第二千三百七話 ニーウェハイン(五)
「わたしとしたことが、大切なことを忘れていたよ」
ニーウェハインが思い出したようにいった。
「まず、貴公の生存とこの場での再会を喜び合うのが先決だった」
「陛下……」
「貴公ならば、世界大戦を生き延びること間違いないと信じていたが……しかし、その直後、世界の有り様を見れば、貴公の無事を願う以外にはなく、こうして無事な姿を目の当たりにすることができたのは、望外の喜びとしかいいようがないのだ」
ニーウェハインは、玉座から腰を上げると、セツナに向かって歩み寄ってきた。ミーティアが制止しようとして、止める。皇帝は、茫然とするセツナの目の前までくると、傅いたままのセツナを抱きしめてきた。装束の下、異形化した右半身の感触が伝わってくる。
「陛下……わたしは」
「良いのだ。いまは、貴公の生を実感させておくれ」
仮面の奥から聞こえる彼の声音は、涙ぐんでさえいた。
セツナは、彼の感情の急激な昂ぶりが理解できず、置いてけぼりにされたような気分にならざるを得なかった。致し方のないことだろう。ニーウェハインは、ひとり、盛り上がっている。生還と再会を喜んでくれるのは、素直に嬉しい。セツナだって、かつての同一存在がこうして無事に生きていて、その姿を目の当たりにしたことには、心の底から喜び、声に出したいほどだった。しかし、それにしても、涙が出るほどとはいかない。なぜならば、セツナとニーウェは、そこまで深く関わり合ったわけではないからだ。
命のやり取りは、した。
同一存在として、その全存在を賭けて滅ぼし合わなければならなかった。黒き矛の使い手と、その眷属の使い手という対立する立場でもあった。それ故、ほかのだれよりも濃密かつ熾烈な戦いを繰り広げたものだったし、あの戦いは、セツナにとって終生、忘れ得ぬものとなったのも事実だ。しかし、逆をいえばそれだけの間柄といえば、それまでなのだ。
戦場で命のやり取りをしただけの関係性に過ぎない。
結果、互いに生き残っただけのことだ。
それ以降、セツナはニーウェのことを多少気にはしたものの、自分の人生に関わることはないと思い込んでいたし、ニーウェだってそうだったはずだ。小国家群の人間と帝国の人間が深く関わることなど、ありえない。
だというのに、ニーウェハインは、セツナの体を抱きしめたまま、しばらく嗚咽を噛み殺すようにして、体を震わせていた。彼がなにをそこまで感動しているのか、セツナは、むしろ、彼の感情の流れを理解できない自分を歯がゆく想ったし、そんな自分を想ってくれるニーウェハインに感動さえした。
セツナの側に控えているシーラも不思議に思っただろうし、玉座の側に立つミーティアも怪訝な顔をしていた。
だれもが、ニーウェハインの言動に奇異なものを感じざるを得なかったのだ。
だが、その疑問を口にすることは、なにものにもできない。
ニーウェハインは、セツナから体を離すと、ゆっくりと玉座に戻っていった。
「取り乱して、済まなかった」
玉座に腰を下ろすなり、彼は、気恥ずかしそうにそういった。
「貴公は、我が異世界の半身。故にこそ、貴公の生存と再会には、魂が震えてならなかったのだ」
ニーウェハインのその言葉は、言い訳のようにしかセツナには受け取れなかった。実際、彼のその一言はミーティアを納得させる効力はあったのだ。ミーティアは、ニーウェハインの発言を受けて、理解を示すような素振りを見せた。三武卿こと旧三臣は、ニーウェの側近であり、気の置けない友人たちでもあった。彼がセツナとの関係を三臣に明かしていたとしてもおかしくはない。
セツナが、シーラやファリアたちにニーウェとの関係を明らかにしたのと同じようにだ。シーラも、ニーウェハインの発言に理解を示したのは、ミーティアと同じ情報を持っているからにほかならない。
だからこそ、セツナには、彼の発言が言い訳にしか聞こえないのだ。
彼と同じ立場であるはずのセツナの魂は、ニーウェハインを目の当たりにしても、涙を流すほどには震えなかった。
