第二千三百四十三話 兆し(二)
食事を終え、食器を厨房に運び込み、ゲインひとりが厨房に残ると、ほかの皆は広間へと向かっていった。そんな中、レムだけは、厨房に残り、食器洗いと後片付けを手伝っていた。シーラとエリナも手伝おうとしたが、レムが強引に広間に向かわせたのだ。ミリュウからなにやら大切な話があるらしいし、シーラとエリナには、その話に参加するべきだと言って聞かせたのだ。レムは、セツナの下僕であり、セツナの命令であればどのようなものでも唯々諾々と聞くだけだ。話し合いに参加する必要はない、といえば、シーラもエリナも不承不承納得したように厨房を去った。
レムが強引にもふたりを厨房から立ち去らせたのには、ちょっとしたわけがあった。
ゲインとふたりきりになりたかったからだ。
実際には、広々とした厨房には、軍属の調理人たちが所狭しと働いているのだが、レムとゲインの話が彼らの記憶に留まるようなことはあるまい。シーラとエリナとは違う。聞き耳を立てるほど、こちらに興味など持ってはいまい。
ゲイン=リジュール。
ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》時代から、セツナたち専属の調理師であった彼は、ファリアたちがリョハンに逃れた後も、ファリアたちの元で調理師としての腕を振るい、リョハンの空中都において、多くのひとびとの舌を喜ばせてきたという。リョハンにはない料理の数々は、リョハンのひとびとに衝撃と感動をもたらし、戦女神がもたらしたもうた恵みである、との評判すら立ったほどだという。そんな話をミリュウやエリナから聞いたが、実際、それくらいの腕前を誇るのが彼だ。
セツナが《獅子の尾》においてもっとも自慢できるのが、彼のような腕前の調理人を引き抜くことができたことである、といいたくなるのもわからない話ではなかった。
そんな彼がつい先ほど見せた表情が、レムには気にかかって仕方がなかったのだ。彼はある瞬間、極めて神妙な表情を見せた。それは一瞬の出来事であり、レム以外のだれもが見過ごすほどの変化に過ぎなかった。しかし、レムは見逃さなかったがために気にかかり、食事を終えるまで、ずっと彼の様子を窺い続けていたのだが、ついぞ、その表情の意味を察することができないまま、いまに至っている。
故に彼女は、ミリュウがいった食事後の大切な話をセツナたちに任せることにして、自分はゲインに表情の真相を聞き出すべく、厨房に残ったのだ。大量の食器を洗い、片付けを手伝うという理由で。
「これくらいの食器、わたしひとりで十分なんですがね」
「でしたら、ふたりでさっさと片付け、ミリュウ様のお話を伺いに参りましょう」
「ふむ……それはいい。レムさんならあっという間に食器洗いも済ませられるでしょうしね」
彼は屈託なく笑ったが、その表情には陰りがあった。普段、どのようなことがあってもそんな表情を見せることのない彼だ。その些細な変化が、レムには気がかりだった。
厨房の片隅。ほかの調理師たちの邪魔にならない洗い場で山積みになった皿や食器の類を前にして、レムは腕まくりをした。同時に“死神”たちを呼び出す。瞬間、調理場が一瞬凍り付いたような空気になったが、彼女は構わなかった。軍属の調理師たちが“死神”を目の当たりにして、驚愕したのだろう。彼らに説明する義理はない。危害を加えるわけでもないのだ。
「……ゲイン様」
レムは、大皿を手に取り、水道の蛇口を捻らせながら口を開いた。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
ゲインは、レムの隣に立ち、既に皿洗いを始めている。広い厨房。洗い場はいくつもあり、それぞれひとつひとつが大きかった。ふたりが並んで洗う分には十分すぎるほどだったし、“死神”たちが参加する余地も十二分にある。
「あのとき、ゲイン様がされた表情の理由、わたくしに教えていただけないものでしょうか?」
「表情の理由……ですか。さて、なんのことでしょう」
「隠さずともよろしいではありませんか」
レムは、ゲインが隠したがっていることから、余計に不安になった。
「御主人様が帝国料理の味付けを薄いといったとき、ゲイン様が神妙な表情をされたこと、わたくしは見逃しておりませんよ」
「……レムさん。それはきっと気のせいでしょう。あるいは、自分の味付けが気に食わなかったのかも」
「そんなはずはありませぬ。あのとき、ゲイン様はなにも口にされておられませんでしたもの」
レムの脳裏には、あの瞬間の光景がありありと浮かんでいた。そもそも、ゲインは、セツナと会話をしているときにものを口に含むという無礼を働くような人間ではない。ゲインは、セツナを主君と仰いでいる。いつごろからか、《獅子の尾》の隊長と専属調理師ではなく、領伯とその専属調理師になったのだ。それ以来、彼はセツナを主君と仰ぎ、その忠誠心たるや凄まじいものがあった。故に彼がセツナとの会話中、物を一切口に含まないことそれ自体に大した意味はない。彼が自作料理の味付けを再確認できるはずもない状態だったということに意味があるのだ。
彼は、なにかを隠している。
「……隠せませんか」
「はい。隠せませぬ」
「……わかりました。レムさんにだけ、お話し致しましょう」
彼は、静かに息を吐くと、少しばかり躊躇いの色を見せた。しかし、やがてなにかを諦めたように頭を振る。
