第二千三百二十一話 北方戦線(四)
状況が、変わりつつあった。
ラーゼン=ウルクナクトの東帝国史上に残るのではないかという大活躍によって、西帝国との間に築き上げられていた均衡が崩れ去り、東帝国軍は勢いを得た。戦意は大きく昂揚し、帝国軍の末端の兵に至るまで、武功を挙げ、戦果を挙げるため、目の色を変えていた。東帝国軍は、この勢いに乗じて、西帝国領北部を制圧し、さらに南へとその勢力図を塗り替えていこうという算段を立てていた。
しかし、北部戦線に西帝国重鎮、剣武卿シャルロット=モルガーナが送り込まれてきたことで、空気が一変する。敗色濃厚であり、悪い空気感に包まれていたらしい西帝国軍は、剣武卿の現地到着によって緊張感に満ちた空気で包まれ、逆に圧倒的勝利の連続で楽勝的な空気に包まれていた東帝国軍も、危機感を持つに至った。
剣武卿は、西帝国皇帝ニーウェハイン・レイグナス=ザイオンの腹心たる三武卿に数えられる人物であり、かつての三臣のひとり。その名は、ラーゼンも聞いたことがあったし、その実力に関しても、耳にしている。剣士として、召喚武装使いとして極めて強く、彼の知り合いの武装召喚師と拮抗するほどだったというのだから、その実力たるや凄まじいものだろうということは想像に難くなかった。
だが、剣武卿のもっとも恐ろしいところは、その剣士としての実力などではなく、剣武卿という立場、権力、威光によるものだということを思い知らされることになる。
剣武卿は、ディヴニア到着早々、大号令でもって各都市の奪還を明言、現地の全軍を総動員し、軍勢を動かした。ディヴニア近辺の全戦力が極めて迅速な動きでもってニアサイアンを包囲したのは、やはり、皇帝側近の威光があってのものであり、三武卿ならではの戦術といっていいのだろう。
そして、ニアサイアンに投入された圧倒的な物量の前には、さすがのラーゼンも逃げの一手を打つほかなかった。ニアサイアンは、東帝国軍の前線基地になっていたのだが、ニアサイアンを膨大な戦力で包囲した上、後方の都市を攻撃する意思が示されれば、意地を張っている場合ではなくなるものだ。後方が奪取されれば補給線が立たれ、敵中に孤立することになる。もちろん、孤立無援になるということは考えにくいが、だからといってすぐさま救援が来るとも思えない。
よって、ニアサイアンの兵をすべて後方のニアフェロウに引き上げるという東帝国軍の決断に対し、ラーゼンは不満ひとつ抱かなかった。ニアサイアンが奪取されたのであれば、また制圧すればいい。そのための戦力を掻き集めるべく、東帝国軍北部大戦団指揮官イオン・ラアク=ザイアンは帝都に進言していた。
イオン・ラアク=ザイアンは、その名の通り皇族のひとりであり、五爵の一、武爵を拝命した実力者だ。しかし、彼が北方大戦団指揮官に任命されてから西帝国軍に大勝を飾ることができたのは、ラーゼンが参戦してからのことであり、そのため、ラーゼンは彼のことを内心では無能だと想っていた。もっとも、イオンは先帝のみならず、ミズガリスハイン帝にも気に入られているため、彼の目の前でわずかでも本音を漏らし、機嫌を損ねるような真似はしなかった。かといって、機嫌取りをする必要もない。
むしろ、イオンは、ラーゼンのご機嫌取りに躍起になっていた。ラーゼンなしでは西帝国軍との戦いに勝利できないという状況が続けば、そうもなるだろう。むしろ、その勝利の原因をラーゼン=ウルクナクトの勇奮であると断定できるだけ、優秀といってもいいのではないか。そして、その優秀な人材をこき使うために手練手管を用いる様には、有能さの片鱗を見ないでもなかった。
とはいえ、ラーゼンは、帝国の象徴ともいうべき皇族に名を連ねるイオンが心底嫌いだったし、彼の御機嫌取りもほとんど聞き流していた。彼が戦っているのは、東帝国のためでも、自分のためでもない。
それは、イオンもわかっているのだろう。
イオンは、ラーゼンが口説き落とせないと見るや、ネミアや“雲の門”幹部たちをもてなし、手なずけていった。ネミアでさえ、将来、帝国を影ながら護るため力を貸して欲しい、と、皇族であり、軍指揮官を務める重臣中の重臣に直接いわれれば、心が揺れることもあろう。ラーゼンは、そういった話をネミアから聞いて、ようやくイオンの有能さを理解した。イオンは、人心掌握の術に長けているのだ。
そのイオンが慌てて彼の部屋に飛び込んできたのは、五月も下旬のことだった。
ニアサイアンを手放したことで、北部大戦団の士気は一時的に大いに低下したものの、指揮官イオンの激励鼓舞によって、ある程度は取り戻しつつあった。ニアサイアンこそ奪い返されたものの、こちらはまだ、ニアダール、ニアフェロウ、ニアズーキの三都市を掌中に収めているのだ。さらに後方から援軍が到着予定という話も入っていた。戦意が少しずつ高まっていくのも当然のことだ。援軍が到着すれば、戦力差でもって西帝国軍を圧倒するのも不可能ではない。
