第二千三百五十三話 エスクについて(四)
女神マユリは、セツナとエスクのふたりが機関室を訪れた理由を察していたらしい。
その淡く輝く少女染みた肢体は、通常ならば男神であるマユラ神の上半身と背中合わせになっているのだが、いまはどういうわけか、女神マユリだけがそこにいた。切り離すことのできない表裏一体の存在かと想っていたのだが、どうやらその限りではないらしい。任意に切り離すことができるとでもいうのだろうし、そうであれば、常にそうして欲しいと想うのはセツナの我が儘だろうか。マユリ神には感謝しかないし、女神たる彼女に対しては敬愛や仲間意識というものを持っているのだが、マユラ神にはそれがないのだ。できるならば、視界にも入れたくなかった。それくらい、セツナはマユラ神を嫌っている。
絶望を司る男神を嫌っているのは、なにもセツナだけではあるまいが。
ともかく、表裏一体の男神が消え、完全無欠の美しき女神となったマユリには、いつも以上の迫力と説得力があるような気がしてならなかった。希望を司る女神としての説得力だ。透き通るように白い肌は淡い光を帯び、金細工の装飾品によって飾り付けられた肢体はしなやかで、少女染みた容貌は得も言われぬ美しさだ。不快さしかない背後の男神がいないだけでこうも印象が変わるものかと想うほどで、セツナは、思わずその場に傅きかけた。
「どうしたのだ? セツナよ。わたしがどうかしたのか?」
「い、いや……いつもと様子が違うから、つい」
「……ふむ。なるほど、そういうことか」
セツナの視線から理由を察したのか、女神は合点がいったとでもいうように微笑んだ。
「マユラがいないのが不思議なのだな。椅子に座るのに不便なのでな。消えてもらっているのだよ」
「それはなんとなく察したんだが……そんなことできたんだな」
「存在そのものを消したわけではないぞ? マユラはわたしと表裏一体の存在。マユラとわたしは切っても切れぬもの。いまは、わたしの中に隠れてもらっているだけだ。しかし……この状態は、ミリュウにもエリナにも好評だったが、そうか、セツナ。おまえもこちらのほうがいいか」
「皆そういうんじゃねえかな」
「ほう……」
女神が目を細める。意外だとでもいうような反応は、彼女が、セツナたちがマユラ神をどう想っているのかを考えもしなかったということの現れに違いない。セツナたちは、マユリ神に対しては、心の底から敬い、常に感謝を念頭において接触している。背後のマユラ神への感想を一切いってこなかったのも、それだ。マユリ神とマユラ神は、彼女自身がいうように表裏一体の神だ。マユラ神への感情が、そのままマユリ神を傷つける刃になりかねない。
故にセツナたちは、マユラ神には尽く触れてこなかったのだ。それがマユリ神に、ある種の誤解として伝わっていたのかもしれない。
「ならば、しばらくはこのままでいるとしよう。マユラも眠っているだけなのでな。文句はあるまい」
「そうしてくれると、俺としても嬉しいよ」
「そうか。まさに希望だな?」
「そういうことになるかな」
「ふふ……またしてもおまえたちの希望を叶えたわけだ」
女神は嬉しそうに跳ねるような仕草をして見せた。まるで天真爛漫な少女が舞うかのような動作は、可憐としかいえない。背後にマユラ神の姿がないのも大きいだろう。マユラ神も醜悪な神ではない。むしろ、美貌の少年神であり、見た目にはなにも悪くはないのだ。しかし、印象が最悪だった。マユラ神は、絶望から掬うためという理由でセツナを滅ぼそうとした相手であり、最終戦争に関しても、煽ってきたという印象が拭いきれない。セツナの中では、数少ない嫌悪対象だった。態度にこそ現さなかったとはいえ、マユラ神の姿が見えなくなるというだけで、セツナは、少なからず幸福感を覚えずにはいられなかった。
「では、もうひとつ、おまえたちの希望を叶えるとしよう」
「……エスクのことですね」
セツナが察すると、エスクがごくりと息を呑んだ。彼は、マユリ神と面と向かって話し合ったりしたことがほとんどないのだ。緊張するのは当然のことだろう。セツナたちは、当たり前のように触れ合い、ときには冗談さえ交わす間柄なのだが、マユリ神は女神なのだ。神属。人間とは次元の異なる上位の存在。そんな相手が目の前にいるというだけで緊張の極致に達したとしても、なんら不思議ではない。
「うむ。おまえたちがここにきたのは、そのためだろう? わたしに、エスクの体に起きている異常事態について説明して欲しいのだろう」
「異常事態?」
「って、わかってたってことですかい?」
「わからぬはずがなかろう。わたしは神だよ」
女神は、慈悲に満ちたまなざしでエスクを見遣った。
「おまえが最初にこの船に乗り、わたしの前に現れたときから気づいていたよ」
「だったらなんで、そのとき教えてくれなかったんです?」
エスクの疑問は、至極当然だ。セツナも、彼と同様の想いを抱いている。
「おまえもセツナも当然のように受け入れているように見えたからだ。わざわざいうまでもないことだと想っていたのだ」
「実際は受け入れていたわけじゃなく、察してもいなかったってだけなんだが」
「そうとは気づかず、済まなかったな」
「え、いや……謝られるほどのことでは……」
エスクが狼狽したのは、女神があまりにもあっさりと謝罪の言葉を発したからだろう。神といえば、傲岸不遜だという印象がつきものだが、マユリ神に限ってはそうではない。むしろ、人間に対する彼女のあり方というのは、傲慢とは正反対のものだ。それがエスクには衝撃的だったのかもしれない。