「セツナ様が仰られたことについて、レムさんは疑問に感じませんでしたか?」
「帝国料理の味付けに関して、ですか? いえ……特には。御主人様が味付けの濃い料理が好みなのは、知っての通りでございますし」
「……帝国料理は、然程、味付けが薄いわけではないのです」
彼が言葉を選ぶようにして発した説明にレムは目を瞬かせた。
「はい?」
「もちろん、わたしがセツナ様のためだけに用意した料理に比べれば薄いでしょうが、シウェルエンドでセツナ様が食された料理はいずれも、セツナ様の舌に適う程度の味付けでした。ですから、わたしもわざわざ厨房に立とうとはしなかった」
ゲインが、ため込んでいた想いを解き放つようにして、話を続ける。
「もし、セツナ様のお口に合わない料理ばかりでしたら、厨房に立つつもりでしたから。食事は、生きるための力です。口に合わない料理を食べ続けるのは、むしろ活力を奪われかねない。ですが、シウェルエンドで出された料理の数々は、わたしの舌で味わう限りは、セツナ様の舌に合うはずのものばかりでした」
「それなのに、御主人様は味が薄いと仰られた……」
レムは、そのことを奇妙に想った。帝国料理の味付けも、自作料理の味付けも、ゲインがみずからの舌で確かめ、そう結論づけているのだから、セツナが帝国料理の味付けを薄いと評するのは、不思議だ。セツナは、ミリュウがいったようなお子様舌の持ち主というわけではないにせよ、繊細な味の違いを正確に把握し、評するような人間ではない。美味いか不味いか、濃いか薄いか、甘いか辛いか、極めて大雑把な評価を口にするのがセツナのいいところであり、正直なところだった。雑誌などで通ぶる料理評論家のような振る舞いをすることはない。
「セツナ様は正直な方です。ときにそのせいで皆様の怒りを買うこともあるくらいには、自分に素直過ぎるくらいで、わたしの料理も、口に合わなければ合わないとはっきりといってくださいます。ですから、わたしはセツナ様の舌に合う味付けがどういったものなのか、時間をかけて、把握することができた」
「ゲイン様の料理を褒めるため、帝国料理を貶したわけではない、と」
いいながら、セツナはそういう人間だということを思い出して、くすりとした。彼は、だれかを褒めるために比較するようなことはなかった。いつだって、真剣に対象の人物を褒めるのだ。真正直に。正面から向き合って。だから皆骨抜きになる。ならざるを得ない。もちろん、すべての人間が彼のそういった良さを理解できるとは想わないし、して欲しいとも想わないが、少なくともレムたちはそう想っている。
「はい。ですから、奇妙に思ったのです。普段のセツナ様なら、帝国料理も十分に美味しいと感じるはず。もしかすると、体調がよろしくないのではないか……ですが、これも勝手な思い違いかもしれませんし、レムさんや皆さんを不安がらせるようなことはいいたくなかったのです」
「……それで、なにも仰らなかった、と。そのお気持ち、よくわかります。そして、ゲイン様の仰られることが確かならば、体調が悪くなっている可能性もあるかもしれません。では、あとで御主人様の体調を調べて頂くことと致しましょう」
話を聞く限り、不安になるほどのものでもないとレムは考えていた。シウェルエンド滞在時、セツナの体調がよくなく、味覚がおかしくなっていたという可能性がないとはいえない。セツナは、無理をしすぎるきらいがある。レムたちに心配をかけまいと、どんなときだって平然とした顔をしているのだ。そんな彼だ。味覚がおかしくなるような――たとえば風邪のような――症状が出たとしても、心配かけまいと黙っていたのではないか。だとすれば、胸をなで下ろす一方で、彼のその考えを叩き直さなければならない、と、レムはひとり奮起した。
体調が悪いのなら悪いとはっきりいってもらったほうが、レムたちとしても安心できるのだ。無論、体調の悪化は不安を禁じ得ないが、だからといって知らないままでいるよりはずっといい。なにせ、わかっていれば、こちらも対応できるのだ。セツナにゆっくり休んでもらうだけの時間を作ることだってできる。
体調を悪化させたまま、無理をする必要などどこにもないのだ。
「ええ、是非そうして頂きたけると、わたしとしても安心できます」
「しかし、さすがはゲイン様でございますね」
レムは、ゲインを心から賞賛した。
「御主人様の味の好みに関しては、ゲイン様の右に出るものなど、これから先出てくることなどないでしょう」
「そういってくださると、専属調理師冥利につきますな」
ゲインは朗らかに笑うと、残りの食器に手をつけた。食器洗いは、既に最終段階に入っている。レムが呼び出した“死神”たちは、レムとゲインの会話の最中も洗い続けていて、洗い終わった食器から水分を拭き取り、食器棚に戻すという一連の作業も行っていたのだ。
その後、食器洗いを終えたレムは、腕輪型通信器でマユリ神に呼びかけ、セツナの体調検査について相談した。女神は、セツナが船に戻り次第、それとなく探ってみよう、と約束してくれた。そのとき、
「これだけ心配してくれるものたちがいて、セツナも果報者だな」
などと、女神が至極当然のことをいってきたので、レムは笑うしかなかった。
セツナは、それに値するだけのことを成してきたのだ。
そしてなにより、レムたちにとって、セツナはなくてはならない存在だった。彼を失うことなど、だれひとり考えられまい。