第二百三十一話 迎え火
ミリュウ=リバイエン率いる騎馬隊は、自陣を飛び出して間もなく敵襲撃部隊の最後尾を発見している。ミリュウの決断が早かったこと、騎馬部隊の出撃準備が整っていたこともあるが、最大の要因は敵騎馬隊の移動速度の遅さにあった。まるでこちらに追い付いてほしいといわんばかりの速度であり、ミリュウたちが距離を詰めると、慌てたように走り出した。
(誘ってるわね)
ミリュウは、黒き矛のセツナを囮に使うという敵軍の放胆な作戦に呆れる想いがした。黒き矛を上空から投下したというバハンダール攻略作戦といい、今回の作戦といい、敵軍の作戦立案者は、黒き矛になにか恨みでもあるのだろうか。囮ならば騎馬隊だけでも良かったはずだ。騎馬隊で一撃を加え、離脱するだけでも多少の効果はあっただろう。
敵軍の狙いは戦力の分散による各個撃破に違いなく、そのために最大の戦力たる黒き矛を用いるのは、作戦としてどうなのか。
ミリュウは、全周囲に意識を集中しながら考えていた。馬は、兵士に任せている。彼女は乗馬くらいたしなんでいたが、十年の空白もあり、無理をしてでも馬に乗る気にはなれなかった。乗馬をたしなんだ程度の腕よりも、熟練の騎馬兵に任せる方が安全に違いない。
それに、手綱を握らなくていいということは、召喚武装を手離さなくていいということでもある。特に、彼女の愛用する召喚武装は、持ち運びが不便だった。手綱を片手で操るだけの技量があれば話は別なのだが、残念ながら彼女にそこまでの乗馬技術はない。
だが、おかげでミリュウの五感は冴え渡り、視界は広さを保ったままでいられた。馬から振り落とされないよう、片手は兵士の腰に回している。空いた手で召喚武装を抱えているのだ。
月明かりも冴えない夜空の下、騎馬隊は街道に出ていたた。まっすぐ進めば敵軍陣地に至るだろう。敵騎馬隊が陣地に誘導しようというのなら、彼女は即座に引き上げるつもりでいた。いくらミリュウでも敵本陣に特攻してどうにかなるとも思わない。
敵騎馬隊は、本陣には向かわなかった。左に曲がり、こちらの動向を窺うような速度で進んでいく。当然、ミリュウは騎馬隊の追撃に任せた。本陣に直行しないのなら、追いかける意味がある。
敵騎馬隊は、ルベンと砦の分岐路を東に向かっているようだった。ミリュウは、脳裏に周辺の地形を思い浮かべた。龍府からルベンに移動する際に通ったはずの道だ。かなりの行軍速度だったが、周りを見る暇がなかったわけではない。
(森……?)
ミリュウの頭の中に浮かんだのは、街道沿いの小さな森だった。なぜその森が引っ掛かったのかはわからない。特になにがあるわけでもない、こじんまりした普通の森なのだ。
だが、罠を張り、待ち受けるには絶好の場所といえなくもない。問題は、敵軍に罠を張るだけの時間的猶予があったのかどうかだ。
ミリュウたちは、分岐路の北側に陣地を築いて以来、周囲に物見の兵を飛ばしていた。戦闘前に、物見による重厚な監視網をくぐり抜け、森に罠を仕掛けたとは考えがたい。バハンダールを抜け出したガンディア兵の目撃情報すらないのだ。今日の夕方まで、ガンディア軍はバハンダールにとどまり続けていた。
つまり、街道沿いの森にはなにもないと考えるのが筋ではあるのだが。
ミリュウは、なにか大切なことを見落としている気がしていた。それがなんなのかはわからないし、別段、不安があるわけではない。どんな罠が待ち受けていようと彼女には勝算がある。
やがて、敵騎馬隊の前方に森が見えてきた。夜の闇の中、黒々と茂る森は、月の光によって存在感を示している。昼間通過したときは、ただの小さな森としてしか認識できなかったが、夜に見ると、なんだか不気味に思えた。ミリュウたちの到来をいまかいまかと待ち焦がれているような、そんな錯覚。罠が張られているという思い込みがそうさせるのだろう。
ミリュウは目を細めると、敵騎馬隊の先頭が森に進路を定めたのを認識した。騎馬兵に告げる。
「敵は森を目指しているわ」
「どうするんです? 罠が仕掛けられているのでは」
騎馬兵が当然の心配をしてきたことに、ミリュウは驚きを覚えた。部隊長の命令に従うだけの人形なのかと思っていたが、多少は頭が回るらしい。
