第二千三百四話 ニーウェハイン(二)
西ザイオン帝国は、南ザイオン大陸の西側のおよそ半分をその版図としている。東半分を版図とする東ザイオン帝国と、南ザイオン大陸の覇を競い合っているという情勢が、ここ一年近く続いていた。
最初に帝国を名乗ったのは、東ザイオン帝国だ。
世界大戦最終盤、ガンディア王都ガンディオンを極光が貫いたとき、ニーウェハインらは、先帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオンの導きによって帝国領土へと転送された。シウェルハインが最後の最後、自己を取り戻し、自分の意思で、帝国臣民を護るためになんらかの力を使ったのだ。それによって、ニーウェハインらは帝国領土に返り咲いたものの、転送された先は、それぞれにばらばらだった。一箇所に集まるよう、転送されたわけではなかったのだ。おそらく、それがシウェルハインの限界だったのだろう。
ニーウェハインは、ニーナや三臣らとともに第六方面シーフェライトに転送された。その直後、大崩壊が発生し、ニーウェハインらはその破滅的かつ終末的な天変地異の発生に言葉を失った。状況が落ち着くまでに時間がかかった。
その混乱を大いに利用したのが、ザイオン皇家の長兄ミズガリス・ディアス=ザイオンだ。帝都ザイアス近郊に転送されたのだろう彼は、手勢でもって帝都を制圧、帝国全土の安定と秩序の維持、帝国臣民の安全をいち早く確保するため、という大義名分を掲げ、皇位継承を宣言した。
シウェルハインの死は、世界大戦の戦場より帝国領土に転送されただれもが知ったことであり、大崩壊によって引き起こされた終末的大混乱を治めるには、だれかが皇帝として立たなければならないことは、周知の事実でもあったのだ。ミズガリスは、そういった情勢を最大限に活用し、ミズガリスが先帝の遺志を無視して皇位継承することに対する意見を封殺した。
皇帝ミズガリスハイン・レイグナス=ザイオンと名乗った彼は、帝都ザイアスより新時代の到来という大号令を発した。
ミズガリスハインの行動そのものに大きな間違いはない。帝国領土は、大いに混乱していたし、帝国臣民のだれもが絶望的な混乱に振り回され、泣きわめき、救いを求め、喘いでいた。だれかが立たなければならなかった。皇帝という支柱がなければ、ザイオン帝国は成り立たないという絶対的な事実がある。そうである以上、いずれかの皇族が率先して立ち上がり、秩序の再構築に奔走するのは当然のことだ。皇族として、極めて正しい行動といえる。
しかし、ニーウェとその周囲は、ミズガリスの行動を暴挙と定め、反発した。
それもまた、当然のことだ。
先帝シウェルハインは、最終的に正当なる皇位継承者としてニーウェを定め、帝国全土に布告した。帝国領土は鉄道網が張り巡らされ、情報の伝達速度が早い。ニーウェが皇位継承者と定められた事実は、瞬く間に帝国全土に広がり、国民のだれもが知るところとなった。子供たちでさえ、ニーウェこそがつぎの皇帝になるものだと想っていたほどだ。
そうである以上、ニーウェこそが皇帝にならなければならない、という機運が彼の周囲で高まるのは当然のことだったし、ニーウェが周囲のものたちの声を無視することもまた、ありえない選択だった。
そも、ミズガリスの横暴を許せば、ミズガリスの統治を許せば、ニーウェとニーナの幸福など、吹けば飛ぶようなものとなりかねない。ミズガリスは、己の優位性を消し飛ばしたニーウェの存在そのものを憎悪し、忌み嫌っていることだろう。ミズガリスが帝国全土を支配するようなことがあれば、ニーウェに対しどのような仕打ちをしてくるものかわかったものではない。
ニーウェが立ったのは、そのような切実な想いも、多少なりともあった。
しかし、最大の理由は、やはりシウェルハインの遺志を黙殺するミズガリスを許すわけにはいかないという想いのほうだった。
シウェルハインに対しては、複雑な想いがあるのもまた、事実だ。実の父であり、尊敬する皇帝であるシウェルハインだが、同時に母を捨て、ニーナとニーウェを黙殺同然に対処してきた存在でもある。ニーナとニーウェを五爵に据えながら、言葉を交わす機会さえほとんどなかったのは、シウェルハインがニーナとニーウェに心底失望していたからだろう。なにゆえ、失望の目を向けられなければならないのか。ニーウェには、ついぞわからなかった。
そして、その失望の目が一瞬にして好転したことも、彼には理解できなかった。理解できないまま、世界大戦が起きた。シウェルハインが死んだのも、そんな状況下で、だ。けれども、ニーウェは、シウェルハインが死を賭して、帝国軍将兵を帝国領土へ転送したことで、シウェルハインという人物の真実に触れた気がして、考えを改める必要を感じた。
