第二千三百二十二話 北方戦線(五)
ニアサイアンに入った剣武卿シャルロット=モルガーナ率いる西帝国軍の軍勢が、ニアサイアンを出発したという報せがニアフェロウに届いたのは、五月三十日、早朝のことだった。剣武卿がニアサイアンに入った時点で、ニアフェロウの東帝国軍は戦闘態勢を整えており、ニアサイアンを進発したという報せが届いたときには、万全な状態といってよかった。
しかしながら、後方に要請した援軍はいまだ到着しておらず、また、この度の戦いにおける兵力の大半は北の都市ニアダールに集中させていることもあり、ニアサイアンの戦力は一万足らずといったところであり、少々心許なかった。一方、ニアダールには三万の兵力が集中しており、そこに西帝国軍の三万五千が結集しているのだから、激戦になること間違いない。
東西帝国の戦力を数字で認識するたびにラーゼンは、なんともいえない気持ちになった。小国家群の国々の争いがいかにも小さなものに思えてくるからだ。もちろん、東帝国と西帝国が旧帝国の遺産たる軍組織をそれぞれに引き継いでいるからこそなのだが、それにしたって、たかが一局面の戦闘に三万だの四万だのと動員できるというのは、控えめに言って狂っていると想わざるを得ない。
東帝国も西帝国もその領土からして小国家群の四分の一程度を掌握していると同義であるのだが、動員できる兵力というのは、おそらく小国家群の国々の比ではないのだ。そも、旧帝国は二百万の動員兵力を誇った。それをそのままふたつの帝国で分け合っているわけではないとはいえ、それぞれ四十万程度の兵数を保有していることは間違いない。
北部戦線に五万以上の兵を動員できるのは、それだけ潤沢な兵員を確保しているからであり、指揮官であるイオンが後方に援軍を求めることができたのも、援軍を出すのに十分なくらいの兵が後方に待機しているからだ。
最初から全戦力でもって押し出さないのは、広大すぎる領土を護るためには防衛戦力を各地に手配しなければならないからだし、護りを蔑ろにすれば、西帝国に付け入る隙を与えることになるからだ。西帝国の北部を圧倒的な戦力で掌握したはいいものの、手薄になった自国南部を西帝国に抑えられれば、東西帝国が南北帝国に入れ替わるだけでなんの意味もない。
東帝国としては、なんとしてでも西帝国を圧倒し、その意気もなにも尽くねじ伏せ、抵抗する気力すら奪い尽くしたいと考えているというのに、付け入る隙を見せるわけにはいかないのだ。
それ故、長らく均衡が続いていたともいえる。
拮抗した戦力で小競り合いを続けるだけの無意味な日々は、東帝国皇帝ミズガリスハイン・レイグナス=ザイオンに苛立ちを募らせ、前線指揮官たちは、皇帝の堪忍袋の緒が切れないことを祈り続けていた。そんな矢先、ラーゼン=ウルクナクトが両帝国の均衡をぶち破る活躍を見せたものだから、イオンが彼を激賞し、持て囃すのは当然のことだったのだろう。
そんなイオンが前線指揮官としてニアフェロウ防衛の指揮に当たっているのだが、ニアフェロウの西に布陣したおよそ一万の軍勢、その最前線にラーゼンは配置されていた。“雲の門”の連中は、最前線にはいない。腕っ節が自慢の荒くれ者たちばかりだが、ラーゼンの意向によって、彼らは後方支援に回されていた。ラーゼンとしては、ネミアを筆頭に“雲の門”の連中を戦闘に巻き込み、負傷させるようなことだけはしたくなく、そのことをイオンに直訴している。イオンは、ラーゼンの御機嫌取りを兼ねてその意向を受け入れ、“雲の門”に後方支援を徹底させた。“雲の門”の幹部や構成員の中には、ラーゼンとともに戦いたいというものもいないではなかったが、ラーゼンは許さなかった。
“雲の門”は、そのときには、ラーゼンがある種の支配者となり、だれもかれもラーゼンの意見を無視することができなくなっている。なぜならば、“雲の門”が存続できているのは、ラーゼンが率先して東帝国に降り、それによって“雲の門”幹部の助命を願ったからだ。“雲の門”幹部一同、だれもがラーゼンを命の恩人として認め、頭領以上の存在と定めた。ラーゼンにとってしてみれば望まぬ状況だったが、致し方のないことだ。ネミアたちの命を救うには、それ以外の道がなかった。
そして、このたびもまた、それだ。
ネミアたちは、いわば人質なのだ。
ラーゼンが東帝国の尖兵として戦う理由は、ただひとつしかない。
ネミアたちの命を護る。ただそれだけが、いまの彼のすべてだ。
そういう意味では、イオンはラーゼンの提案を喜んだかもしれない。“雲の門”幹部を後方に置くということは、人質として確保するも同然であり、ラーゼンを支配下に置いておく上ではこれ以上の方策はない。ラーゼンが東帝国に忠誠を誓っているわけではないことは、イオンにもわかりきっている。だからこそ、ラーゼンの気を引き留めるために力を尽くしているわけであり、御機嫌取りまで行っているのだ。それでもなおラーゼンが裏切る可能性がある以上、安心してはいられない。
その点、ネミアたち“雲の門”幹部を手元に置いておけば、ラーゼンが裏切る可能性は皆無であり、安心して指揮を行えるというわけだ。
ラーゼンとしても、そのほうがいいと判断していた。