「しかし、おまえのようなものを見るのは初めてだったので、驚いたぞ」
「はい?」
「初めて……?」
セツナは、エスクとともにマユリ神の想わぬ発言に驚くほかなかった。言葉の意味はわかるが、理解が及ばない。神をして、初めてみる存在とは、どういうことなのか。
「おまえの体は、ただの人間の体ではない。それは、理解しているか?」
「まあ、なんとなく……」
「その実情をいうとだな、エスク、おまえの肉体のうち、本来生まれ持ち、成長とともに作り上げられた部分というのは、半分ほどでしかないのだよ」
「え……?」
「つまり、おまえのいまの肉体の約半分は、別の存在によって成り立っているということだ」
マユリ神は、エスクの隆々と鍛え上げられた肉体を見つめながら、告げた。それは、やはりセツナとエスクにとっても驚くべきことだった。いや、エスクがいったように、うすうすは感づいていたことではあるのだ。ただの人間の肉体が、虚空砲を撃ち放つことなどできまい。
「おまえの肉体を構成する要素。それがなにか、わかるか?」
「……わかるわけないでしょう? そんなこと」
「だろうな。教えて上げよう」
女神は多少もったいをつけて、いった。
「それは、精霊と呼ばれるものだ」
「精霊……?」
「精霊だって?」
セツナは、思わず声が裏返るのを認めた。まさかここで聞く名称だとはまったく想っていなかったからだ。そして、精霊と聞いて真っ先に思い浮かんだのが、マリアに抱きかかえられた童女姿の精霊アマラのことだったというのも大きい。エスクが茫然とした様子で聞いてくる。
「知っているんですか? 大将」
「あ、ああ……会ったことがあるんだ。マリアと一緒にいたんだよ。アマラっていう草花の精霊がな」
「セツナ。おまえの会ったという精霊も、精霊の一種に過ぎないのだ。精霊とは、万物に宿る意思の発露であり、このイルス・ヴァレのあらゆる場所、あらゆる空間に息づく極めて普遍的な存在なのだ。自我を得、姿形を持って顕れることは極めて稀だがな」
「……つまり、アマラは希有な存在だったってことか」
「そういうことになる。アマラなる精霊がどのような精霊なのかは知らぬがな」
「マリアの手伝いをしていたんだよ……どういうわけかさ」
セツナは、そこでアマラについて簡素な説明をした。すると、女神は面白おかしそうに目を細めた。
「ふむ。おそらくは、マリアの研究に興味を持った精霊が形を成した、というところだろう。精霊は無邪気で純粋だ。好奇心に突き動かされて発現し、人間に干渉する。百万世界の多くの世界で、そうだ。まれに精霊の生まれ得ぬ世界もあるようだが……」
「へえ……」
「……つまり、俺の体の大半がその精霊の好奇心によって構成されている、と?」
エスクは、未だ信じられないという面持ちで自分の両手を見下ろし、足を上げたり下げたりした。自分の体が自分の意思のまま動くかどうかを確かめているようだった。
「そうだ」
「でも、それはおかしくないか? エスクの体は……」
「いや、おかしくはありませんぜ、大将。俺は、死にかけてたんだ。この左腕だって、失ったはずなんだ。体もぼろぼろで……海を漂っていた」
「精霊たちが、そんなおまえに興味を持った。そして、おまえの肉体を構成する要素となったのだ。おまえを死なせないために。おまえを失わないために」
「それで……俺は生き延びたのか。なるほど、合点がいった」
エスクは、晴れ晴れとしたような口調でいう。
「大将、俺はずっと不思議だったんだ。死にかけてたはずの俺が、なぜ、五体満足で浜辺に打ち上げられていたのか、ずっと、気になっていた。考えても考えても答えなんて出るはずもないわけだ。精霊……精霊か……」
「精霊って、意思を持っているんだよな? だったら、エスクに興味を失ったらどうなる?」
「当然、エスクの体はばらばらになり、死ぬだろう」
「そうか……」
「そうか、っておい」
セツナは、当然の如く受け入れるような反応を見せたエスクに驚いた。
「それでいいのかよ」
「よくはありませんが、現状、俺にはどうしようもないでしょうし、もし、そのときがきたなら受け入れるしかありませんぜ、大将。なんたって、こうして生きていることすら、精霊が俺に興味を持つっていう奇跡の産物以外のなにものでもないんですし」
「そりゃあ……そうだけどよ」
「まあ、神たるわたしならば、おまえの肉体を復元することも容易いがな」
「……それを早くいってくれよ、マユリ様」
「ふふ。なに、心配することはない。もし、精霊たちがエスクから興味を失ったとて、そのときにはわたしがエスクの肉体を復元してあげよう。エスクが死にたいというのであれば、話は別だが」
女神が、ちらりとエスクの表情を窺ったのは、エスクがどういう由来でセツナとともに戦うようになったかを知っているからだ。マユリ神は、セツナの記憶を覗き見たことがある。つまり、エスクが死にたがりだということも知っているということだ。
「エスク……?」
渋い表情の彼は、どこか遠くを見ているようだった。その遠くとは、おそらく過去だろう。彼が今日まで歩いてきた道程。そのいくつかの光景、場面には、セツナたちもいるはずだ。ともに、戦ってきた。
「……いまはまだ、死ぬわけにはいきませんとも」
「ああ」
セツナは、エスクの力強い回答に心底安堵した。彼がまだ死に場所を求め続けていることは、なんとなく察している。それでも、いましばらくは一緒に戦ってくれるということには、安心するのだ。
彼を失いたくはなかった。
戦力的な意味ではなく、人間として、だ。




