオブエンヴィーを探し出さなければならない。
ロッドオブエンヴィーが鍵を持っているのだ。そしてその鍵を手に入れることがこの試練の目的となる。目的を果たすためにはまず、ロッドオブエンヴィーの居場所を見つけなければならず、そのためには、同じ場所に立ち尽くしていても仕方がない。なにも終わらないどころか、始まりもしない。
セツナは、周囲を見回した上でまず一歩、前方に足を踏み出した。地面はある。平坦な地面。なんの仕掛けもない。ただし、それは目の前の地面になにもなかったというだけであり、さらに先に進めば、どのような地形、どのような障害物や罠が待ち受けているかわかったものではない。
セツナは、一歩だけで足を止めると、その場に屈み込み、両手で周囲の地面を触って確かめた。一歩一歩、こうしていかなければ、安全を確保して歩くことはできない。少なくとも、現状ではそうだ。常人の感覚では、無明の闇の中を自由に歩き回ることなどできるわけもない。たとえ地面が平坦だったとしても、平衡感覚を失い、転倒してしまうかもしれない。
(……まあ、試験官が惰眠を貪るような試練で、お行儀良く挑む必要はないか)
(聞こえてるんだけど……)
「あーはいはい。武装召喚」
ロッドオブエンヴィーの心の声を雑に受け流して、彼は呪文の結語を唱えた。瞬間、セツナの全身から爆発的な光が発散し、その一瞬、セツナは、暗黒の闇が吹き飛び、複雑怪奇極まりない地形が前方に広がっているのを見逃さなかった。光の中から具現した黒き剣の柄を握りしめ、口の端を歪める。一瞬、垣間見た景色の中に目的地と思しきものがあったのだ。それはセツナの脳裏にはっきりと焼き付けられ、暗黒空間に戻ったいまも、そこまでの道筋さえ把握できていた。
黒き剣を手にしたことによる副作用がセツナの五感を拡張し、鋭敏化していく。引き上げられた身体能力でもって前方に向かって駆けだした彼は、脳裏に焼き付いた複雑な地形を感覚だけで突破していった。地面に穿たれていた大きな穴を飛び越え、その勢いのまま、立ちはだかる壁に飛びかかる。剣を突き立て、勢いよく蹴りつけた反動を利用して上方へ反転、宙返りによって壁の上に着地し、黒剣の送還と再召喚を行う。再召喚によって生じた光が再び彼の視界から闇を吹き飛ばし、目的地までの道筋がさらに明確となる。
複雑な地形の把握も完璧に近くなる。セツナの前進を邪魔するように配置された穴や壁の数々に、起伏に富んだ地形は、無明の闇の中では絶対にわからなかっただろう。しかし、セツナには、武装召喚術がある。召喚時に生じる光は、夜襲などの邪魔になったものだが、こうやって利用できることがあるとは想像したこともなかった。
(それ……卑怯……)
不意に脳内に響いたのは、詰るような少年の声だ。
「どっちがだよ」
(でもまあ……いいや……懐かしいし)
「なにがだよ」
(君……いちいち疲れない……?)
「疲れさせてんのはそっちだろ!」
(……そうかな……)
自信なさげにつぶやくロッドオブエンヴィーではあったが、セツナは、そこで、逆に彼が案外付き合いのいい性格なのではないかと想うようになった。眠りたい、惰眠を貪りたいといいつつ、セツナの話し相手になってくれているのだから、感謝さえしなければならないのではないか。
ふと、そんなことを想うと、くすりという笑い声が聞こえてきた。
(お人好しだよ……君は……)
「よくいわれるよ」
否定はせず、脳裏に焼き付いた地形を頼りに、前方に向かって跳躍した。壁から壁へ。空中に固定された足場に飛び移るが如く、連続的に跳躍していく。闇に意識が奪われ、地形を忘れれば、黒剣を送還し、再度召喚を行う。召喚時の発光現象を利用することにより、周囲の地形を再度確認するのだ。ただし、送還はともかく、再召喚は無制限に行えるわけではない。召喚武装の召喚と維持には、精神消耗が伴うものだ。この暗黒空間の突破にあまりにも時間がかかりすぎれば、それだけ精神力を消耗することになり、いずれ力尽きることだってあるかもしれない。
もっとも、この試練に制限時間などはなさそうであり、力が尽きればゆっくりと休養すればいいだけのような気もした。
(いや……それは……ちょっと……)
「なんでだよ」
(ささっとぼくを見つけてよ……)
「だったら居場所を教えろってんだ」
(ぼくの居場所ならさっき見つけてたでしょ……早く、来てよ……)
「そこは素直に認めるんだな……」
セツナは、ロッドオブエンヴィーの考えがわからなくなり、困惑した。セツナが目標地点と定めたのは、遙か前方に見えた丘の頂であり、そこになにか意味深げな物体があったように見えたのだ。その思わせぶりな配置からして、そこにロッドオブエンヴィーがいると考えていたのだが、ロッドオブエンヴィー本人がそれを認めてしまったことで、セツナはいま、そこへ向かうだけでよくなっている。
(……ぼくはとにかく眠りたいんだよ……そこをわかって……)
「わーったよ。さっさとあそこまで辿り着けばいいんだろ」
(うん……待ってるよ……)
試験官たる黒き矛の眷属に急かされているという事実に変な気分になりながら、セツナは、再度送還と召喚を行って地形を確認すると、つぎつぎと足場を飛び移っていった。地形は複雑だが、暗黒の闇さえどうにかできれば特に問題はなかった。この無明の闇と複雑な地形だけが試練ならば、これほど単純かつ簡単なものもない。目的地への移動中、障害物が襲ってくるようなこともないのだ。
(ま、そう想うのも俺だからだろうけどな)
(そだねー……)
脳内に響く気のない相槌に、セツナは眉を潜めた。
セツナだからこそ、送還と再召喚を連続的に行えるというのは紛れもない事実だ。普通、武装召喚術の発動には長たらしい呪文による術式の構築が必要なのだ。武装召喚という結語だけで発動できるセツナは、武装召喚師の中でも異端も異端だった。そんなことができる人間がほかにいるとすればクオンくらいのものだが、クオンの場合は、シールドオブメサイアを常時展開しているだけでいいかもしれない。
あの盾は光源になり得た。
ふと、クオンのことを思い出して憂鬱になる。
(……落ち込んでいる場合?)
「わかってるよ」
いわれなくとも、わかりきっている。
クオンに敗れ、心折られたからこそ、いま、ここにいるのだ。
地獄に堕ちたのだ。