第二千三百三十五話 祭りの夜
その夜、彼は、二年半ぶりとなる主君との再会に胸を躍らせている自分に何度目かの苦笑を禁じ得なかった。
西ザイオン帝国軍によるニアフェロウ奪還戦は、ラーゼン=ウルクナクトの敗北と、西帝国軍の圧倒的な勢いが東帝国軍を押し潰すようにして敗走させ、東帝国軍は一時ニアフェロウ市内に逃げ隠れ、籠城の構えを見せたという。しかし、籠城程度で動じるわけのない彼の主君は、たったひとりでニアフェロウに攻め込み、東帝国軍にニアフェロウの放棄と帝国領への撤退を決断させたようだ。
これがセツナ以外の話ならば嘘だろう、誇張だろうと想うものだが、セツナならば、そうなのだろうと信じるしかない。たったひとりで一騎当千、万魔不当たる黒き矛の使い手ならば、それくらいたやすくやってのけるものだと彼は知っていたし、だからこそ、彼は、主君との再会を失意の底のどこかで想い続けていた。
そして、戦場で想わぬ再会を果たしたとき、彼は、心が躍るのを認めた。敵としての再会、遭遇は、彼にとって予期せぬ出来事であると同時に、素晴らしいというほかない天の配剤だった。彼はいつだって、セツナとの本気の戦いを所望してきた。しかし、最初で最後の敵対のときですら、彼は手を抜かれていた。君臣の契りを交わせば、殺し合いなどできるわけもなくなる。彼の戦いをだれよりも近くで見ることだけしかできなかった。
それはそれで喜ぶべき立場ではあったのだろうが、彼の鬼神の如き戦いぶりを目の当たりにするたびに、全力でぶつかってみたいと想わずにはいられなかった。そんな本音を漏らせば、ドーリンには笑われ、レミルには全力で押し止められたものだ。本気のセツナとやり合って、彼が無事で済むわけがない。彼の実力を信じて止まないものたちすら、彼の主君の実力のほうが遙かに上であるという事実を認めざるを得なかった。
そして、その事実に打ちのめされたのが、この度の戦いだ。
彼は、持ちうる全力を叩き込んだつもりだった。“剣魔”エスク=ソーマとしての全力。ラーゼン=ウルクナクトとしてのすべて。なにもかもを注ぎ込み、叩きつけた。その結果がこれだ。
彼は、自分の左腕を夜空に掲げて見た。主君によってあっさりと折られた腕は、西帝国の武装召喚師による治療により、これまたあっさりと元に戻っている。西帝国としては、ラーゼン=ウルクナクトがいつ敵対するかもわからない以上、治療を施すのは後回しにしたかったようだが、彼の主君が頼み込み、優先的に治療してくれている。彼の主は、彼が西帝国の敵に回ることはないと確信しているのだ。
実際、その通りなのだから、彼も、主の気遣いに感謝こそすれ、なにもいうことはない。ただ、主の全幅の信頼が多少怖く感じなくもなかった。もし、自分が東帝国に寝返ったらどうするつもりなのか。
『そのときは、瞬時におまえの首を刎ねるだけのことだ』
なんの躊躇もない即答には、彼は返す言葉もなかった。主の声音には、動揺ひとつなかった。実際に彼がもう一度敵に回れば、味方にすることを諦め、殺そうとしてくるに違いない。その確信が、嬉しかった。彼こそ、彼の知っている主だった。途方もない器の大きさ、懐の広さと、敵に対する容赦のなさを併せ持つのがセツナなのだ。
だからこそ、彼は、主の剣となった。
「エスク=ソーマ……だっけ」
ネミアが、辿々しく彼の名を口にした。
ニアフェロウの静寂に包まれた町並みを見下ろす場所に、ふたりはいる。頭上から降り注ぐ無数の星明かりと、地上の星とでもいうべき数え切れない魔晶灯の輝きが、眠れるニアフェロウの町並みを照らしている。軍施設の屋上。ふたり以外には、ネミアとともに拘束された“雲の門”の連中が騒ぎ疲れて眠りこけているという状況だ。
ニアフェロウ奪還のお祭り騒ぎは、市内だけでなく、この軍事施設内でも盛大に巻き起こされ、開戦当初は敵対者だった“雲の門”の連中も、大いに呑んで食って歌って騒いだのだ。“雲の門”は、頭領ネミアが西帝国に降ることを決めたところ、特別に拘束を解かれ、施設内ならば自由に歩き回っていいことになったのだ。
セツナが剣武卿シャルロット=モルガーナに掛け合ってくれたからであり、その話を聞いていたネミアは、セツナのひととなりと多少なりとも理解してくれたらしい。
ネミアが西帝国に降ることを決めたのは、極めて単純かつ当たり前としかいえない理由だった。
