第二百三十五話 幻龍の鏡
鏡の光が収まったとき、セツナの視界に飛び込んできたのは、ミリュウ=リバイエンと名乗った赤毛の女の姿だ。それだけならばなんの問題もない。召喚武装の能力が不発に終わったのだと思っただろう。しかし、彼の目は、何人ものミリュウの姿を認識していた。
「さあて、どれが本物でしょう? 簡単な問題よ」
複数の女が、様々な仕草で笑いかけてくる。
全部で十人ものミリュウ=リバイエンが、燃え盛る森の中に出現したのだ。炎の中、だれもがさっきまでのミリュウと同じ格好、同じ状態でこちらを見ている。まったく同じなのだ。黒き矛を手にしたセツナを持ってしても、見分けがつかない。炎の照り返しを受けて赤く輝く髪の美女。射抜くような鋭いまなざしに濡れた唇。顔からは汗が流れ、呼吸も荒い。
十人のミリュウは、まったく同じ姿でありながら、それぞれ異なる態勢でセツナを挑発している。背後の兵士たちも突如出現した十人のミリュウに驚いており、彼らが彼女の能力を知らなかったということがわかった。正確には、彼女の手にした鏡の能力なのだろうが。
(鏡を持つのが本物か……!)
セツナは、短絡的にそう考えたものの、よく見ると、十人のミリュウの手にはそれぞれ同じ形の鏡があった。尾を噛む蛇に縁取られた鏡もまた、完全に同じ形状であり、間違い探しにすらならない。セツナは胸中で舌打ちするとともに、どうしてそんな馬鹿げた発想をしてしまったのかと頭を抱えたくなった。矛を握る手に力がこもる。敵が仕掛けてくる。無意識が警告を発している。
「本物はひとり、残りは鏡が生み出した幻像よ。さあ、どうするの? 黒き矛ちゃん」
ミリュウはからかうように告げてくると、十人が一斉に地面を蹴った。燃え盛る炎の中、彼女の体力はほとんど奪われてもいないようだ。それはセツナも同じだ。鎧と服の下で大汗をかいているものの、体力はまだまだ残っている。
十人のミリュウはセツナを包囲するように布陣すると、またしても挑発気味に笑いかけてきた。手にあるのは鏡だけで、武器らしい武器はない。鏡で殴りつけてくるとは思えないし、懐に別の武器を隠し持っている可能性が高い。拳が武器かもしれないし、考え出したらきりがないことでもある。
セツナは、ミリュウたちに注力する一方、残された兵士たちが声もなく動き出すのを認識していた。彼らは、セツナの注意が十人のミリュウに向いたことを好機と見たのだろう。セツナにばれないように、ゆっくりと逃走を始めていた。セツナはそんな彼らに構う気もない。疲労した数十人くらい、エインたちに任せても問題はあるまい。いまセツナが倒すべきなのはこの武装召喚師だ。鏡が生み出した幻像自体に戦闘能力があるのかはわからないが、ないと仮定したとしても、厄介な能力には違いない。
神経を研ぎ澄ませ、幻像の中の本物を探しだそうと試みる。炎の中。早くしないと、体力も精神力も奪われていくだけだ。時間はない。が、本物と幻像の違いなど瞬時に見つかるはずもなく、彼は途方に暮れた。そもそもミリュウ=リバイエンという女のことをよく知らないのだ。本物と偽物の区別が付くはずもない。たとえ、まったく別の姿をした人間がミリュウ=リバイエンを名乗り、そちらが本物だとしても、なんの不思議もなかった。
「ほらほら、さっさとしないと、あなたの人生、奪っちゃうわよ?」
