第二千三百五十二話 エスクについて(三)
「で、俺の能力っていっても、これだけですぜ?」
「うん?」
セツナは、エスクの軽薄なまでの断言に小首を捻った。あのとき、ニアフェロウの戦場でラーゼン=ウルクナクトと激突したときのことが脳裏に浮かぶ。激しい戦闘だった。それこそ、予想だにしなかったほどの激戦の中、ラーゼンはソードケインと虚空砲以外にも、ある行動を取っている。
「だったらあのとき、ホーリーシンボルを使ったのはどこのだれなんだ?」
セツナの脳裏には、白い光の輪を背負う戦士の姿がありありと浮かんでいた。それはまさしく、ホーリーシンボルの加護を受けていることの証明であり、その瞬間、彼の身体能力が向上したことは記憶違いなどではないはずだ。しかし、彼は身に覚えがないとでもいうように困惑顔を見せた。
「それがわからないから、俺も困り果ててるんですよ」
「どういうことだよ。なんでおまえにわからないんだ? あれ、どう見たってホーリーシンボルの能力だっただろ」
「まったく仰るとおりで。実際、あの瞬間、レミルにホーリーシンボルを使ってもらったときと同じ感覚でしたから」
「つまり、ホーリーシンボルを使ってくれたんだろ、だれかが」
「だれがっすか」
「それを聞いてるんだよ」
「ですから、そんなことはありえないんすよ」
エスクが強い口調で否定した。広い訓練室内。彼の声が反響する。
「ホーリーシンボルは、レミルが使ってたんです。そのレミルは、俺の目の前で死んだ。ホーリーシンボルは、あいつが持って……」
「持って……それから、どうなったんだ?」
「レミルの亡骸も、ドーリンの亡骸も、あの戦いの中で確保することも、場所を移すこともできなかったんです。だから、そのあとどうなったのかわからないんですよね……」
彼は後悔に満ちた表情をしたものの、それは致し方のないことだ。あの戦場。敵は雲霞の如く押し寄せ、戦死者の亡骸をどうにかすることなどだれにもできなかった。そして、そんな状況下で“大破壊”が起きた。聖皇復活の儀式によって生じた莫大な熱量が、ワーグラーン大陸をでたらめに破壊し、なにもかもが変わり果てたのだ。当然、最終戦争の最終局面となったあの戦場にも、破壊の嵐は吹き荒れただろう。
エスクは、気がつくと海に投げ出されていたという。そして。
「おまえは、ここに流れ着いた」
彼やネミアの話によれば、東帝国領南端の漁村マグウの浜辺に漂着したとのことだ。そこで、“雲の門”と出会い、彼は、仮面の剣士として生きていくことになる。
「はい。どういうわけか」
「つまり、ホーリーシンボルもここに流れ着いた可能性はあるな」
「そりゃあね。ですが、だったら、あのときあの場にいた東帝国のだれかが使っていたってことになりますよね」
「そうなるな……」
しかし、思い返してみたところで、それらしい東帝国兵の記憶はなかった。セツナは、カオスブリンガーとメイルオブドーターの併用によって、感知範囲を大きく広げていたのだ。その感知範囲内でなんらかの動きがあれば察知できるはずであり、ホーリーシンボルを掲げるものがいれば、発見できなかったわけがないのだ。事実、エスクにホーリーシンボルの光輪が発現した瞬間、セツナはまず、他人の横槍を疑ったのだ。しかし、ホーリーシンボルを掲げたものなどいなければ、類似の召喚武装を使っているようなものも発見できなかった。
「じゃあ、なんなんだよ、いったい」
「それがわからないから困ってるって、いってるじゃないですか」
エスクがむしろセツナを非難するようにいってきたが、彼は黙殺すると、腕組みして考え込んだ。あのとき、ホーリーシンボルか、あるいはそれに類似したなんらかの力が発現したのは間違いない。セツナの記憶違いなどではないことは、エスクの言動からも明らかだ。では、いったいどういうことなのか。そこでセツナは、あるひとつの仮説に思い至る。
「……虚空砲と同じなんじゃないのか?」
「はい?」
エスクがきょとんとする。
「おまえ自身が発現させたってことだよ。ホーリーシンボル」
「はあ? そんなこと、ありえるはずないじゃないですか」
「それなら、虚空砲はどう説明するんだよ」
「いやあ……そういわれると、返しようもないんですが」
彼は、困り果てたように左腕を見下ろして、左方向に掲げた。なんらかの反動にその隆々たる左腕が揺れると同時に大気が撓み、光壁が歪んだ。重い激突音。虚空砲を撃ったのだ。
「虚空砲は、どうやって使えるようになったんだ?」
