第二百三十二話 鏡の女
エイン=ラジャールの号令とともに放たれた火矢は、木々や地面に突き刺さると瞬く間に燃え広がり、闇に閉ざされていた森を紅蓮の炎で赤々と照らし出した。生木であろうと、草花であろうと、関係なく燃えていく。木々は火柱となり、枝葉が火の雨のように降り注ぎ、無数の火の粉が舞い踊る。あっという間に、森は火の海となった。熱気が場を圧するように膨れ上がり、焼け焦げた臭いが鼻を衝く。汗が浮かんだ。
喚きながら逃げ惑う敵騎馬兵に向かって容赦なく射ち込まれる火矢の数々は、無慈悲な戦場の一風景に過ぎない。
セツナは、敵部隊を無事誘引できただけでなく、エインの準備が間に合っていたことにほっとしていた。エインの作戦とは、東の森を炎上させることで、誘い込んだ敵兵を混乱させた上で退路を塞ぎ、殲滅するというものであったのだ。ただ、森にそのまま火を着けても燃えにくいかもしれないと考えた彼は、バハンダールで見つけた油を振り撒くことを思いついたらしい。しかし、開戦前から東の森に接近することは難しく、セツナたち先発隊が敵陣に接近するのと同時に森に向かい、油を散布するという作業を行わなければならなかったのだ。
敵陣から撤退したセツナの気がかりは、そこにあった。セツナという囮に敵が食いついてきたのはいい。だが、東の森でのエインたちの仕込みが済んでいなければ、散布作業中のところへ敵ともども雪崩れ込むことになり、策もなにもあったものではなくなるのだ。もっとも、それは杞憂に終わった。セツナたちが森に到達した時にはエインたちの作業は終了しており、弓兵の配置も済んでいた。
先発隊のうち、森の中に残ったのは、セツナだけだ。彼以外の先発隊は森を突破し、外周を走り抜けて街道に向かっているはずだ。敵追撃部隊の退路を塞ぐためだった。
セツナに釣られたのは数百人程度の騎馬隊である。森に飛び込んできたのは罠と知りながらの行動なのか、それともただ闇雲に追尾してきただけなのか。森の中の臭気と異変に気づき、脱出しようとしたところを考えても、よくはわからない。行き当たりばったりの行動のようにも思えるし、そうでもないようにも考えられる。が、炎の海の中で為す術もなく死んでいく敵兵を見ていると、無策で突っ込んできたと結論付けるのが妥当だろう。
しかし、敵軍の武装召喚師が食いついてこなかったのは、無念だったといわざるを得ない。もちろん、あんな適当な方法で引っかかるとも思えないのだが、敵軍にはふたりもの武装召喚師がいたのだ。せめてどちらかひとりでも釣られてくれればよかったのだが、そう上手くいくものでもないらしい。エイン曰く、敵を数百人でも引っ張ってこられただけでも十分だということだったが、やはり、武装召喚師のひとりくらいは引きつけておいたほうがよかったのは疑いようがない。
このまま他の部隊が敵軍とぶつかれば、総合的な戦力差で押されかねない。もちろん、西進軍には優秀な武装召喚師があとふたりもいる。ファリア=ベルファリアとルウファ・ゼノン=バルガザールのふたりがいる限り、そう簡単に負けはしない。ファリアとルウファが敵の武装召喚師に対応してくれるはずだ。ふたりが時間を稼いでくれれば、セツナもその戦いに参加できる。もちろん、ファリアとルウファが、敵武装召喚師を倒してしまえば一番楽なのだが。
なんにせよ、敵部隊を壊滅させれば、エイン隊とともに二部隊と合流する手筈になっている。それも、すぐに達成されるはずだ。
「なんだよ、なんだよこれ!」
「逃げろ! 早く!」
「だからやめろっていったんだよ俺は!」
敵兵の悲鳴とも罵声とも付かない叫び声が、セツナの鼓膜を揺さぶる。だが、彼は冷ややかなまなざしで、燃える世界を見ていた。
間断なく射ち込まれる火矢は、逃げ惑う兵士たちをつぎつぎと射抜いていく。闇の中ならまだしも、森は炎上しているのだ。赤く、熱く、燃え盛っている。炎は照明となり、敵兵の居場所を弓兵たちに教えている。