「だから行くのよ」
「はい?」
「敵の仕掛けた罠をぶち壊せば、きっと爽快でしょうね」
「は、はあ……」
要領を得ない生返事は、間違いなく、ミリュウの考え方が理解できないというものであった。侮蔑すら混じっているのかもしれない。
五竜氏族に生まれながら魔龍窟に落とされたミリュウたちを憐れみ、蔑む声があることを、彼女は知っているのだ。支配階級、特権階級にありながら、武装召喚師養成機関とは名ばかりの地獄に落とされたのだ。異常だと思うのが普通であり、ミリュウたちになんらかの問題があったのだと勘繰るものがいてもおかしくはなかった。そして、十年の月日は、魔龍窟に落とされた彼女たちこそが異常だったのだと結論づけている。
(所詮……)
彼女は、吐き捨てかけて、止めた。騎馬兵を理解し合えないものとして認識することで、溜飲を下げる。普段ならどうということもない反応だったはずなのだが、なぜかいま、この瞬間だけは気に障った。
浮かれているのだ。
話に聞く黒き矛との戦いを前にして、感情が昂っている。いや、実際にその実力の一端を目の当たりにしたからこそ、興奮している。戦局を左右する一騎当千の力とはいったいどれほどのものなのか。一瞬にして弓兵部隊を半壊させたことを鑑みても、素晴らしいものに違いない。見ればわかる。彼は強い。あの武装召喚師は、彼女がいままで殺したどの武装召喚師よりも強く、研ぎ澄まされている。
ミリュウは、自分がなぜそこまで黒き矛に執着し、興奮しているのか、他人事のように理解していた。
彼は、この国を滅ぼしてくれるかもしれない――そんな期待があるのかもしれない。
龍の国などとうそぶく、血塗られた国ザルワーン。
彼女が生まれ育った国であり、彼女を見放した国である。ザルワーンの特権階級に生まれたために至福と絶望を味わったミリュウにとって、ザルワーンなど、ガンディアに攻め滅ぼされても痛くも痒くもなかった。魔龍窟にある間、彼女が唯一心に留めていた最愛の母も、数年前に病を得、死んでしまっている。オリアンを父親などと思ったこともないし、殺したいとさえ思っている。家族のうち、魔龍窟を逃れた連中がどうなろうと知ったことではない。国と命運をともにするのなら勝手にすればいい。
ミリュウは、違う。
この国のために死ぬつもりはない。命をかけて戦うつもりもなかった。
魔龍窟から出してくれた国主ミレルバス=ライバーンには感謝しないでもないが、元を正せば、オリアンを止めなかったミレルバスにも非があるのだ。オリアンが実権を握ったのはミレルバスが国主になる前のことだが、ふたりが同じ目的のために協力していたことをミリュウは知っている。リバイエン家の別邸で密談を交わすふたりというのは、ミリュウが物心ついたころからよく見かけていた光景だった。ミレルバスにその気があれば、魔龍窟など早々に廃止できたはずだ。強力な武装召喚師を育成するという当初の目的が見失われた組織に、なんの意味があったのか。親類縁者による殺戮の果てに、なにが得られたというのか。
狂気の産物にすぎない。オリアン=リバイエンという狂った男が、魔龍窟を地獄に変えた。彼がなにを目指し、なにを求めていたのかは定かではない。しかし、彼によって、ミリュウやクルードたちの人生は狂わされ、心は壊れていった。
血で血を洗う地獄の中で、ミリュウは、ただ憎悪したのだ。
ザルワーンを。
ザルワーンに生きるひとびとを。
ザルワーンの存在を認める世界を。
それなのに彼女はいま、ザルワーンの尖兵となってガンディア軍と戦おうとしている。
(矛盾よね)
ミリュウは自嘲したが、この国を見放してなお裏切れないという事実に、呪縛めいたものを感じずにはいられなかった。
オリアンは、魔龍窟に戻されたくなければ命に従えというようなことをいっていたが、彼にそんなことができるはずがないのは明白だ。彼だけではない。ザルワーン自体、彼女たちに強制力を働かせることはできないはずだった。
獄から放たれた以上、ミリュウたちを支配することはなにものにもできないのだ。彼女たちには武装召喚術がある。強力な召喚武装を用いることができる。三人で力を合わせれば、ザルワーンの支配を脱却し、他国に逃げることくらい簡単なのだ。ザルワーンから遠く離れた地で、武装召喚師として再起するのも悪くはなかったかもしれない。
