第二千三百五十七話 大健康診断大会(三)
「どこまで脱げばいいんだ?」
セツナが服を脱ぎながらふとした疑問を口にすると、医師の仮装をした女神は、真剣そのものの顔で告げてきた。
「もちろん、一糸まとわぬ姿になるのだ」
「まじかよ」
「なに、心配はいらぬ。この帳は、ただの帳ではない。ファリアやミリュウに覗かれるような心配はする必要がないぞ。無論、わたしとおまえの話し声も、外には聞こえぬ」
「いや別にそんなことは心配してもいないんだがな……」
セツナは、四方を囲う帳を見回し、隙間ひとつないことを再度確認しながらいった。帳の向こう側にいるのはファリアたちなのだ。別に裸を見られたところでなにも恥ずかしがることはない。もちろん、羞恥心がないわけではないが、女神がいうことを信じていないわけでもない。彼女のいうとおり、覗き見される心配はないのだろう。
「では、なにをためらうことがある」
「そりゃあ……」
「なんだ? わたしに裸を見られるのが恥ずかしいのか? そこまで初でもなかろうに」
セツナが目線を女神にも賭せば、マユリ神は、その少女めいた美貌で笑みを浮かべた。
「だったら、マユラに代わろうか?」
「それだったらマユリ様のほうが遙かに増しだよ」
増しどころの話ではない、と、告げれば、女神は小さく嘆息した。
「……余程嫌われているようだな、マユラよ」
「あれで嫌うなってほうが無理あるだろ」
「まあそうかもしれぬが、あれもわたしの半神故な……」
「マユリ様を嫌ったことなんて一度だってないよ」
「うむ……」
マユリ神は喜んでいいのかよくわからない、といったように肩を竦める。
そんな女神の様子を見つめながら、セツナは、半ば諦めるようにいった。
「わかったよ。裸になればいいんだろ、裸になれば」
「うむ。赤子のような素直さですべて脱ぎ散らかしてくれれば良い」
「散らかしはしないけど」
適当に相槌を打ちながら、下着も脱ぎ、全裸になる。
やはり、羞恥心が刺激されるものの、ここは女神に従うほかあるまい。
なにより、自分のためであり、皆のためでもあるのだ。
健康状態の確認は、心配や不安の払拭に繋がる。
それは、今後の戦いにおいても大いに役立つことだ。
女神マユリによる健康診断というのは、やはり、彼女の持つ偉大なる神の力を用いたものだった。
聴診器を模した道具は医師に仮装するための小道具に過ぎず、それを用いることは一切なかったのだ。触診さえもない。女神はただ、セツナの全身をあらゆる角度から注視し、セツナの羞恥心を尽く刺激してくるのみであり、セツナは、検査の間、辱めに堪え忍ぶような感覚を抱かずにはいられなかった。
とはいえ、女神の力だ。
身体検査および健康診断は、思った以上に早く終わった。
女神に促されるまま服を着ると、セツナは、彼女の横に置かれた椅子に座るよういわれた。椅子に腰を下ろせば、マユリ神は、厳粛な顔をして口を開く。まるで医師を演じるようにだ。
「……随分と消耗している。おまえは、どうやら己を過信しすぎているようだ。己が人間であるという事実を踏まえ、弁えることを覚えなければ、いずれ身の破滅が舞っていること請け合いだぞ。現状ですら、全身の筋肉という筋肉、骨という骨、内臓という内臓を尽く酷使し続けてきた結果、酷い有り様だ」
「そんなに……か?」
セツナは、マユリ神の下した想わぬ判定に思わず眉を潜めた。手を見下ろす。自由自在に動く手や腕の様子に異常は見当たらない。どこにも問題はなさそうに想えた。しかし、それこそ、思い違いというものかもしれない。ファリアがいっていたように、自分のことをもっともわかっていないのは自分自身、ということだろう。女神の診断結果を疑う理由はない。
「肉体も精神も、ゆっくりと休養することで多少なりとも回復し、改善の兆しを見せるだろう。だが、おまえはそれで完全に回復したものだと、万全の状態になったものだと過信し、そのために無茶を繰り返し、積み重ねてきたのだろうな。そのつけが、いま、おまえの肉体を蝕んでいる」