馬が悲鳴を上げながら暴れ回り、馬上の兵士を振り落とさんとするが、騎馬兵は必死に掴まっている。そして、その暴れ馬の勢いに乗じて、炎の海から抜け出そうと試みたようだった。仲間の死体を飛び越え、追い縋る仲間を振り払い、炎と燃える戦場の外へ向かう。彼は、赤々と燃える視界の先に救いの闇を見たのかもしれない。だが、彼を待っているのは、セツナと行動を共にしていた騎馬隊であり、彼女たちの手厚い出迎えが彼に死をもたらしたのは疑いようもない。
渦巻く熱気の中、敵兵の数はあっという間に減っていった。森の中心から逃げ出したものも少なくはない。が、大半が死んだはずだ。そして、森の外へ脱出できたものも、ほとんどが死んだだろう。逃げ延びることができたものがいるのかどうか。
セツナは、全身が汗だくになっているのを感じながら、いまだ生き残っている数十名の敵兵を凝視していた。彼らは脱出を諦めたのか、馬から降り、武器を手にしていた。セツナはカオスブリンガーを構えてはいるが、こちらに向かってくるとは思えない。いくら逃げ場がないからといって、黒き矛を相手にしようと思うだろうか。ついさっき、彼らの仲間を殺したばかりだ。
(いや……)
彼は、敵兵のひとりが不自然にこちらを見ていることに気づいた。炎に照らし出され、その姿ははっきりと見えている。女だ。髪が赤く見えるのは、炎のせいかもしれない。軽装の鎧は身につけているが、兜は被っていないのだ。だから、髪が印象に残る。意志の強いまなざしだった。射抜くように、セツナを見据えている。その視線が、気になった。それに、彼女はほかの兵士たちとは立場が違うのか、明らかに浮いていた。兵士との間に距離感があった。
女が、一歩、踏み出した。鎧も紅く見えるのは、間違いなく炎のせいだろう。なにもかもが紅く染まっている。彼女の肌も、髪も、手にした鏡も。
(なんだ?)
セツナは、そのときになってようやく、彼女が胸元に鏡を掲げていることに気づいた。大きなものではない。手鏡よりは大きいが、持ち運びできそうな大きさだった。真円を描いた鏡の表面には炎の森が映りこんでいる。鏡の縁は、みずからの尾を噛む蛇のような意匠であり、セツナにはウロボロスを連想させた。そして、その特異な意匠は、それが召喚武装であるという可能性を示している。
戦場で鏡を掲げる状況など、あるはずがないのだ。
武装召喚師を誘引できていたのなら、最高の成果を上げられたということだ。しかし、それは同時に敵軍に三人の武装召喚師がいたということでもあり、もしあの場で戦い続けていれば、セツナは間違いなく不利な状況に追い込まれていっただろう。それに、この女が武装召喚師なら、敵部隊壊滅後、戦場に急行するということが難しくなるかもしれない。その場合、エインはセツナを残して合流に向かってくれるだろうが。
矢は、既に止んでいる。エインが、もはや不要と判断したに違いない。残敵は数えるほど。放っておいても焼け死ぬか、セツナに殺されると思ったのだろう。部隊を纏め、合流準備に入っていたとしても不思議ではない。たとえ残りの敵兵がこの場を逃げ出しても、戦力にはなりえないほど消耗している。
不意に、女が口を開いた。汗が頬を伝っている。
「ガンディアの黒き矛さん、よね? あなた」
「ああ」
セツナがうなずくと、女はいたずらっぽく笑いかけてきた。
「自分を餌にするなんて、どんな気持ちなのかしら?」
親しげな口ぶりではあったが、視線は敵対者そのものだ。闘志は失われておらず、むしろ燃え盛っているように思えてならない。
「なんということもないな。あんたが武装召喚師だと願うだけさ」
「良かったじゃない。わたしはミリュウ=リバイエン。あなたのお望み通り、武装召喚師よ」
女が、艶美な笑みを浮かべたと思ったのも束の間、鏡面が眩い光を放った。