第二千三百三十六話 北方平定(一)
セツナの元にニアズーキ奪還完了の報せが飛び込んできたのは、夜中のことだった。
ニアフェロウ奪還後、セツナは、エスク=ソーマと“雲の門”に関して寛大な処置を剣武卿シャルロット=モルガーナに望み、受け入れられた。エスクと“雲の門”はセツナ預かりとなり、エスクも“雲の門”の構成員も西帝国軍の監視下から解放されている。そこまで寛大な処置をしてくれたのは、無論、皇帝ニーウェハインとセツナの立場が同等であるという同盟関係への配慮もあるだろうし、“雲の門”が再び東帝国に与する可能性が限りなく皆無になったからにほかならない。“雲の門”がニアフェロウに残り、東帝国軍と戦おうとしたのは、エスクことラーゼン=ウルクナクトの敵を討つためだった。そのラーゼンが生きていて、彼が“雲の門”の無事を理由にセツナにつくとなれば、“雲の門”の連中も、西帝国と敵対する道理はなくなる。
エスクは、再び、セツナの下に帰ってきたのだ。
『大将……いえ、セツナ様。俺が再びあなたの剣になること、許して頂けるでしょうか?』
そういって跪いた彼にセツナは一も二もなく手を差し伸べ、立ち上がらせた。
『もちろんだ。エスク。俺に力を貸して欲しい』
『貸すなどと。俺の持ちうるすべて、セツナ様に捧げましょう』
エスク=ソーマは、セツナの家臣に返り咲いた。それは、シャルロットたちを納得させ、安堵させることにも繋がった。シャルロットたち西帝国の人間にしてみれば、ラーゼン=ウルクナクトは突如現れた強敵以外のなにものでもなく、そんなものが本当にセツナの関係者であるかなど、信じがたかったはずだ。しかし、エスクがセツナに対し、臣下の礼を取る様を見れば、その考えも変えざるを得ない。
エスクがラーゼン=ウルクナクトとして、東帝国軍の一員として、数多の西帝国将兵を打ちのめしてきたことも事実だが、それはあっさりと水に流された。西帝国軍としては、ラーゼン=ウルクナクトが味方に加わってくれたことを重大な出来事と捉えていた。それもそうだろう。これまで、ラーゼン=ウルクナクトひとりに手こずっていたようなものなのだ。そのラーゼンが味方に加われば、西帝国軍の勢いはいや増すに違いない。
シャルロットは、そういうことを踏まえた上で、エスクと“雲の門”の解放を認め、セツナの配下になることを了承したのだ。
セツナはその後、エスクと“雲の門”の連中が生還を再会を喜び合う様を眺めながら、エスクも結局はひとのいい男なのだと想ったりした。ただ死に場所を求めるだけの亡者ならば、荒くれ者揃いの“雲の門”の幹部たちに慕われることなどありはしないだろう。
そして、ニアフェロウの夜は更け、セツナは軍事施設内宿所の一室にてひとり夢の縁にいた。浅い眠りの中で、わけのわからない夢を見て、聞き知った声が覚醒を促す。
『セツナ。セツナよ。聞こえておらぬのか。無視しておるのか。だとすればわたしは哀しいぞ。さっさと反応せよ。セツナ。セツナよ』
そんな風に呼びかけられ続けて、さすがのセツナも眠りの縁から飛び起きずにはいられなかった。暗闇の中、女神の声は、すぐ側から聞こえてきていた。頭を横に倒せば、枕元に置いた腕輪型通信器が発光しているのがわかる。よく見ると、光は女神の幻像そのものであり、その小さな幻像は、セツナの姿を探しているように見える。おそらく、トールモールが横倒しになっているせいで、セツナがどこにいるのかわからないのだ。
セツナは片方の手で重い瞼を擦りながら、もう片方の手でトールモールを掴み、引き寄せた。トールモールの円盤部分表面から発せられる光の中に女神マユリの小さな幻像が浮かび上がっていて、それが闇に包まれた部屋の唯一の明かりとなっていた。
『ようやく気づいたようだな。まったく、どれほど呼びかけたと想っているのだ。無視されているのではないかと不安で仕方がなかったぞ』
「なにを心配するだか」
『後ろの奴のようにおまえに嫌われたのではないかとな』
「マユリ様に限っていえば、そんなことはありえませんよ」
セツナは、マユリ神の余計な心配に苦笑を禁じ得なかった。
『それならばよいのだがな。さて、本題だが』
