第二千三百八話 ニーウェハイン(六)
「しかし、生きていてくれて良かった。本当に」
ニーウェハインが極めて気楽な物言いでセツナの生存を喜んだのは、静謐の間での謁見を終え、別室に場所を移したからだろう。しかも、ニーウェハインの執務室らしい広々とした部屋には、セツナと彼のふたりしかおらず、側近の閃武卿さえ、席を外していた。
それがニーウェハインの望みであり、シーラも同じ理由で席を外しているのだが、彼女の場合は、ただ席を外しただけではなく、方舟の皆を皇厳宮に導くという役割があった。もちろん、帝都に詳しくもない彼女ひとりにできることではなく、皇厳宮で働く文官が様々な手配をしてくれる手筈になっている。
謁見中、皇帝権限によってセツナ一行の帝都滞在が認められただけでなく、セツナ一行と西帝国の協力関係が結ばれることとなったのだ。それは、セツナとニーウェハインが同盟者として対等の関係を結ぶというものであり、ミーティアは無論のこと、セツナも、皇帝の考えを訝しむほどの厚遇だった。当初、セツナがニーナたちと結んだ契約というのは、東ザイオン帝国打倒のため、西ザイオン帝国に協力するというものであり、契約期間中セツナたちは西帝国に従属する予定だった。そういった内容の契約書をニーナとセツナ、それぞれが携えていて、セツナもそれをニーウェハインに提出している。
しかし、ニーウェハインは、その契約を見るなり、西帝国とセツナ一行は主と従の関係ではなく、対等な関係であるべきだと主張した。
『貴公の力にはそれだけの価値がある。そうは想わないか?』
『しかし、それでは、わたくしは陛下と対等な立場になりかねませんが?』
『そうするべきだ、とわたしはいっているのだよ、セツナ殿』
結局、ニーウェハインの熱意に押し切られる形で、契約内容が改められることとなり、そのための詳細な話し合いは、後日行われることとなっている。
ファリアたち待機組を皇厳宮に呼び寄せるのは、そのためでもあった。難しい話は、セツナとシーラよりも、ファリアに任せたほうが安心できる。
また、ニーウェハインは、セツナたちが皇法区内に滞在できるよう取りはからうといい、そのことをミーティアに命じてもおり、彼女はいまごろそのために走り回っているだろうとのことだ。
執務室には、穏やかな静寂がある。
セツナとニーウェハイン。
かつて全存在を賭けてぶつかり合ったふたりだが、いまは、あのときの因縁など忘れ去ったかのよう向かい合っているのだ。執務室の片隅に向かい合った長椅子に腰掛け、卓を挟んで、だ。運命の不思議さを感じずにはいられない。
「俺は、幸運だ」
彼は、みずからセツナの器に茶を注ぎながら、いった。声音には、本心からの喜びが溢れている。謁見の際もそうだったが、彼は、余程セツナとの再会を喜んでいるようだった。
「俺という戦力が手に入ったからか?」
「それもある。が、まずは、互いの無事の再会を喜び合ってはくれないのか? 元、同一存在だろう」
彼の少し哀しげな口調に対し、セツナは、バツが悪くなった。別に彼のことを非難しているわけでもないのに、そのように受け取られかねない反応だ。
「……俺だって、嬉しいことは嬉しいよ、ニーウェ。ニーウェハインと呼んだほうがいいか?」
「いや、ニーウェでいい。そのほうが話しやすいだろう」
「まあ、な」
ニーウェ自身、極めて砕けた口調で話していることもあり、セツナは、彼の提案を受け入れた。そのためにふたりきりになったということも、わかりきっている。人目のつくところでは、さすがにニーウェなどと軽々しく呼び捨てることはできない。いくら対等な同盟関係を結ぶ段取りになっていたとしても、だ。ニーウェ自身はよくても、周囲がそれを認めはしないだろう。
セツナは、ニーウェが腰を落ち着けるのを待って、口を開いた。
「“大破壊”以来、いろいろ大変だっただろう。特に皇帝になんてなったんだ。その重責は、領伯の比なんかじゃあない」
「当たり前だ。この帝国の一部だけで小国家群のどれだけの国が収まると想っているんだ? 君のそれは、せいぜい数個の都市の支配者だろう。比べるようなものじゃあないよ」
「そりゃそうだ。そんな大変なこと、よくやろうと想ったな」
「俺が立たなきゃ、ミズガリスの天下になるのは目に見えていたからな。立たざるを得なかった」
「ミズガリス……か」
ミズガリスとは、東ザイオン帝国皇帝ミズガリスハインのことだ。ミズガリスハインがどういった人物なのか、セツナはあまり深くは知らなかった。西帝国の置かれている状況さえ、この南ザイオン大陸の情勢さえ、ニーナたちからつぶさに説明された程度の情報しかないのだ。ミズガリスハインのことで知っていることといえば、末弟のニーウェに対する辛辣な態度や言動くらいのもので、セツナの中で彼への印象は頗る悪い。すべて、ニーウェ主観の記憶でしかないが、だからこそ、セツナはニーウェに対して同情的にならざるを得ないし、まるで自分が受けた仕打ちのように想ってしまうというのもあるだろう。
ニーナに対する複雑な感情も、ニーウェの目線で彼の記憶を見たことが原因だろう。
「いまはミズガリスハインと名乗っているよ。ハインは、初代皇帝の名前でね、皇位継承者は、自分の名前にハインをつける義務がある。だから俺はニーウェハイン。私的なときは、ニーウェで構わないんだけどね」
「その、ミズガリスハインの天下になるのは、まずいのか?」
「少なくとも、俺とニーナの将来にとっては、最悪のものとなるのは明白だ」
