第二千三百五十八話 惰眠を貪るもの(一)
ランスオブデザイアの試練を突破したセツナがつぎに開いたのは、その隣の扉だった。
喪服の女に第一の試練を突破したことを祝福されるのもほどほどに聞き流し、つぎの扉を即座に開いたのは、一秒でも早くこの最終試練を終わらせ、現世に舞い戻りたいという一心にほかならない。地獄にいるのは、試練のため、自己鍛錬のためだ。
地獄に居着くためなどでは、ない。
扉を開いた瞬間、扉の中へ吸い込まれるようにして、空間転移が起きた。ランスオブデザイアの試練のときと同じだ。扉は、あの塔とは別空間に繋がっていると解釈したほうが良さそうだった。もしかすると、地獄の中ですらないのかもしれない。
気がつくと、闇の中にいた。
重力があり、地面がある。その地面の上に立っている。第一の試練のような不条理さは、いまのところ感じられない。第一の試練は、いきなり汚濁の海の中に突き落とされ、絶望的な激痛との苦闘の連続だったものだが、それを想えば、なにも見えない無明の闇など、優しいにもほどがあると想わざるを得ない。
闇。
どこもかしこも闇しかなかった。
天を見上げても、地を見下ろしても、周囲四方を見回したところで、なにひとつ変わらない。一定の闇。無明の暗黒空間。光など一切なく、故に自分自身の姿すら見えなくなっている。手を目の前に持ってきても、なにも見えない。手足の感覚はあるのだ。手で自分の顔面を覆うと、その感覚だけは感じ取れた。神経は通い、五感も正常に機能している。光がないのだ。だから、なにも見えない。まるで視覚だけが機能していないような不安に駆られるほどに、なにも目に映らない。
「これが試練……?」
周囲を見回し、警戒しながら歩き出すも、なにも見えない以上、試練もなにもあったものではないと想わざるを得ない。無論、飛び込んで早々始まる試練ばかりではない、ということもあるのだが、それにしたって、なにもなさすぎではないのか。
(そう。これが試練……)
突如として頭の中に響いてきた声に、彼は身構えた。少年の声だった。遙か以前、聞いた覚えがある。夢と現の狭間で眷属が集合したとき、確かにその声を聞いた。気怠げで惰性的としかいいようのない声音。
(ランスオブデザイアの試練を突破した君になら極めて簡単な試練だと想うよ……)
あくびさえ浮かべる声の主は、試練のこともセツナのこともどうとでもいいたげに告げてきた。
セツナは、声の主を探して周囲を見回すも、やはり無明の闇の中ではなにかを探し出すことはできない。闇に目が慣れる、などということはない。
どれだけ夜目が利こうとも、無明の闇の中では無に等しい。夜の闇は、完全な闇ではないのだ。どこかに光がある限り、闇は不完全なものとなり、認識可能となる。その点、この無明の闇は、そういうわけにはいかなかった。どれだけ時間が経とうと、目を凝らそうと、状況に変化はあるまい。
「この闇の中であんたを探し出せ、というわけだ?」
セツナは、疑問に想いながらも口にした。声の主のように念で会話ができるわけではない以上、口に出す以外に意思を伝える方法はない。すると、やはり、頭の中に声が響いてきた。
(まあ、そういうこと……。っていうか、本当にただそれだけのこと……)
とにかく言葉を紡ぐことすら億劫そうな、そんな気配さえ漂う少年の声は、聞いているだけで眠たくなってくるようだった。そして、ようやく思い出す。声の主は、ロッドオブエンヴィーだ。そういえば、ロッドオブエンヴィーは、眠たげな少年の姿をしていたのだ。思い返せば、黒き矛の眷属たちは個性豊かな面々ばかりだった。とりわけ印象に残っているのがメイルオブドーターだが、ロッドオブエンヴィーも、思い出せば個性的ではあった。ただ、咄嗟には思い浮かばない辺り、あの辺りの記憶が曖昧になっている証拠だろう。
夢現の狭間での出来事は、不鮮明なのだ。
(君なら……ランスオブデザイアの試練を乗り越えた君なら……すぐに終わるよね……)
ロッドオブエンヴィーは、実に眠たげに告げてくる。まるで寝入っているところに間違えて押しかけてしまったような気まずさを覚えたのは、セツナのひとの良さによるものだろうか。
(うん……それでいい……。さっさと終わらせよう……?)