十人のミリュウが同時に口を開き、背後のひとりが飛びかかってくる。セツナは右に飛んでそれをかわすと、右側にいたミリュウと鉢合わせする。女の顔が間近にあった。女は楽しそうに笑い、振りかぶっていた鏡を叩きつけてきた。咄嗟に飛び退くと、後方から殺気が迫ってきている。振り向く。女の靴の裏が見えた。飛び蹴り。避けきれないと悟ると、セツナは矛を斜めに振り上げた。女の足を切り裂く。手応えは、ない。
「幻像!」
「そうよ! それは幻像!」
ミリュウが嬌声を上げる中、セツナの目の前で幻像の足が光の粒子になって崩壊した。足だけではない。足から、全身が崩れ去る。セツナは、たった一撃で幻像を破壊できたことに驚きを覚えたが、同時に、これならば敵ではないと確信した。幻像を壊し尽くせば、いつかはミリュウの本体を倒すこともできるのだ。
だが、周囲のミリュウたちは余裕のある表情でこちらを見ていた。さっきまでとは明らかに異なる艶然たる笑顔。セツナが一瞬見とれるほどの笑みは、彼女が勝利を確信したからなのかもしれない。
「なにがおかしい?」
セツナが半身に構えると、ミリュウは鏡を胸の前に翳した。またしても鏡面が光を発する。また幻像を増やすのかと思ったのも束の間、残る九人のミリュウのうち、八人の体が光の粒子となって崩れ去った。火の粉よりも眩い光の粒子は、ひとり無事だったミリュウの鏡の中に吸い込まれていく。
本物のミリュウは、左前方に立っていた。彼女は笑いを隠し切れないのか、艶やかな笑みを浮かべたまま、告げてくる。
「条件は満たされたのよ。あなたが黒き矛を使って幻像を壊してくれたおかげでね!」
再び鏡が光を発したつぎの瞬間、セツナはただ唖然とした。
ミリュウの手には、カオスブリンガーが握られていた。セツナは一瞬で理解する。それは間違いなく、セツナの手にした黒き矛と同質のものなのだ、と。鏡の力生み出した幻像なのだろうが、とてもそれだけとは思えない何かがある。彼女は、条件を満たしたといったのだ。それはミリュウの幻像を攻撃することだったに違いないのだが、そういう条件があるということは、彼女が簡単に生み出した幻像とはひと味違うものだろう。
たとえば、黒き矛の力まで再現しているのかもしれない。
「カオスブリンガー……!?」
「あたしは黒き矛のミリュウ、ってところかしら」
ミリュウが地を蹴った。セツナは即座に矛を薙ぎ払う。激突音とともに火花が散る。両腕に凄まじい衝撃がかかる。いままでに感じたこともないくらいの圧力。ミリュウの振るった黒き矛とセツナの黒き矛がぶつかり合ったのだ。
「あはは! これが黒き矛の力! これがあなたの! 凄い! 凄すぎる!」
「くっ! こんな馬鹿な……!」
立て続けに叩き込まれる斬撃のことごとくを受け止め、受け流し、弾き返しながら、セツナは、想像もできなかった状況に歯噛みした。ミリュウの鏡が生み出した黒き矛は、紛れも無くカオスブリンガーであり、形状はおろか、力も同じだけ発揮されている。一撃一撃が重く、破壊的な衝撃となってセツナの全身を駆け抜けるのだ。両手が痺れ、全身の筋肉が悲鳴を上げる。セツナも応戦するのだが、繰り出す攻撃のすべてが受け止められ、弾かれ、打ち返された。完全に同等だった。
(いや……!)
セツナは、胸中で頭を振る。
力も速度も、ミリュウのほうが上なのだ。
(どういうことだ!)
