第二千三百九話 ニーウェハイン(七)
「君にしかできない、とても重要な頼みだ。聞いてくれるか?」
「内容も聞かずに承諾できるわけがないだろ。皇帝陛下の勅命なら話は別だがな……そういうわけじゃあないんだろ?」
セツナは、ニーウェの目を見つめながら、彼の思考を読み解くように尋ねた。女神のように美しい仮面の奥で、彼がどのような表情をしているのかわからず、故に感情も想像できない。しかし、それにしても、彼がふたりきりだというのに仮面を取らないのはどういうわけなのか。
余人に見せるわけにはいかないという彼の考えは、理解できる。異形化した半身は、悪魔のそれと等しく、ひとびとに嫌悪感を与えかねない代物だ。故に彼が仮面を纏うのはよくわかるのだ。しかし、その事実をよく知るセツナとふたりきりになってなお、そうして仮面を被り続けるのには、なんらかの理由がある気がしてならなかった。
それが、ふたりきりになってからというもの、ずっと引っかかっている。
たったふたりきりの室内。皇帝の執務室は、皇厳宮の三階、奥まったところにあり、余人の目が届くことも、耳があるわけでもない。セツナとふたりきりにさせるわけにはいかないと、親衛隊がついているということもない。ニーウェは、セツナが裏切るわけがないと信じ切っている。同一存在だったが故の反応といっていいだろう。セツナも、ニーウェのひととなりはある程度理解できていたし、彼が信頼に足る人物だということも認めていた。
だからこそ、嫌な予感を覚えずにはいられない。
「なんなんだよ、その俺への頼みって」
「……皇帝としての勅命だとしても、同盟者である君に命じられるわけもないだろう。だからこうして頼むのさ。君に、ただ頼むしかないんだ」
「だから、俺になにをして欲しい?」
セツナがまたしても同じことを問うと、彼は、仮面の奥で目を細めた。そして、思い出すようにして、いってくる。
「君は、俺と同じだった」
「うん?」
「同一存在。異世界に存在するもうひとりの俺。同じ魂の形、色彩を持った、魂の双子。それが俺にとっての君であり、君にとっての俺だった」
「かつてはな。いまは違う。ニーウェ。あんたがエッジオブサーストで自身を変容させた結果、同一存在ではなくなったんだ。それは、あんただってわかってることだろう」
そこまでいって、セツナは、ふと閃くものがあった。それ以外には考えられない。
「……そうか。そういうことか」
「ん?」
「エッジオブサーストで元に戻せるかどうか、試して欲しいってことだな?」
セツナは、推測を言葉にして、確信を抱いた。ニーウェが右半身を隠しているのは、エッジオブサーストの究極の力である異世界の召喚によって右半身そのものを異世界へと変容させたからだ。異界化、異形化した半身を元に戻すことができれば、彼にとってだけではなく、彼の周囲にとっても、西帝国にとっても万々歳だ。これ以上望むことのないくらいの出来事となるだろう。彼は、衆目に素顔を晒せるようになるのだ。それは西帝国臣民のだれもが望んでいることに違いない。
彼自身がもっとも強く望んでいることではないか。
そしてそれが試せるのは、セツナ以外のだれでもない。しかも、生半可な覚悟でできることでもなかった。試したとして、成功するかどうかわかったものではないし、もしかすると、もっと悲惨な結果に終わる可能性だってあった。
それが、嫌な予感の原因なのではないか。
セツナの推測は、しかし、大きく外れた。
ニーウェは、静かに頭を振ったのだ。
「そうじゃないんだ。そういうわけじゃない」
「は? なんでだよ」
「いま、そんなことを試して、成功すれば、それこそ俺は――」
彼の否定的な言葉は、セツナにはまるで理解のできない響きを含んでいた。まるで、異界化の解除が彼にとって致命的になるかのような言い方だ。嫌な予感がセツナの胸中で増大する。
「君に頼みたいのは、もっと別のことさ」