などと、あくび混じりにいってくるロッドオブエンヴィーだったが、セツナは、ふと思い至ることがあり、憮然とした。
(もしかして……言葉を発することすら面倒ぐさがってんのか)
だから、頭の中に直接話しかけてきているのではないか。
(ご明察ー)
不意に脳内に響いた声に、セツナはただただ驚愕した。
「耳で聞くのもかよ!?」
(うん……)
セツナが驚きのあまり大声を発すると、彼は、あっさりと認めた。そのあまりにもあまりなあっさりさには、セツナもなにもいえなかった。
(だって……眠いし……)
「ああ……さいですか」
返す言葉もないとはまさにこのことだ。相手がそう認めるのだ。こちらも、否定する言葉を持たない。納得するほかないのだ。これがロッドオブエンヴィーという眷属の持つ個性であり、彼の有り様なのだ、と、認識するしかない。
嘆息しかけて、頭を振る。そもそも、彼ら眷属についてもそうだが、黒き矛にしたって、セツナは、本当のことをなにも知らないのだ。なにも知らないものに対して勝手に期待し、勝手に期待を裏切られたことを嘆くのは、愚か者のすることだろう。そのような愚者にはなりたくはない。
(だから……さっさと試練を終わらせよ……? 終わらせてくれれば、また眠れるんだ……)
「そんなに眠りたいのか……」
(眠るのがぼくの仕事だから……)
「そんな仕事……」
思わず羨ましいといいかけて、彼は頭を振った。一瞬でも羨ましいと想った自分が愚かだと考え直す。惰眠を貪ることに幸福を覚えるのは、普段、懸命に生き抜いているからにほからならない。常に眠り続ければ、それこそ、地獄なのではないか。
「俺はごめんだな」
すると、しばしの間があった。その沈黙は、周囲を包み込む無明の暗黒の重圧も相俟って、とてつもなく長く感じられた。数秒、数十秒のことかもしれない。しかし、セツナの体感としてはその数倍から数十倍の長さがあった。おそらくは、この音さえ存在しない暗黒空間が、セツナの五感を狂わせているのだろう。そしてそれが試練の一環なのだろうということは想像がつく。
(……さては……頑張り屋さんだな……君……?)
「そういうつもりはないが……」
ロッドオブエンヴィーの言葉は、セツナをからかっているわけではなく、素直に想ったことを伝えてきたという感じがあった。悪意はなく、むしろ、好意に近い感情があるようだ。頑張り屋さんという言葉に、史つぃみが込められている。どういうつもりなのかはわからない。わからないが、セツナは、ロッドオブエンヴィーが案外、話のわかる相手なのかもしれないと想ってしまった。告げる。
「現実のほうが楽しいってだけさ」
(……そう想っていられるうちが一番だよ……)
「……かもな」
彼の考えを否定するつもりはない。
確かに、現実には辛いことだってたくさんある。実際問題、セツナは現実の辛さから逃避するようにして地獄に堕ちたのだ。セツナ以上に現実に絶望し、夢想の中に逃避する人間など、ごまんといるだろう。だが、それでも、セツナはこの夢のような地獄の試練を突破し、地獄のような夢を終わらせなければならないと想っていた。そうして、現実に回帰するのだ。
現実の中でこそ、あがくために。
(まあ……とにかく……頑張って……)
なにがとにかくなのか、ロッドオブエンヴィーは、セツナの心情を理解したようにいってきた。
(頑張って……ぼくを探して……ぼくに夢を見させて……)
彼は、何度目かのあくびを浮かべた。
(お願いだよ……)
この試練の試験官とでもいうべき存在に早期解決を懇願されることの異常性に対し、セツナは、ただただ呆れるよりほかはなかった。黒き矛の眷属といえば個性的な面々ばかりが思い出されるとはいえ、それにしたって、限度というものがあるのではないか。
そういう意味では、ランスオブデザイアはまだまともな部類だったのかもしれない。彼は、セツナを試すことに全力を投入していたはずだ。
その点、ロッドオブエンヴィーはどうだ。
彼は、惰眠を貪りたいがために早く自分を探し出せという。
とはいえ、発声することで自分の居場所を悟られるような失態は冒さないようだが。
(っていうか……喋るのが面倒だっていったじゃん……)
結局そこに落ち着くのか、と、声を大にしていいたくなったが、ぐっと堪えた。
光のない闇の中、無駄に体力を消耗するのは愚策以外のなにものでもない。