なぜならば、セツナとニーウェハインは、すでに同一存在ではなくなっているからだ。
ニーウェがエッジオブサーストの能力によって自分の肉体を異界化させたこと、セツナがニーウェに打ち勝ったのち、合一を拒んだこと――このふたつの要素が、セツナとニーウェの同一性を断ち切るように作用したようだ。その結果、セツナとニーウェは、命の奪い合いをする必要性がなくなり、故にこうして、生存と再会を喜び合える関係になったのだが、だからこそ、セツナは違和感を覚えずにはいられなかった。
ニーウェハインが、なにかしら複雑な感情をセツナに対して抱いているのではないか。
そんな気がしてならなかったが、とはいえ、その感情が暗いものではなく、むしろ明るいものであるように感じ取れることもあり、セツナは、そのことで彼を警戒することはなかった。
「さて、話を戻そう。セツナよ。貴公は、大総督ニーナ・アルグ=ザイオンおよび光武卿ランスロット=ガーランドとの交渉に応じ、我が帝国と協力関係を結んだと聞くが、真か?」
ニーウェハインが務めて威厳に満ちた声を出すのを見て、セツナは、彼が無理して皇帝を演じていることに気づいた。彼は皇族であり、末の皇子ではあるのだが、だからといって皇帝らしい振る舞いを自然にこなせるかどうかは別の話だ。そして彼はおそらく、そういう風に振る舞うのを苦手としているのだろう。
「陛下の仰る通りにございます」
セツナは、ニーウェハインの質問を肯定するとともに、ベノア島での出来事についてつぶさに語った。
大総督ニーナ率いる船隊がベノア島を訪れ、騎士団に協力を求めたこと。騎士団は、戦力を手放すことができないために断り、その代わりにセツナが帝国の協力者となったこと。そして、その代価として、メリッサ・ノア号がセツナの足になったこと。おかげでセツナはリョハンに向かうことができた上、ファリアたちとの再会を果たせ、さらに方舟を手に入れることができたのだから、ベノアでのニーナたちとの接触は、凄まじく大きな転機となっているのだ。
そういったことを掻い摘まんで説明する中で、ニーウェハインもミーティアも大いに驚き、あるいは感嘆の声を上げた。海の外では現在どのようなことが起こっているのか、彼らは、ようやく理解したのだ。
「大総督はつい先頃、ヴェイルイログに辿り着いたばかり。帰国の報告を手紙で寄越してくれたが、そこには貴公との交渉やその結果については触れられていなかった。大総督のことだ。わたしに直接報告し、驚かせようと考えていたのだろうな」
「ニーナ様らしいことで」
ミーティアがほくそ笑む。
「しかし、幸か不幸か、貴公のほうが先に帝都に到着してしまった。大総督の目論見は、ご破算になったわけだ」
「それは、大総督閣下には申し訳ないことをしました」
「いや、よいのだ。大総督とて、貴公が一日でも早く我が帝国領土に辿り着き、協力してくれることを望んでいるだろう。まあ、わたしの驚く様が見れないことには、落胆を隠せないだろうがな」
ニーウェハインが仮面の奥で笑うと、ミーティアも苦笑を禁じ得ないようだった。ふたりの反応から、大総督ニーナの立場が垣間見えた気がした。皇帝にとっても、その側近にとっても気の置けない間柄なのだろう。そういった仲の良さは、無関係の他人であるセツナにとっても、多少なりとも嬉しいものだ。
「ともかく、貴公は、大総督との約束を果たしにここまで来てくれたわけだ。その事実には、西帝国民を代表して、感謝させてもらおう。ありがとう」
「……恐れ多いことです」
「わたしは、なんとしても東帝国に打ち勝ち、この南ザイオン大陸に絶対的な秩序を打ち立てなければならないのだ。そのためには、大いなる力がいる。圧倒的な力が」
ニーウェハインは、拳を掲げ、強く握りしめた。そこには、皇帝としての威厳と誇りがあり、強い決意と覚悟があった。
「それが貴公なのだ」
セツナは、ニーウェハインの仮面の奥に輝く双眸に見据えられ、静かにうなずいた。