第二千三百十三話 ニーウェハイン(十一)
ファリアたち方舟滞在組が皇厳宮に到着したのは、セツナがニーウェとふたりきりの話し合いを終え、執務室を辞し、しばらくしてからのことだ。
皇法区にファリアたちを乗せた召喚車が到着したという報せが入り、セツナが皆を迎えに行こうとすると、ニーウェも皇帝の仮面を被るなり、ついてきた。執務室を出れば、閃武卿ミーティアが部屋から離れた位置に立ち、待っていた。ミーティアは皇帝の親衛隊の隊長であり、皇帝が動くとなれば身辺警護に付き従うのは当然のことだ。
「光霊区に君たちの宿を用意させた。今日はもう休むといい」
「早くないか?」
執務室を出る際、壁に掛かった時計を見たが、まだ午後五時とかそれくらいだったはずだ。夜まで時間がある。
「到着して早々、作戦会議に参加したいとは殊勝な心がけだが、あいにく、こちらにも事情があるのでね」
「ああ、大総督閣下か」
「大総督も光武卿も、既にこちらに向かって移動中だが、到着するのは数日先のことになる。それまではゆっくりしてもらって構わない。なんなら、帝都を観光するのも悪くはないんじゃないか? 気分転換にもなるだろう」
「皇帝陛下御自らそこまで気遣って頂けるとは、恐悦至極にござりまする」
セツナが恭しく告げると、ニーウェがこちらを一瞥した。
「馬鹿にしているんだな」
「なんでだよ」
「まあいい。馬鹿セツナには、この帝都の素晴らしさは理解できないかもしれないが」
「成金趣味はないんでね」
無論、帝都シウェルエンドが成金趣味によって作られたものではないことくらい理解してはいるが、売り言葉に買い言葉だ。執務室からそうだが、ニーウェとの会話は、ついついけんか腰になってしまう。それはおそらく、同一存在であったことの影響だろう。同族嫌悪とは違うが、似たようなものかもしれない。
セツナとニーウェの会話を横目に聞いていたミーティアは、なんだか複雑そうな表情をしていたが、彼女がなにを想ったのか、セツナには想像もつかない。
「……もし、帝都観光がしたくなったなら、彼にいってくれ」
そういってニーウェが示したのは、階下で待機していた“太陽の目”隊長ロイ・ザノス=ジグザールだ。“太陽の目”の武装召喚師たちも、その付近に控えている。“太陽の目”は、帝都防衛の要である武装召喚師のみの精鋭部隊だ。そんな精鋭中の精鋭が待機していたのは、皇帝の命令あったればこそだろう。
「“太陽の目”の隊長殿か。なるほど……俺たちを監視するには、並大抵の人間じゃあ無理だもんな」
「監視などする必要はないさ。ただ、彼はここ出身なのでね。観光案内にはうってつけなんだよ」
「そういうこと?」
「そういうこと」
ニーウェが笑いながらうなずいてくるのを聞いて、セツナは、なんだか安堵する気分だった。彼が、代行者案を胸の奥に引っ込めてくれたことがなによりも嬉しかった。ニーウェを演じるだけならば、いい。それだけならば、いくらでもやってやろう。彼の影武者として、東帝国の目を欺くというのなら、彼としてもなんの問題もないのだ。
だが、ニーウェの提案は、駄目だ。彼は、白化症によって自分を失う前に、己の命を絶つことで被害を食い止めようと考えていた。そのためにこそ、セツナが必要不可欠だったのだ。自分に成り代わり、西帝国の指導者に成り代われるのは、同じ姿形のセツナをおいてほかにはいない。そして、セツナにすべてを託したあとは、みずから死ぬつもりだったのだ。
そんなこと、セツナが受け入れられるわけもなかった。
だから、どれだけ苦しくても、辛くても、しばらくは生を諦めないと考えを改めてくれたことに感謝し、喜んだ。
ニーウェにとっては、絶望的な選択だろう。だが、その絶望の先にこそ希望があると、セツナは信じていた。
きっと、解決策はある。ないわけがない。そのためにも、マリアは奔走しているはずだ。セツナは彼女の腕前と熱意を信じているのだ。
