第二千三百四十九話 再び、空へ
ビノゾンカナンは、西ザイオン帝国南東部の大都市であり、南方戦線における一大拠点だという話だった。規模としては、北方戦線におけるディヴニア以上ということであり、南部大戦団最大の拠点のひとつとして利用されていた。その上、東帝国との国境に極めて近いため、西帝国側の拠点としてもっとも利用価値が高かった。東帝国軍が南部戦線を有利に進めるべく、真っ先に攻略しようとしたのも当然のことだろう。
しかも、だ。
話によれば、ビノゾンカナンが水計によって外部との連絡を絶たれたちょうどそのころ、ビノゾンカナンには、南部大戦団総司令官ミルズ=ザイオンが、ビノゾンカナン駐屯部隊指揮を執るべく、滞在中だったというのだ。つまり、東帝国軍は、それを見越して水計を用いたということだ。
ミルズ=ザイオンは、その名からわかるとおりザイオン皇家の人間であり、ニーウェハインの兄に当たる。元第二皇子である彼は、元々、東ザイオン帝国に所属していた。しかし、頂点に立った長男ミズガリスの横暴に耐えかねて、西に逃れ、ニーウェの皇位継承を後押ししたという。ニーウェが皇帝となった後は、皇位継承を後押ししたひとりとして、西帝国での立場を確かなものとする一方、ミズガリス許すまじということで凄まじい執念と熱量をもって、東帝国打倒に全力を費やしていたという。
その上、彼は、皇族というだけでなく、かつて帝国近衛騎士団長と法聖公を務めたほどの人物であり、武官、文官、市民からの信頼も人望も厚かった。彼が率いる南部大戦団の部隊は常勝不敗を誇っているのは、彼が都市を転々とし、各地の駐屯部隊指揮官と密に連携を取っているからだという。それほどの人物がなぜ東帝国から追いやられたのかについては、ニーナの評価が的を射ているのだろう。
『ミルズ兄上のやり方は、ミズガリスには鼻について仕方がなかったのだ。きっとな』
皇族として人民の上に立ち、支配することを是とするミズガリスには、高官のみならず、下士官に至るまで直接薫陶を授けようとするミルズがわかり合えるはずもなく、反発し合うのは当然のことなのだ、とニーナはいった。
そんなミルズだが、彼が西に逃れ、ニーウェを後押ししたのは、ニーナにも予測不可能なことだったようだ。ニーナは、ニーウェがミズガリスの横暴を許せず、立ち上がるだろうことは予想していたようだが、そのためにミルズらを利用することになるとは、想定外のことであり、しかしながら、彼らの協力によって西帝国が瞬く間に東帝国と拮抗するだけの勢力に成長したのは紛れもない事実であり、そのことには感謝しているという。そして彼女は、こうもいった。
『ミルズ兄上の求心力なくしては、現在の西帝国は存在し得なかったといっても過言ではない。そしてそれは、いまも同じなのだ。ミルズ兄上を失えば、西帝国は片翼をもがれたも同じ。そうなれば、東の連中はますます勢いに乗り、我々は勢力の維持も難しくなるだろう』
故に、ビノゾンカナンを早急に救援し、ミルズ=ザイオンを保護して欲しい、と、ニーナはいった。
つまり、この度の急な救援任務は、西ザイオン帝国存亡の危機といっても言い過ぎではないということらしい。
ニーウェハインがみずから救援部隊を編成しようとしていたのもそのためであり、場合によっては、大総督みずから出陣させるつもりだったのだ。それくらいミルズ=ザイオンは重要人物であり、だからこそ、東帝国はここぞとばかりにビノゾンカナンを計略でもって陥れたのだろう。
もし、ミルズが窮状により、東帝国に降るようなことがあれば、それこそ、西帝国にとっては大打撃となりかねない。
『もっとも、執念深い兄上のことだ。みずからのためにミズガリスに頭を垂れることなどあるまいが』
しかし、部下や臣民のためならば話は別だ、と、ニーナは、ミルズの名誉のためにいった。
ビノゾンカナンは外部との連絡が遮断されている。いわば孤島のような状態にあり、食料を外部から持ち運ぶこともできない状況なのだ。しばらくは、備蓄でなんとかなるかもしれないが、その状況が長引き、食料が底を尽きればどうなるか。市民の命が危険に曝される。
ミルズ=ザイオンは、そうなれば、恥を忍んで東帝国に降伏するかもしれない。