「化け物との戦闘中、無意識に使って……それから意識するようになれば、ご覧の通り」
「じゃあ、ホーリーシンボルも意識してみたらどうだ?」
「ホーリーシンボル……ねえ。どう意識すりゃあいいのやら……」
彼は怪訝な顔のまま、考え込み出した。セツナは、そんな彼を見つめながら、自分の仮説が正しいに違いないと思い始めていた。虚空砲とやらの原理が不明である以上、ホーリーシンボルと同種の光輪が彼の無意識によって発現したなんらかの未知なる能力である可能性は、決して低くはあるまい。
そして、それは起きた。エスクの背中が輝き出すと、その白くまばゆい光が輪状に収束していったのだ。まさにホーリーシンボルの能力によって発現する光の輪そのものであるそれは、背後からエスクの姿を照らし、さながら後光のようだった。セツナは、思わずうなった。
「おお……」
「これは……」
エスクにも実感があったのだろう。彼は両手を握りしめ、背後を振り返った。彼の目には、泰然と輝く光の輪が映り込んだことだろう。
「やっぱり、おまえの力だったってわけだ」
「……それは……わかりましたけど、でも、どうして……?」
「人知の及ばぬ出来事には、人知を超えた存在に聞いてみるのが一番だな」
セツナは、ホーリーシンボルの輝きを懐かしそうに、そして愛おしそうに見つめるエスクの姿にある種の感傷を抱きながら、光壁制御装置を操作し、解除した。
虚空砲にせよ、ホーリーシンボルの光輪にせよ、人間の持ちうる能力とは考えがたい。太古には魔法が技術として技能として存在していたというのだが、エスクの魔法めいた能力が魔法そのものとは考えがたかった。魔法には、術式が必要だ。ミリュウが擬似魔法の行使のため、ラヴァーソウルで複雑極まりない術式を構築するように、なんらかの儀式、技法が必要なのだ。エスクの能力には、それがない。精神的、肉体的な消耗はあるに違いないが、だとしても、魔法とは思えなかった。
では、いったいなんなのか。
それを知るためには、やはり、人知を超えた存在である神にこそ、疑問をぶつけるべきだろう。
機関室に入れば、長椅子に腰掛けたマユリが、まるで美女を侍らせるようにしてミリュウとエリナを隣に座らせ、悦に入っていた。その様子を目の当たりにしたセツナは、なんともバツが悪くなったものの、女神がセツナたちの接近に気づかないわけがなく、わざと、エリナの頭を撫で、ミリュウの肩を抱き寄せているに違いなかった。
その上、長椅子に腰掛けるマユリは、普段とは異なり、背にマユラの上半身がなかった。背中にマユラがいれば、背もたれにもたれられないから、どうにかしているのだろうが、マユリ神だけの姿というのは初めて見るが、新鮮であると同時に、ただひたすらに美しく、かつ神秘的にして幻想的だった。そして、そんなことができるのならば、いつもしてほしいものだと想ったりもした。
「セツナにエスクではないか。どうしたのだ?」
マユリが金色に輝く瞳でこちらを見てくると、ミリュウもその視線に釣られるようにして目を向けてきた。
「あら、セツナもマユリんとおしゃべりしにきた……わけではなさそうね?」
「ああ」
うなずいてから、エスクを見る。彼の所在なげな様子に察するものがあって、セツナはミリュウに話しかけた。
「ミリュウ、エリナ、少しの間、席を外してもらっていいか?」
「別にいいけど、わざわざ席を外さないといけないことなのかしら?」
「まあ、そういうこと。詳しいことは後で話すよ」
「そう。だったら、なにもいわないわ。いくわよ、エリナ」
ミリュウがあっさりとした様子で要請を受け入れてくれたことにほっとした。ミリュウとエリナのふたりは、名残惜しそうに席を立つ。
「はい、師匠! マユリ様、またあとで!」
「うむ。エリナもミリュウも元気でな」
マユリ神もふたりとの一時の別れを心底惜しんでいるようで、ふたりが機関室から出て行くまでずっと見つめ続けていた。そんな女神の様子にセツナは肩を竦める。
「別に長い別れじゃあるまいし」
「そうだが、しかし、別れは惜しい」
「そんなに気に入ってるんだ?」
「ふふふ……ミリュウ、エリナとの会話ほど楽しいものはないぞ?」
「そうか……それは悪いことをしたな」
セツナが素直に謝ると、女神は頭を振った。
「いや、よい。エスクのことで話をしにきたのであろう?」
女神は、椅子から立ち上がると、超然としたまなざしを向けてきた。その黄金色に輝く瞳の奥からは絶大な力を感じ取れ、セツナは息を呑んだ。