「通信が届く範囲ってことは、もしかしてニアズーキからこっちに向かってる?」
『うむ。ニアズーキはファリアの機転によって、比較的容易く奪還できたようだ。ファリアと合流したならば、たっぷりと褒めてやるがよいぞ』
「あ、ああ……」
女神なりの気遣いなのだろうが、セツナは内心余計なお節介だと想わずにはいられない。もちろん、おくびにも出さないし、表情も変えないが。
『そのファリアたちだが、ニアズーキを放棄した敵軍がまた攻め寄せてくるとも限らぬのでな、しばらく現地に残るということだ』
「それは予定通りだ」
ニアズーキに割ける戦力がごく少数である以上、ニアズーキを解放したからといってすぐさまつぎの行動に移れるはずもない。ニアダールに割いた戦力の一部でも戻ってこない限り、ニアズーキを離れることはできないのだ。
『故にわたしはおまえを連れてニアダールに向かおうと想うのだが』
「なるほど」
ニアダールの戦況はというと、物量で勝る西帝国軍が押しているという話は伝わってきているのだが、詳細については不明な点が多い。たった半日足らずでの奪還に成功したニアフェロウ、ニアズーキと違って、ニアダールの奪還には数日を要する可能性がある。
両軍、真正面からぶつかり合っていて、兵力さも決して大きくはない。多少、西帝国軍が有利なだけだ。しかし、東帝国軍はニアダールを抑えているという事実があり、ニアダールに籠城することで、西帝国軍との兵力差を帳消しにすることだって不可能ではない。ニアダールを無傷で取り戻したい西帝国軍からしてみれば、籠城されれば攻めあぐねるのも無理からぬことだ。
『一刻も早くニアダールを解放することこそ、おまえの旅に必要なことだろう?』
「ああ。まったくその通りだよ」
セツナは、眠気があっさりと消えていくのを認めると、寝台から抜け出した。服を着替え、トールモールを腕に巻き付、部屋を出る。真夜中。だれもかれもが寝静まり、静寂が世界を支配していた。魔晶灯に照らされた通路を通り抜ける最中、シャルロットに話しておくべきかどうか考えたが、止めた。彼女は自室で眠っているだろう。そんなところに押しかけるべきではない。
セツナは、必ずしもシャルロットの指揮下に入っているわけではないのだ。
西帝国とセツナ一行は対等な同盟者という関係だった。
それは、ニーウェハインたっての要望によって結ばれた関係だが、この場合、その対等な関係であることが役に立った。セツナは、この同盟関係において、ニーウェハインと同列であり、西帝国に利益をもたらすためならば、いかような行動も許されていた。極論でいえば、命令を無視しても構わないのだ。もちろん、それが西帝国に不利益をもたらすような行動であれば論外だが。
(ニアダールの奪還が西帝国の不利益になることなんてないよな)
施設を抜け出すと、満天の星空の中に羽ばたく巨大な天使が待ち受けていた。方舟ウルクナクト号だ。船体の左右から生えた合計十二枚の光の翼を広げるその様は、神々しいという言葉で形容する以外にはない美しさがあり、だれもが圧倒されるだろうこと請け合いだった。ニアフェロウ市民のほとんどが寝静まり、西帝国軍の兵士たちの大半が夢を見ている中、ニアフェロウに急接近した方舟の姿を目の当たりにしたのは、セツナを除いて、夜を徹して市内を警戒中の兵士たちくらいのものだろう。そして、彼らは、方舟の接近に対し、警戒することもない。なぜならば、彼らは方舟によってここまで運ばれてきたのだ。
セツナが方舟に向かって手を翳すと、つぎの瞬間、目の前が真っ黒に染まった。感覚の途絶、意識の断絶。まるで自分が自分でなくなるようなそんな感覚は、一瞬にして消えて失せる。気がつくと、方舟の機関室にいた。女神の力による空間転移。
「まっすぐ外まで出てきたようだが、シャルロット=モルガーナに伝えておかずによいのか?」
「一応、書き置きはしておいたよ」
セツナは、女神を振り返り、告げた。事実、割り当てられた部屋の机に、ニアダールを奪還してくる旨の書き置きを残している。シャルロットたちがセツナの不在に気づいた頃には、方舟はニアダールに辿り着いているだろう。
「ふむ。ならば、征くか」
女神マユリは、水晶球の上に鎮座したまま、厳かに告げた。