しかし、ミリュウにはそれができなかった。オリアンの言に従い、ミレルバスの命を遂行しようとしている。クルード、ザインとともに、この国からガンディア軍を撃退しようとしている。
呪縛。
ザルワーン人として生まれたからなのか、五竜氏族に連なるものであるがゆえのものなのか、ミリュウには理解できなかった。そのくせ、ザルワーンの滅亡を望んでいる。ザルワーンに関連するすべてのものが地上から消えてなくなることを望んでいる。
ザルワーンがなくなれば、この矛盾した感情も消えてくれるのだろうか。
それを知るには、黒き矛がザルワーンを滅ぼしてくれるのを期待するしかないのだが、残念ながら、彼はミリュウが封殺することになる。黒き矛の活躍はここで終わり、ガンディアの躍進もここまでだ。
ミリュウには確信がある。それも、興奮の原因のひとつに違いない。この国を滅ぼしうる力を制圧するのだ。これに興奮せずになにに興奮するというのか。
そんなことを考えているうちに、前方の敵騎馬隊が森の闇に吸い込まれるように消えていくのが見えた。
「行くわよ!」
ミリュウが大声を上げると、騎馬隊が雄叫びで応えた。悪くはない反応だ。だが、彼らの多くは死ぬだろう。囮を追いかけ、罠の中へ突入するのだ。無事で済むはずもない。それがわかっていて、ミリュウは追跡を急がせた。彼らに戦果を期待してはいない。雑兵に討ち取られるような黒き矛ではないはずだ。むしろ、彼らは黒き矛に討ち取られる。ミリュウを守るために。
街道を逸れ、森へと突入する。陰鬱とした森の闇の中へ、全力で突き進んでいく。立ち並ぶ木々の間を突破していくと、なにか異様な臭いがミリュウの嗅覚を激しく刺激した。むせ返るような臭いは森の中に充満しており、ミリュウは吐き気を催した。馬が嘶き、足を止める。馬の鼻にもきつかったらしい。兵士たちも気づいており、えづくものが続出していた。自然、部隊全員が森の中で立ち止まってしまっているのだが、そのことを注意することもできないくらいに酷い臭いだった。
「なんなんですかこの臭いは?」
「あたしにわかるわけないでしょ」
吐き捨てて、ミリュウは、森の至る所に潜む気配をいまさら察知した。召喚武装で強化された五感が真っ先に捉えたのがこの臭気であり、それに気を取られすぎたのだ。ミリュウは、周囲を一瞥すると、馬の腹を蹴った。馬が驚いて駆け出し、騎馬兵が非難の声を上げたが、彼女にしてみれば感謝されたいくらいだった。ミリュウの行動に、後方の兵士たちも慌てて駈け出したに違いない。
周囲の闇のそこかしこに火が灯っていたのだ。火矢だろう。それによって、彼女はこの臭いの正体がなんなのか把握した。油だ。この森のいたるところに油がかけられている。後方で物音がした。馬が油で足を滑らせて転倒したようだ。
「油よ! 気をつけて!」
「気をつけるっていったって……!」
口答えする騎馬兵は黙殺したとき、ミリュウは前方に意識を引っ張られるような感覚を抱いた。闇の中、なにかがいる。黒い物体。いや、人影だ。漆黒の鎧に黒き矛。セツナ=カミヤ。こちらを見ている。地を蹴った。ミリュウは透かさず後ろに向かって跳躍し、漆黒の矛が馬の首ごと騎馬兵の胸を貫くのを見届けた。空中の彼女の眼下を騎馬隊が駆け抜けていく。黒き矛が閃き、そのたびに馬が倒れ、兵士が悲鳴を上げる。ミリュウが着地したときには、十数頭の馬の死体によって進路を塞がれていた。騎馬兵たちは別の方向に退路を求めて走り回り、落馬した兵士たちも黒き矛から逃れようと必死になっている。
ミリュウは、黒き矛のセツナを見ていた。馬の死体に囲まれて、彼はどこか不満そうにしているように見えた。誘き出せたのが騎馬兵だけだと思っているのかもしれない。せっかく黒き矛を餌にしたのに、食いついてきたのが雑兵だけでは、彼だって満足できるはずもない。だが、その心配はいらないのだ。武装召喚師なら食いついている。
彼女は、召喚武装を胸元に構えた。そのとき。
「放てっ!」
なにものかの号令が森の闇に反響し、無数の火矢がミリュウの周囲に降り注いだ。