余計なことで疑心暗鬼に陥り、ネミアたちが傷つけられるようなことがあっては溜まったものではない。
ネミアたちは、イオンの手元に置いておくのが一番安全なのだ。
と、彼は、その戦いが始まるまでは、そう想っていた。しかし。
ニアフェロウは、荒野のただ中に建造された城塞都市のひとつであり、四方を強固な城壁で囲われている。ニアフェロウを占拠中の東帝国軍は、西の都市ニアサイアンから攻め寄せてくるだろう西帝国軍の軍勢に対抗するため、戦力をニアフェロウの西側荒野に展開した。援軍を待って籠城するという案もなくはなかったが、敵戦力を考えれば、むしろ打って出たほうがいいだろうというイオンの考えに異論はでなかった。
西帝国軍は、北部戦線の主力をニアダールに集中させている。そして、ニアダールがその圧倒的戦力によって奪還するため、ニアフェロウにラーゼンを釘付けするべく、剣武卿シャルロット=モルガーナ率いる軍勢がニアフェロウに差し向けられるということがわかっている。いかに北部戦線の主力がニアダールに集中したところで、こちらの主力とラーゼンが赴けば、立ち所に撃退されることは火を見るより明らかだからだ。
西帝国軍は、万難を排し、ニアダールの奪還を成し遂げようとしており、その本気度は、剣武卿がラーゼンを引き留める囮になるという点からもわかるだろう。しかも、諜報員の話によれば、西帝国はさらなる戦力を北部戦線に寄越したというのだ。それこそ光武卿率いる新戦力なのだが、その詳細は不明だ。
ラーゼンは、西の彼方に影すら見えないニアサイアンの都市を想像しながら、ニアサイアンとニアフェロウの間を進軍中の敵軍を空想した。帝都から送り込まれた戦力が大した数ではないことは、諜報員の報告からも想像が付く。しかし、戦力というのは、なにも数の多寡で決まるものではない。
少数精鋭という言葉がある。
その言葉は、武装召喚師の数がとにかく多い帝国領土において、極めて強烈な現実だった。何百何千の一般兵よりも、強力な召喚武装を扱える武装召喚師のほうが圧倒的に重要なのだ。その事実は、ラーゼン自身が手本の如く見せつけている。
何万もの軍勢のにらみ合いと小競り合いによって維持されてきた均衡を破ったのが、たったひとりの召喚武装使いなのだ。
もしかすると、西帝国はとんでもなく強力な武装召喚師なり、なんらかの戦力を引き連れてきたのではないか。
吹き抜ける砂塵の中、ラーゼンは、久々に武者震いをした。彼は、なにも単身で最前線にいるわけではない。イオン選りすぐりの精兵が彼の配下としてつけられており、武装召喚師も二名、彼の指揮下にあった。いずれも彼の知っている武装召喚師よりは遙かに劣る技量の持ち主ではあるが、一般兵とは比べるべくもなく強力無比だ。そこが、武装召喚師と一般兵の大きな違いなのだろう。
武装召喚師としての基準で考えれば並程度の実力者であったとしても、一般兵と比べると、天と地ほどの差がある。故に、帝国が武装召喚師育成に熱を入れ、あの戦いにおいて二万人に及ぶ武装召喚師を動員したのは、正しい判断というほかない。
西帝国軍は、待てど暮らせどやってこない。
ニアサイアンに入ったのが二十九日。進発したのが三十日。
ならば、翌日の今頃には、ラーゼンらが布陣する場所から敵軍の先遣隊なり先鋒部隊なりが見えてもおかしくはないのだが。
(俺の目でも見えねえってのは、どういうこった?)
ラーゼンは、超人的な視力でもって遙か彼方を見遣ったが、しかし、地上には砂塵が渦巻くだけで敵兵の姿は影すら見当たらなかった。
「ラーゼン様、空を……!?」
「ああ……?」
武装召喚師キルケ=シドナーの悲鳴にも似た声に引きずられるようにして空を仰いだ瞬間、ラーゼンは、我が目を疑う光景を目の当たりにした。
「なんだありゃ……」
「空飛ぶ船……」
「実在したのか……」
キルケ=シドナー、オズ=マッケインらがいったとおり、それは、まさに空飛ぶ船だった。上空を覆い尽くさんばかりの巨大な船体は、さながら大天使のように無数の光の翼を広げており、その様は、あまりに神々しく、ラーゼンはあやうく思考停止に陥るほどだった。
それはどうやら、いまのいままで雲海に身を潜めていたらしく、雲を割るようにして降りてきていた。
「空飛ぶ船がなんだってんだ」
内心の動揺を振り切るように彼は告げ、腰に帯びた柄に手を触れた。抜き取り、瞬時に意識する。意識は光の刃となって柄の先より出現し、彼が猛然と振り上げると、爆発的な速度で伸長した。ゆっくりと降下する天使の船に対し、凄まじい速度で無限に伸長する光の刃は、だれもが唖然と見守る中、しかし、船体を斬りつけることは敵わなかった。
上空から降り注いだ膨大な光がラーゼンの光刃を飲み込み、吹き飛ばしたからだ。凄まじい爆発は、その圧力が地上にいるラーゼンたちを押し退けるほどであり、彼は、態勢を立て直すより早くなにが起こったのかを理解した。
これまで何度となく見た光と爆発。
心が震えた。
それは、黒き魔王のようにそこにいたのだ。
破壊的なまでの禍々しさを誇る黒き矛と、悪魔のような黒き軽鎧を身に纏った青年。
黒い髪に血のように紅い眼。
彼がただひとり、もう一度、生きる価値を見出した人物。
歓喜が、衝動となって彼を突き動かした。