東帝国北方戦線指揮官イオン=ザイオンは、ラーゼン=ウルクナクトが敗北したという報せを受け、戦線が西帝国軍に押されていると知るやいなや、全軍にニアフェロウへの後退を命じた。ニアフェロウに籠城し、後方からの援軍を待つことにしたのだ。そこまでは問題ない。むしろ、正しい判断だろう。兵力差はともかく、戦力差で押されているのであれば、後方に要請した戦力の到来を待ち、合力して敵に当たるというのは、至極合理的な判断といえるだろう。
だが、そこでイオンは、西帝国軍の戦力を見誤ったのだ。セツナ=カミヤという最強無比の人間兵器を認知していなかった。そのため、ニアフェロウ籠城中、セツナひとりによって二千人あまりを叩きのめされたのだが、その間、イオンはなにを想ったのか、“雲の門”の連中を囮として利用したというのだ。自分たち正規の帝国軍人が無事にニアフェロウを脱出し、セツナの魔の手より逃れるための囮として。
ネミアたちがなぜ囮となることを承諾したのかについては、ラーゼン=ウルクナクトが西帝国軍によって討たれたという風に説明されていたことから、なんとなく想像が付いた。
ネミアは、いつ頃からかラーゼン=ウルクナクトに依存しているといっても過言ではなかった。“雲の門”の組織そのものがラーゼン=ウルクナクトひとりの実力によって支えられていたといってもいいのだから、頭領たる彼女が彼に依存したところで、なんら不思議はない。そして、そんな彼女がラーゼンを失った哀しみや絶望を西帝国への怒りと憎しみに変えるのも無理からぬ話であり、彼が生きていて、セツナによって大切に保護されていたという事実を知れば、手のひらを返すようにセツナを賞賛するのも当然だった。
「……隠してて、悪かったな」
「別にいいさ。最初からわかってたことなんだから」
「最初から?」
エスクは、きょとんとした。屋上の縁を囲う鉄柵にもたれかかるネミアの横顔は、間近で見れば、紅く色づいている。酔っているのだろう。基本的に頭領としての冷静さを失わない彼女にはめずらしいことだが、祭りの夜となれば、話は別というものなのかも知れない。
今宵は、彼女たち“雲の門”にとって東帝国からが解放された祭りの夜なのだ。
「嘘だろ」
「本当だよ。だってさ、あんた、自分が名乗った名前に反応しなかっただろ。なんども、なんどもさ」
「……そう、だったかな」
エスクは、バツの悪さに視線を彷徨わせた。そうだったかもしれない。ラーゼン=ウルクナクトという思いつきそのものの名前に慣れるまで、多少の時間を要したのは確かだ。
「最初、無視されたのかと内心憤ったもんだけど、兜や仮面で素顔を隠したがるような奴だって思い返せばさ、想像もつくもんさ」
「それでよく俺を受け入れ続けてくれたもんだ」
「腕前だけは超一流だったからさ」
それも嘘ではないのだろうが、彼女は、静かに続けた。
「ひとはだれだって、隠したい過去のひとつやふたつ、あるもんだって……養父がよくいっていたよ。だから、他人の過去を詮索するのではなく、現在を受け入れ、未来を目指すべきだって……さ」
「ネミアにも……あるのか?」
「なにが?」
「隠したい過去」
「ないよ。あんたにはね」
彼女は、屈託なく笑った。その笑顔の純粋さには、エスクは、いつも心が顕れるような気分になる。
「あたしの全部、曝け出せる」
「……俺も、おまえになら話せるよ。全部。全部な」
「……嬉しいよ」
ネミアは、両目に涙さえ浮かべながら、エスクに抱きついてきた。だれもが寝静まる夜。彼は彼女を抱き返しながら、空を仰いだ。
夜の空、瞬く星々は、いつものような冷ややかさでこちらを見下ろしている。
運命は、変転している、らしい。
すべてを失ったと想った。
けれども、新たに得たものも少なくなく、しがらみは彼の人生そのものとなった。いまや、ネミアたち“雲の門”は、彼にはなくてはならないものになったし、彼らとともに生きることになんの疑問もない。
レミルやドーリンは、なんと想うだろうか。
きっと、ドーリンはいつものように笑ってくれるだろうし、レミルは、受け入れてくれるだろう。
それは勝手な思い違いかもしれない。勘違いかもしれない。そんなこと、微塵も想ってくれないかもしれない。彼のことなど、とうに忘れ去っているのかもしれない。それでも彼は、ふたりやシドニア戦技隊の皆のことを思わずにはいられなかったのだ。
シドニア戦技隊もまた、彼の血肉として、息づいている。