皇厳宮の出入り口に向かうと、夕焼けが照らす皇法区の美しい町並みが視界に飛び込んできた。黒と金が織り成す質実剛健とした風景の中、皇厳宮に向かって歩いてくる一行があった。先頭を進むのは、西帝国の文官であり、その隣を白髪に黒衣の女性が歩いている。シーラだ。つまり、その背後を進む集団とは、ファリアたち一行のことであり、ファリア、ミリュウ、レム、エリナ、ダルクス、ゲイン、ミレーユの全員が揃っているだろう。シーラには、搭乗員全員を連れてくるようにいってある。
女神マユリの姿がないのは、船を空っぽにするわけにもいかない手前、当然といえば当然だが、かなり申し訳なく想うのも当然だった。
「せえええええつなああああああああぎゃあああっ」
「ミリュウ様!?」
蹴躓くような突起物があるはずのない場所での突如の転倒に、ミリュウの後を追っていただれもが騒然となって彼女に駆け寄った。セツナも即座に駆け寄ろうとしたが、ニーウェの声のほうが早かった。自然、足止めされる。
「君は、彼女たちを幸せにするといったな」
「ああ」
肯定する。
セツナが幸せになってほしいと願うのはなにも彼女たちだけではないが、いまは、それでいい。
「並大抵の努力ではできないことだぞ。ひとひとり、幸福にするというのは困難なことだ」
「わかってるよ。それくらい」
「だったらいいさ。君が彼女たちのご機嫌取りに血反吐を吐いてのたうち回る様を想像させてもらうとしよう」
ニーウェの嫌味に満ちた物言いに、さすがのセツナも苦い顔をした。
「なんつーか、棘がねえか?」
「逆になぜ、俺の言葉に棘がないと考えるんだ?」
「根に持ってやがる」
「根にも持つさ。俺はようやく希望が見えたというのに、俺の希望は俺を拒絶したんだぞ」
「だから」
「でも、まあ、俺の希望は優しすぎるくらいには優しいものな。いざとなれば、力を貸してくれることはわかっているよ」
「……あのなあ」
セツナは、ニーウェが言外に、最悪の場合は、代行者案を実行に移すといっているように聞こえて、頭を抱えたくなった。無論、彼がいいたいことはわかる。彼は、最後まで自分を諦めるつもりはないのだ。しかし、たとえそう想っていても、現実はそう上手く行かないかもしれない。白化症が彼の意識を蹂躙し、自我を破壊し尽くし、怪物と成り果てた場合、もはやきれい事をいってはいられなくなるだろう。
セツナも、そのときは、覚悟しなければならない。
ニーウェにあれだけのことをいったのだ。
その責任は取らなければならないだろう。
セツナが覚悟の有り様をひとり認識していると、物凄い勢いでミリュウが駆け寄ってきた。思わず抱き留めれば、彼女はその勢いでセツナに抱きつき、首元に顔を埋めてくる。
「せつなあああああ……うう」
「どうしたんだ?」
「こけちゃった」
「痛かったなあ」
「うう、痛かったよう」
人前で思い切り甘えてくるミリュウをあやすようにしていると、ファリアのあきれたような顔とシーラの白い視線に気づかされる。レムはいつものように微笑み、エリナはうらやましそうにしていたため、問題はないのだが。シーラがミリュウに聞こえるような声でつぶやいた。
「子供かよ」
「子供じゃありません-、残念でしたー」
「子供じゃねえか」
「ぶー」
「なにがぶーだよ」
シーラとミリュウが口喧嘩をするのはいつものことだが、だからといって看過できることではなく、セツナは、彼女たちの仲裁に入った。
「ふたりとも、皇帝陛下の御前だぞ。少しは礼儀というものをだな」
「まあ、いいさ。元気があってなによりだ」
「よくはないでしょう、陛下」
「君がいうことかい」
ニーウェは、呆れ果てたように肩を竦めた。すると、すぐ後ろのミーティアがくすりと笑う。ミーティアにとっては、そんなニーウェの様子がおかしくも嬉しいらしい。ニーウェのことだ。ここのところ、肩肘張った窮屈な生き方をしてきたに違いない。ニーウェは、セツナとは違って生真面目にもほどがある人間だった。
ニーナも、皇位継承以来、ニーウェとふたりきりの時間が持てていないというようなことをいっていた。
皇帝としてどうあるべきか、熟慮に熟慮を重ねてのことだろうが、その結果、周囲のひとたちに気遣われていることに彼は気づいているのかどうか。