セツナは、内心悲鳴を上げながら横薙ぎの斬撃を柄で受け、隙だらけの足に足払いを仕掛けた。ミリュウは飛んでかわしたが、それは大きな隙だ。矛の石突をミリュウの腹に叩き込む。さすがに避けきれなかったのだろう。セツナは十分な手応えを感じながら、ミリュウが吹き飛んでいくのを見届ける。ミリュウの体は、嘘のように飛んでいき、逃げようとしていた兵士たちの頭上をも超えた、
セツナとミリュウの力や速度の差は、互いの黒き矛の性能差ではないだろう。ミリュウのカオスブリンガーから感じる気配は、セツナのそれとまったく同じものだ。少しでも手を加えたものならば、違和感を覚えるはずだ。それがないということは、黒き矛が完全に再現されているといっていい。つまり、ふたりの力量差にほかならないのだ。
たとえば、セツナとミリュウがまったく同じ筋力を持っていれば、黒き矛による強化も同じだけ施され、同じだけの破壊力を得ることができるだろう。だが、そんなことは万に一つもありえない。彼女は訓練された武装召喚師であり、セツナは最近訓練を始めたばかりの見習いに過ぎないのだ。
ファリアやルウファ曰く、並大抵の訓練では武装召喚師としての体力を身につけることはできないという。ミリュウが魔龍窟の武装召喚師ならば、相当な訓練を積んでいると見るべきであり、セツナとの力量差は考えるまでもない。
ミリュウが死体の山に落下する。が、彼女は難なく立ち上がると、黒き矛を振り回し、風圧だけで周囲の死体を吹き飛ばした。力の使い方も、セツナより上手いのかもしれない。セツナ自身、黒き矛の力を出しきれているとは思っていなかったが、実力のある武装召喚師が手にするだけでこうも違うものかと呆れる想いがした。
全身、総毛立っている。恐怖だ。絶対的な力を前にして、竦み上がっている。さっきの一連の戦いで息が上がり、呼吸を整えることすら難しくなっていた。黒き矛と対峙するというのはこういうことなのかと、身を以て知った。理不尽極まる力だ。いまだに両手がしびれている。今度ぶつかり合えば、いつまで持つかは自分でもわからない。なんとしても隙を見出し、ミリュウを倒さなくてはならない。でなければ、自分が殺される。
「素敵な力。圧倒的で、暴力的な力。こんな力を手にすれば、世界だって変わって見えるわよね?」
ミリュウが、背後に向かって矛を一閃した。断末魔の悲鳴が上がったかと思うと、彼女の後方に聳えていた数本の木が横倒しに倒れ始めた。矛の切っ先が届く距離ではない。まるで斬撃そのものを飛ばしたかのように、矛が発生させる圧力だけで木を切り倒したのだ。セツナも似たようなことをした記憶があるが、段違いの威力だった。
息を呑む。
(これが……)
これが、黒き矛の力なのだ。
火の雨を降らせながら倒れていく木々の間、剣圧によって死んだ兵士たちの亡骸が見えた。エイン隊の兵士たちに違いない。こちらの状況を窺っていたのだろう。エインは、場合によってはセツナを置いていくという判断を下さねばならず、そのためにもセツナの現状を把握しておかなくてはならなかったはずだ。
「あんたたちはさっさとここから脱出して、本隊と合流しなさい。そしてこういうのよ」
ミリュウが、カオスブリンガーを回転させながら、彼女とセツナの間で固まっていた兵士たちに声をかけた。兵士たちがはっとなる、
「ミリュウが黒き矛の制圧に成功したってね」
「はっ、はいっ!」
兵士たちは、一刻も早くこの炎の海から脱出したかったに違いなく、ミリュウの命令に即答すると、脱兎の如く駆け出した。あまりに早い反応に、彼女は軽く肩を竦めた。
「現金なものよね、人間って。どうせ、死ぬのに」
ミリュウは、酷薄に笑った。森の外にいるエインたちのことを察知しているのかもしれない。セツナですら、森の内外の状況を把握できているのだ。黒き矛を手にした彼女にできないはずがない。実力はミリュウのほうが上なのだ。
「何人、生き延びるのかしら。そして何人、合流できるのかしらね?」
ミリュウが黒き矛の切っ先を地面に向け、石突を天に翳した。柄頭に埋め込まれた宝玉が光を発するのを見た瞬間、セツナは、ミリュウに向かって駆け出していた。だが、間に合わない。宝玉から放たれた光は、森を包み込むと、森を焼く炎を黒き矛の中に取り込んでいった。瞬く間に視界が闇に閉ざされた。しかし、森は焼き尽くされた後だ。頭上を遮るものはほとんどなにもない。月や星の光が届いているのだ。戦闘に支障はない。
セツナは、地面を蹴って跳んだ。一直線にミリュウに近づく。炎を吸った黒き矛を相手に距離を取って戦うという選択肢はなかったのだ。その恐ろしさは、自分が一番良く知っている。
「あなたは、生き延びられる?」
ミリュウが凄絶な笑みを浮かべた。