そんな状況下、大軍団の指揮官がみずから一戦闘員の部屋を訪問するなど、慌てているとしても少々迂闊過ぎはしないか、と、寝起きのネミアに着替えるよう促しながら、彼は苦笑を浮かべた。
イオンがそれほどまでに彼を頼りにしているということを主張するための演技に過ぎないが、こうもあけすけに演じられれば、ラーゼンも多少は気を使わざるを得ない。とはいえ、彼は、いつものように仮面を被って、素顔を隠し、イオンと対面しているのだが。
「こんな時間になにを慌てていらっしゃる?」
ラーゼンは、私服に仮面という極めて不自然な格好で、イオンを室内に迎え入れた。イオンは、人目を憚りもしないのか、いつものような豪奢な装束に袖を通していた。その格好は、遠目にも指揮官であることがわかるように派手な作りになっていて、金糸銀糸をふんだんに使った装束は、彼のような貴公子でなければ似合わないだろうと思えた。先帝の第三皇子である彼は、先帝シウェルハインの生き写しのように似ていることで知られ、その点で後継者争いの上位を走っていたという。黒髪黒目のいかにも帝国人だった。
「こんな時間? 昼間だぞ」
「昼寝中だったんですが」
「それは……申し訳ないことをした。しかし、ことは急を要するのだ」
「西になにか動きがあったようですな」
「ああ、動きも動きだ。ディヴニアの剣武卿がニアサイアンに入ったということだ」
「先の情報通りじゃないですか」
ラーゼンは、焦りを隠せない様子のイオンに対し、務めて平静に告げた。剣武卿シャルロット=モルガーナがニアフェロウの奪還がため、みずから戦力を率いて出撃するという西帝国軍の戦術情報は、東帝国軍の諜報員によって手に入っていた。そのため、ラーゼンは、敵主力が集中するというニアダールではなく、ニアフェロウに配置されたのだ。
「それだけならばな」
イオンは、極めて厳しい顔つきになった。
「光武卿が新たな戦力を引き連れてディヴニアに入った、という未確認情報があるのだ」
「光武卿が?」
「諜報員は空飛ぶ船を見たそうだ」
「空飛ぶ船?」
思わず、彼は怪訝な顔になった。
「イオン様。あなたがなにを仰っているのか、わたしにはわかりかねますな」
光武卿が北部戦線に参加した、ということそのものは理解できる。あり得る話だ。光武卿ことランスロット=ガーランドは、ニーウェハインの側近のひとりであり、優秀な武装召喚師だった。シャルロットだけでは任せられないと、光武卿も前線に送り込むというのは、実際に考えられる話だった。
大総督ニーナ・アルグ=ザイオン率いる外遊船隊とともに南ザイオン大陸を離れていた彼が帰還早々戦地に送り込まれるのは、むしろ納得のいく話でもあった。その彼が戦力を引き連れて北部戦線に参加するのも、無理のない話だ。
しかし、空飛ぶ船というのはどういうことか。
「わたしにもわからぬ。しかし、ニアサイアンに潜伏中の諜報員がもたらした情報だ。そこに嘘があるとは想えない」
「それは……そうでしょうが」
「もしかすると、西帝国はとんでもない連中と手を結んだのではあるまいか?」
イオンが、年の割りには若く見える顔つきを険しくした。
西帝国が外遊船隊を編成し、海外に援軍を求めたのがおよそ半年前。ちょうどそのころ、ラーゼンは、“雲の門”とともに東帝国に降っている。ラーゼンがイオンの指揮下に組み込まれたのは、外遊船隊の主要人員が明らかとなり、そこに東帝国が大いなる隙を見出したからにほかならなかった。
西帝国の全軍を預かる立場であるはずの大総督ニーナ・アルグ=ザイオンに加え、三武卿のひとり、光武卿ランスロット=ガーランドが外遊船隊として、長期に渡って南ザイオン大陸を離れるというのだ。戦力的にも、人材的にも、西帝国としては大きな損失というほかない。これを好機と見るのは、東帝国側としては当然だったし、この機会を逃すわけにはいかないと考えるのも、道理だ。
そして、東帝国の思惑は当たった。もちろん、北部戦線における東帝国の躍進は、ラーゼンの参戦あったればこそであり、もし、ラーゼンがいなければ、勝利を掴み取るにしても、大小無数の犠牲を払わなければならなかっただろうことは、だれもが理解していることだ。故にラーゼンは、帝国軍人の間でも軍神の如く見られつつある。
光武卿が北部戦線に参加するということは、外遊船隊が帰還したということであり、それはつまり、西帝国がどこか海外の国と協力関係を結んだということだ。そして、援軍が西帝国に入ったからこそ、北部戦線に光武卿が投入されたのではないか。
その戦力が空飛ぶ船だとでもいうのか。
イオンが諜報員からの報告に目を通し、動揺するのもわからない話ではなかった。
空飛ぶ船なるものが本当に存在し、それが西帝国と手を結んだというのであれば、東帝国に勝ち目があるのかどうか。