「ニーウェ……?」
セツナは、彼の名を口にすることすら億劫になっていた。だが、呼ばずにはいられない。彼の思考がまるで理解できない。感情も。なにを考えているのか、なにを想っているのか、なにを願い、なにを望み、なんのためにふたりきりになったのか。悪いことばかりが脳裏を過ぎる。そして彼は、予想した中で最悪の回答を提示してきた。
静かに。
静謐の間の静けさよりも、もっと深く、沈み込むような穏やかさで。
「セツナ。俺は君に、俺になって欲しいんだよ」
「……なにいってんだ?」
「いった通りのことさ。セツナ」
彼は、セツナの頭の中の混乱を把握しているかのように、やんわりと告げてきた。そのまま、続けてくる。
「君と俺は、鏡映しのようにそっくりだった。四六時中俺の側にいたミーティアのお墨付きだ。君が俺に成り代わったところで、ごく一部の人間を除いて、気づきもしないだろう。異形化した半身が元に戻ったと想う程度でね」
「なにをいってる……?」
「君になら、俺の代わりを任せられる。君は、俺だ。俺と同じ魂の持ち主。成長過程こそ違うけれど、本質に大きな違いはない。そうだろう? 君も、約束を命の源とする。一度結んだ約束を無碍にはできない。いや、約束を破れば、それだけで命を削られる。そんな人間だ。俺も、君も」
一方的にまくし立てられて、セツナは、狼狽えた。理解のできる言葉。納得のいく言葉の羅列。しかし、その理解を本能が拒絶する。その納得を心が拒否する。それを認めれば、彼の申し出を受け得ざるを得なくなるのではないか。
「君になら、任せられる。ミーティアたち三武卿も納得してくれるだろう。大総督も、ニーナのことも、頼むよ。幸せにしてやってほしい。俺にはできないから」
「だから、さっきからなにをいってるんだよ!」
叫び、卓を叩くとともに溢れ出した感情は、セツナ自身にもどうしようもなくなっていた。止めどなく、言葉が溢れ出る。
「俺に、あんたに成り代われっていうのか!? どうして!? いってることがめちゃくちゃじゃねえかよ! 約束が命なんじゃないのか! あんたは、皇帝になってひとびとを導くと約束したんじゃねえのかよ! そのために命を費やすんだろ!?」
「そうだね。その通りだ」
彼は、穏やかだった。まるでセツナの激昂と相反するくらいの温和さで、静かに認めるのだ。
「俺だって、本当はそうしたい。この命が燃えて尽きるまで、この国の、帝国のひとびとのために尽くしたい。父上がそうしたように、歴代皇帝の輝かしい功績に恥じることのない生き様をこの地に刻み、帝国をより良くするためだけに生きたかった。それが、いつからか俺の夢になった」
「だったら……!」
「夢は、夢なんだよ」
「なにを――」
「俺には、時間がない」
彼は、仮面を両手で掴むと、ゆっくりと脱いだ。そして、目の前に曝された彼の素顔を目の当たりにした瞬間、セツナは、絶句するほかなかった。あまりにも衝撃的過ぎて、頭の中が真っ白になった。様々な感情が一気に噴き出して、混乱が起こる。
それは、絶望に等しかった。
ニーウェの顔面は、右半分が黒く異形の怪物と成り果てている。それは、彼との決戦において見慣れたこともあり、久々ということもあって驚きはするものの、別に大したことではないと思える。受け入れられる。だが、左半分に起きている事件を目の当たりにすれば、セツナとて言葉を失うしかなかったのだ。
彼の顔の左側は、大半が白く変容していた。白く化粧を塗りたくったような白さではない。生々しく、嫌悪感を催す白さ。異様といっていい。ただ変色しているだけではない。変容、変質なのだ。形そのものが変わっている。目元はセツナと鏡映しだが、それ以外の部位、特に眉から上が酷かった。頭皮までもが白く濁り、頭髪も異形化しているといっても良かった
それはつまるところ、彼が白化症に侵されているということを示していた。