マユリ神が向けてくる冷徹なまなざしに対し、疑問を差し挟む余地はない。思い当たる節は、いくらでもあった。ただの武装召喚師との戦闘ならばまだしも、神人やネア・ガンディアの獅徒、神々との戦いともなれば、肉体、精神に多大な負担がかかるような行動を強いられざるを得なかった。無理をしなければ、無茶をしなければ切り抜けられない。そんな相手ばかりだった。その結果、消耗し尽くし、膨大な負担が全身に刻まれたのだろう。
黒き矛カオスブリンガーだけで戦うのであれば、負担も少なく、消耗も少なくて済むというものだ。しかし、そういうわけにはいかないのが、獅徒であり、神属なのだ。現状、黒き矛の力だけでは対処できない相手だった。次元が違うのだ。少なくとも、複数の召喚武装を同時併用しなければ、上回ることはできない。そして上回ることができなければ、押し負ける可能性がある。押し負ければ、死ぬ。
故に多少の無茶は承知の上で複数の召喚武装を同時併用するのだ。黒き矛とその眷属をすべて召喚し、完全武装と称した状態になるのも、敵の力を上回り、少しでも勝利を確実なものとするためだ。その結果、肉体や精神にとてつもない負担を強いているのは、知っている。
そして、多少の休養を取れば、回復しきったものだと思い込んできた。
まさに女神の言葉通りにだ。
「エリナの治癒も受けてるんだがな……」
「エリナの召喚武装フォースフェザーの能力は、肉体の治癒能力を増幅するもの。蓄積した消耗を根本から改善するものではないのだ」
「だったら、どうすればいい? どうすれば、改善するんですか?」
「わたしがおまえの肉体を万全の状態まで回復してやる。なに、わたしの力をわずかに分け与えるだけのこと。大した手間でも、大それたことでもない。そもそもだ。戦いが終わるたびにそうしておけば、おまえに不安を与えることもなかったのだ。済まない」
「マユリ様……」
セツナは、女神が目を伏せてまで謝ってきたことに対し、むしろ罪悪感を抱いた。そうまでさせたのは、自分自身のほうではないか。
「マユリ様が謝ることなんてひとつもありませんよ。あなたは希望を司る女神。俺が回復を希望していなかった以上、致し方のないことです」
「……そうだ。わたしは希望女神。故におまえに希望を与えるのだ。セツナ」
女神は、椅子から立ち上がると、セツナの膝の上に腰を下ろすようにした。ちょうど、女神の美しい容貌が目の前にくる。セツナが戸惑うのも構わず、女神は両腕でもってセツナの上半身を包み込むようにしてきた。一瞬、たじろいだものの、彼はなすがままにされることにした。
そして、女神の抱擁が始まった瞬間から、セツナは、なんともいえない暖かさ、懐かしさに包まれ、目を閉じざるを得なくなった。その暖かさの中で、なにかがゆっくりと流れ込んでくるのがわかる。それが神の力であり、大いなる癒やしの力なのだろうということは、想像がついた。
そして、その癒やしの力に抗う必要など一切ないのだということもわかっていた。
ただ、女神に身を任せればいい。
そうすれば、つぎの戦いにも備えられる。
それが希望だ。
死地を巡るセツナの希望なのだ。
(そう。君は死地を巡らなければならない……)
声が頭の中に直接響いてきたのは、セツナが地に伏しているときだった。なにもかもが暗闇に包まれた暗黒空間。その真っ只中で、彼は倒れ伏している。
(この先、絶望の時代が幕を開ける……。だれもが救いを求めてもがき苦しむ未来……。されど……どこにも救いはなく、嘆きと叫びだけがこだまする無明の荒野が横たわる……。そんな世界……。そんな時代に君は向かう……。そのために……君はここへきた)
脳内に響き渡るのは、少年染みた声色。実際の姿も少年そのものだ。年齢は不明だが、外見年齢は、十代前半といったところか。どうしたところでセツナより年下にしか見えないのだが、きっと、そんなことはないのだろう。本当の年齢の怪しいものたちばかりだということは、わかりきっている。黒き矛の眷属たち。その正体が人間であるなどと想ったこともない。
(だというのに……その様。少しは情けないとは想わないのかな……)
煽っているわけでもなく、ただ事実を述べているという風な物言いにセツナは悔しさを噛みしめるほかなかった。
それは、地獄における最終試練、その第二幕。