第二千三百十話 ニーウェハイン(八)
「君は、知っているかな」
ニーウェは、仮面を卓の上に置くと、白く変容した顔面に指先で触れて見せた。人肌のような柔らかさはそこにはなく、硬く、彼の指を拒むかのようだった。
「異形症、と、帝国ではいっている。大崩壊以来、帝国領土各地で見られるようになった症状だ。治療法はいまのところ確立されていなくてね、不治の病とされている。それだけならまだしも、この症状が現れた人間はもれなく異形の怪物に成り果て、ひとを襲うようになる。だから、異形症を発症した人間は、多くの場合、処分される。俺のような特別な地位にでもなければ、ね」
「……知っている。知っているとも」
セツナは、ニーウェの淡々とした説明に対し、そんな言葉を引っ張り出すのが精一杯だった。彼の語る症状は、まさに白化症のそれと同じだ。見ただけでそれとわかるのだから、症状の内容が違うわけもない。そんな希望を持ってもいない。
「俺たちはそれを白化症と呼んでいる」
「白化症……なるほど、言い得て妙だね。確かに白く変化している」
彼は、右手を見遣り、苦笑した。右手の壁には、鏡がかかっていた。まるで彼の素顔を移すためだけのように、だ。そして、その鏡を見遣りながら、彼は白く変容した顔に触れるのだ。
「この症状が現れたのは、およそ半年前のこと。それまでは、なんということもなかったんだ。そしてそのころは、君がいった通りのことを望んでもいた」
エッジオブサーストによる異界化の解除のこと、だろう。
「でも、ね。そういうわけにはいかなくなった。君がどこまで異形症について知っているかはわからないけれど、俺は、実体験として知っているんだ。これは、この症状に侵されたものは、次第に人間性を失っていくものなんだって」
「……ああ」
「最初は、大したこともなかった。痛みさえ感じないくらいだった。だから、耐えられると想ったんだ。でも、そうじゃなかった。白い部分が増えるに連れて、痛みが増大するんだよ。その痛みは段々、耐え難いものになっていっていてね、いずれは発狂するんじゃないかって想うよ」
ニーウェのあまりの冷静さに、セツナは、茫然とした。彼は、自分の身に起きていることを傍観者のような他人行儀さで観察し、把握している。諦観なのかもしれない。
「でも問題は、そこじゃないんだ。痛みは、耐えられる。たぶん、俺なら発狂せずにいられるだろう。この症状の最悪は、そこじゃあないんだよ」
「そうだろうよ」
「君も、知っているんだよね。異形症の行き着く先。ついさっきもいったことだけどさ」
「ああ。知ってる」
肯定し、続ける。
「そうして、白化症に冒され、異形の怪物に成り果てたものを何人も殺してきたんだ。知らないわけがないだろう」
「そうか……」
彼は、満足したように微笑んだ。もっとも、顔面の左右が白と黒に分かれ、異形化した彼の笑顔は、目元で判断するしかないくらいよくわからないものだ。混沌としている。
「それなら、わかるだろう。俺がなにをいいたいのか」
「殺せ、っていうのか。俺が、おまえを」
「究極的には、そうなるかもしれない。いや、そうなるだろうね」
「ふざけ――」
「ふざけてなんていないさ。俺は本気なんだよ、セツナ」
ニーウェの静かな言い方には、セツナも言葉を止めざるを得ない力があった。彼は、いつになく冷静であり、その冷ややかさは、セツナの感情の昂ぶりを抑える力がある。
「本気で、君に俺をやって欲しいと想っているんだ」
「ニーウェ!」
「この姿を見て、白化症とやらの実情を知っているのなら、君にだってわかるはずだ。俺には、もう時間がないんだ。いま、この状態で意識を保っていられることすら、普通ではあり得ないことくらい、君にだって理解できるはずだ」
ニーウェは、断言するとともに左側の髪をかき上げ、見せつけてきた。白化症に冒され、変容した頭部が改めて明らかになる。そこには、白く小さな顔が蠢いていた。天使のように整った顔をしているようなのだが、だからといって、それを美しいものと受け入れることは困難を極めるだろう。いわゆる、人面瘡と呼ばれるものだろうが、それにしても、白化症がそのような症状を見せることは知らなかった。
「俺が意識を保っていられるのは、こっちのおかげなんだよ」
そういって彼が示したのは、黒く異形化した右半身だ。
「異界化した右半身が異形症の侵蝕を抑えてくれている。だから俺はこうして自我を保つことができているんだ。もし、異界化していなければ、俺はもうとっくに異形の怪物となって暴れ回っていただろうさ。だから、そういう意味でも君に感謝しなければね」
「感謝……って」
「あのとき、君との決戦がなければ、俺は大切なひとたちを傷つけ回る怪物になっていた可能性が高いだろう?」
それは、そうなのだろう。
彼のいうことだ。エッジオブサーストの能力による異界化が良い方向に作用し、白化症の影響を抑えているという実感があるのだろうし、実際にそうなっているからこそ、彼が自分を維持できているのも疑いようがない。白化症による変容があそこまで進行していながら自我を保っていられる人間など、聞いたこともなかった。
「……そんな感謝、いらねえよ」
「そうだね。これから、もっと感謝しなければならないし」
「だから……!」
「セツナ。君にしか頼めないことなんだ。どうか俺の願いを聞いてくれ」
彼は、そういうと、深々と頭を下げてきた。
どうして自分なのか、などと問えるわけもなかった。
セツナ以外のだれにニーウェの代わりが務まるというのか。仮面を被ればいいというわけでもあるまい。声でわかる。国民は騙せても、側近たちにはばればれだろう。無論、それでも誤魔化せないわけではない。側近たちも共犯者に仕立て上げればいい。西帝国政府ぐるみでニーウェハインを作り上げればいい。
「そうは、できないのか……?」
セツナがそのことを問うと、彼は頭を振った。
「もし、ニーウェハインの本物が異形症のために退き、偽者が成り代わっているということが外部に漏れれば、それだけで西帝国は瓦解の一途を辿りかねない。いっただろう。この国は、俺によって成り立っている。正当皇位継承者たる俺が、この国の大義なんだ。偽者に大義などあろうものか」
彼はいう。
皇帝が偽者だと判明した途端、この国の大義は消え失せ、人心は急速に離れていくだろう、と。偽者の皇位継承者を掲げるくらいならば、帝都を抑えたミズガリスにつくほうがまだましだ、と、だれもが判断するに違いない。だからこそ、ニーウェでなければならないのだ。ニーウェが正当なる皇位継承者だからこそ、西帝国は成立している。それがなくなれば、瞬く間に瓦解するのは当然なのかもしれない。
西帝国を拠り所にするものたちは、なんとしてでももり立てようとするだろうが、だれもがそうではあるまい。ニーウェという大義があるからこそ、付き従っているものも少なくはないのだろう。
「その点、君ならば問題はない。素顔を曝しても、だれも疑わないだろう。この異界化した半身も、元に戻ったといえばいいだけのことだ」
「国民は騙せても、大総督や側近は無理だろう」
「俺が話すさ。そして納得してもらう」
「そう簡単に納得してくれるとでも?」
「納得してもらうといった。二言はないよ」
彼の迫力に満ちた断言に、セツナは口をつぐんだ。彼は、本気だ。本気で、いっている。真剣そのものだった。
「俺は、この国を終わらせるわけにはいかないんだ」
ニーウェの目に迷いはなかった。