ニーウェの断言に、セツナは息を呑んだ。
「彼は、俺のことを恨んでさえいる」
「恨む? ニーウェをか?」
「単純な理由さ。長兄ミズガリスは、三公五爵の頂点たる天智公として帝国に尽くしてきた人物だ。彼は先帝の治世において必要不可欠な存在とまで謳われた。その実績、実力は、だれもが認めるところだ。俺だって、その点においてはミズガリスを批判する権利を持たない。そして、だからこそ、彼は後継者争いにおいて常に頂点を独走していた。二位がマリアンとミルズのふたりの間で長らく火花を散らしている間、彼の一位は揺るぎようがなかった。先帝も、ミズガリスを皇位継承者に定めようとしていた節がある」
「……だというのに、ニーウェが選ばれた。か」
セツナは、芳醇な茶の香りに誘われるまま、茶器を手に取った。紅い液体が茶器の中で湯気を立ち上らせている。紅茶らしい。
「そうだ。俺も、どういう理由なのかは知らない。が、状況証拠から推察するに、帝国が小国家群侵攻を定めた原因が俺にあり、その原因が、先帝にとって重要極まりない事項だったようだ。故に、先帝は俺を皇位継承者と定めた。そして、そのためにミズガリスは怒り狂った。自分が長年積み上げてきたものを、皇位継承者争いから外れていた末弟に崩されたんだ。彼の気持ちは、わからないではないよ」
「まあ、確かにな」
「だからこそ、彼の天下になれば、俺たちがどのような目に遭うか、火を見るより明らかだろう。彼は、政策において間違いをするような人間ではないし、政治家としても軍人としても有能無比といっても過言ではない。が、気難しい気分屋でね、どんな重臣であれ、気分次第で処断することもあるような狂気も持ち合わせているのさ」
「なるほど……」
「それに、彼は万民のための国家を作る気はない、というのもある。選民思想なんだよ、ミズガリスは。だから、彼の天下になれば、帝国は大きく変わるだろう。それが良いか悪いかは関係がない。これまで帝国が築き上げてきたものがすべて台無しになる可能性を危惧しているのさ」
ニーウェの熱弁に、セツナは、聞き手に回り続けた。彼と共同戦線を張る以上、彼の掲げる正義を知り、少なくとも同調したいという想いがあったのだ。契約上、どんな理由があれ、命じられたことはするつもりだったが、それにしたって、納得できるものであるほうが好ましいのは当然のことだ。
「彼の天下になれば、一部のものは限りない栄光の中で人生を謳歌するだろう。が、それ以外のものはどうなるか。現状、東帝国はそれなりに上手くいっているようだが、気分屋の支配者が本領を発揮し始めればどうなるものか、わかったものではないんだ」
「だから、立ったと」
「俺が立たなくとも、だれかは立っただろう。けれど、俺じゃなくちゃ、東帝国に一蹴されて終わっただろう」
彼の自負心の出所がどこにあるのかは、西帝国の現状を見れば一目瞭然だ。ニーウェが皇帝として立ったからこそ、西帝国は成り立ち、一枚岩の如く堅牢な組織を構築することができたのだ。ニーウェは、先帝シウェルハインによって選ばれた正当なる皇位継承者だ。これ以上の説得力と正当性、大義は、ほかの後継者候補には存在しないのだ。彼の姉であるニーナでも、無理だっただろう。ある程度の戦力が集まったとしても、大義の薄さが敗北を決定的なものとする。
やはり、正当継承者ニーウェでなければ、ひとも力も金も、集まらなかったに違いない。
「立ち上がったはいいが、ここまで来るのは大変だったよ。父上がいかに偉大な方だったのか、いまさらになって思い知らされる」
「随分……無理をしているようだな」
セツナは、彼の吐露した心情に心底同情するしかなかった。
「そうしなければならないからな。だれかがやらなければならないことだ。そして、それが俺にしかできないなら、俺がなんとしてでもやり遂げなければならない。君だって、俺の立場なら、そうしたはずだ。君も、俺と同じだ。約束だけで、生きている」
「……ああ」
肯定する。
まったくもって、その通りだ。約束が突き動かす。約束がある限り、戦える。どのような無理だって、やり通せる。体が壊れ、粉微塵になろうとも、魂は燃え続け、成し遂げようとするだろう。これまでがそうだった。これからも、そうに違いない。
約束。
つまり、彼もまた、約束によって奮い立ち、皇帝として立ち上がったのだ。
そのためならば、彼はきっと、万難を排し、突き進むだろう。
セツナがそうであるように。
「だれかとの小さな約束が俺と君を奮い立たせる。俺も君も、かつては同じ魂の持ち主だった。同じ形、同じ色彩をした魂の、同一存在。それが俺と君だ」
仮面の奥の瞳が、じっと、セツナを見つめていた。紅い瞳。セツナとまったく同じ形の左目と、異形化した右目。それぞれ異なる色彩を帯びているように見えた。
「だから、君が生きて、ここに辿り着いてくれて良かった、と、心の底から想うんだ。これはまさに運命の巡り合わせだ。天の配剤に感謝しなければならない」
「なにを……いってるんだ?」
セツナは、ニーウェが突然言い出した言葉の意図が読めず、わずかに困惑を隠せなかった。彼は、セツナが西帝国の協力者として現れたことをいっているようではなかった。少なくとも、戦力としてのセツナに期待するような言葉ではあるまい。もっと別の、深い意味のある言葉のように感じられた。
「君に頼みがあるんだ」
ニーウェがそう切り出してきたとき、セツナは、悪い予感を覚えずにはいられなかった。