「まあ、あたしたちにはウルクナクト号があるものね。なんの問題も心配もないわけよ」
「陛下も安心されたでしょうね。わたしたちが戻ってきて」
「これ以上ないくらいの絶好の機会だったわけだ」
方舟に大量の食料が運び込まれる様子を眺めながら、そんなことを話し合うミリュウたちを横目に、セツナは、別れを惜しむエスクたちに視線を向けた。
帝都シウェルエンド近郊。方舟の着陸地点にセツナたちはいる。方舟には、ビノゾンカナンの現状が不明であることを踏まえ、膨大な量の食料が運び込まれていた。食料だけではない。それら食料を調理するための調理人たちも乗り込んでいる。軍医もだ。
その代わりではないが、“雲の門”の連中は、シウェルエンドに降ろしていくことになっていた。彼らの立場、身分については、セツナが皇帝ニーウェハインと直談判して、十分なものを確保してもらっている。彼らは、西帝国同盟者セツナ=カミヤの家臣として光霊区の警護任務や雑務に当たることになったのだ。
光霊区は、光武卿ランスロット=ガーランド管轄の区画だ。当然、その間、彼らはランスロットに指示を受けることとなっている。
“雲の門”の幹部を始めとする百名余りは、船に乗り、セツナとともに戦うことを決めたエスク=ソーマこと、ラーゼン=ウルクナクトとの別れを惜しみ、涙さえ流すものもいた。荒くれ者揃いだが、女たちに限ってはそうではない。全員が全員、武闘派ではないのだ、と、エスクがいっていた通りなのだろう。“雲の門”は、義賊の名に相応しい活動をしていて、事務関係の仕事には荒くれ者揃いの男たちではなく、そういった仕事を得意とする構成員が当たっていたのだろう。
ちなみに、“雲の門”の頭領ネミア=ウィードだけは、船の旅に同行すると言い張って聞かなかった。なぜならば、
『あいつから目を離したら、どっかいっちまいそうでさ……』
ネミアは、セツナに方舟に残ることを直訴したとき、そういった。どこか、というのは、なにも遠く離れた場所というだけではあるまい。たとえば、命を失うとか、そういう意味も込められているのだろう。ネミアが、エスクに依存していることは、彼と彼女の関わりを見ている限りわかっている。そんな彼女の強い願いだ。シウェルエンドに置いていけば、今度は、彼女がどうなるものかわかったものではない。それに、なにも船に乗るからといって、戦闘要員になるわけではないのだ。
ネミアの身体能力は、一人前の戦士並みではあるが、それだけだ。セツナたちの戦闘についてこられるようなものではない。戦力としては期待できないが、船内において雑務をこなすことはできるだろうし、なにより彼女には協調性があった。非戦闘員であるミレーユやゲインと上手くやってくれるのであれば、問題はなかった。
ミリュウも、乗船員がひとりふたり増えるくらいならば我慢するといっていた。
『エスクにとって大切なひとなんでしょう? あのひと』
ミリュウは、エスクと楽しそうに言葉を交わす彼女を遠目に見遣りながら、つぶやいたものだ。
『だったら、駄目、なんていえないじゃない』
彼女は、エスクやネミアの気持ちが痛いほどわかるとでもいうようにいった。大切なひとと離れ離れになることの辛さ、苦しさは、セツナにだってわかる。実際、それはとても苦痛に満ち、絶望的でさえあるものだ。
だからこそ、セツナは、皆との再会を心の底から喜んだのだし、まだ離れ離れになったままのかつての仲間たちがどこかで生き残っていることを信じて止まなかった。
「別れは、済ませましたよ、大将。まあ、いつでも会いに来れるわけですから、湿っぽい話にゃあなりませんでしたが」
エスクは、どこか困り果てたような顔をしていたし、連れ立ってきたネミアが顔を赤らめているのも不思議だった。
「あいつら、今度あったときにはしめてやる……」
などと物騒なことをつぶやくネミアの様子から、ふたりの仲をからかわれたのだろうということは想像が付いた。ふたりは、確かにからかいたくなるくらいには仲睦まじい。そんなふたりだからこそ、ミリュウも一緒にいることを認めたに違いない。
やがて、方舟への物資の搬入作業が終わったのは、七日、夜半のことだ。
船は、夜の内に空へ昇った。