ニーウェは、そのときから、シウェルハインのひととなりについて、よく知るものたちから聞くようになった。聞き続ける内、結局は、自分もシウェルハインの一面しか見ていなかったことに気づいた。シウェルハインがいかに帝国臣民のことを大切に想い、愛情をもって接していたのかを知った。シウェルハインがイェルカイム=カーラヴィーアの献策を受けて召喚車や魔動船の実用化に向けて巨額を投じたのも、大陸鉄道網の構築に帝国の財力が傾くほどに投資したのも、引いては国民の生活をより良くするためだったのだ。
すべては国民のために。
それが、シウェルハインの考えの根底にあるものだった。
そしてそのためにも己の人生も家族も存分に利用した。利用し尽くした。多数の妻を娶り、数多の子を成したのも、帝国をより良くし、国民に還元するためにほかならず、妻も子もそのための道具に過ぎなかったのだ。
つまり、シウェルハインが愛情を注がなかったのは、ニーナとニーウェだけではなかったということだ。ほかの妻や子に対しても、ニーウェたちと同じような冷ややかさで応じていたということをいまさらのように知ったとき、シウェルハインがなにを求め、なんのために生きていたのかを多少なりとも理解した気がした。
シウェルハインは、徹頭徹尾、滅私奉公のひとだったのだ。
皇帝という立場にありながら、国のため、民のために己のすべてを費やすことのできる、希有な人物だったのだ。
だからこそ、ミズガリスのような男にこの国を任せてはいけない、と、ニーウェは想った、ミズガリスは、長兄であり、天智公として帝国にもたらした功績は数知れないものがある。しかし、性格には難があった。癇癪持ちの気分屋であり、ちょっとしたことで部下を処分した。優秀な部下でさえ、気分次第で処分されることがあり、彼の周りは常に緊張感に満ちていた。彼と仲のいい兄弟でさえ、常に言葉遣いに気を使わなければならないほどであり、言葉の選択を失敗するだけでなんらかの報復を受けたという。ニーウェは、何度ミズガリスに煮え湯を飲まされたのかわかったものではない。
ただ、ミズガリスのそういった行いが女性に向くことはなく、ニーナがミズガリスにいじめられるということはなかった。ミズガリスが女性至上主義者だからだ。それも、彼の母ミルウーズの影響だろう。
ちなみにミルウーズは、ニーウェとニーナの母ニルサーラが侍女として仕えていた人物であり、ニルサーラの妊娠は、ミルウーズの顔に泥を塗る行為といってもよく、故にこそミズガリスはニーウェを心底憎んでいたのだろう。女性至上主義者であるミズガリスは、ニーナに手を出せない分、ニーウェに対してさらに辛辣になったのは、必然だったのかもしれない。
そんな人物だからこそ、ニーウェは、彼に帝国を任せることはできない、と想っていた。
もし、ミズガリスがそのような人物ではなく、シウェルハインの後継者に相応しい人物であれば、話は別だっただろう。帝国領土および臣民を混乱から解放し、安息と秩序をもたらすためには、この南大陸の一刻も早い統一こそが望ましい。相争っている場合ではないのだ。
情勢は、日に日に悪くなっている。
海を隔てた国では、空飛ぶ船が運ぶ軍勢によって侵攻され、火の海を化しているという。
帝国領土も、そうならないとは限らないのだ。
現にいま、空飛ぶ船がこの帝都シウェルエンドに向かってきているという報せがある。帝国武装召喚師部隊“太陽の目”を向かわせたものの、場合によっては、彼自身、出撃しなければならないこともあるだろう。
空飛ぶ船が侵略目的で軍勢を運んできたのであれば、なんとしてでも撃退しなければならない。
でなければ、海の向こうの国のように成り果てる。
そうなってはならないから、南大陸を早急にひとつに纏め上げ、武力を高める必要があるのであり、だからこそ、彼は、ミズガリスの性質を惜しんだ。ミズガリスがもし、信頼の置ける人物であったならば、と、彼はなんど想ったことか。ミズガリスが皇帝として遜色ない人物であれば、彼は喜んで皇位継承権を差し出しただろう。そうすることで混乱が加速度的に収まり、新たな秩序の下、潤沢な資金と強力な軍隊を備えた新生帝国が誕生するのであれば、それに越したことはないのだ。
故に、彼は、いまの自分の立ち位置が虚しくてたまらない。
西帝国と東帝国の戦いは、いたずらに南大陸の安定を先延ばしにしているだけではないのか。いたずらに、帝国臣民を苦しめているだけではないのか。戦争によって苦しむのは指導者ではない。国民なのだ。しかも、大崩壊という史上最大の天変地異が帝国領土を襲い、帝国領土は南北に真っ二つに分かれてしまっている。いままでありえなかった様々な怪異が巻き起こり、人心を不安がらせている。
この状況を落ち着かせるためには、まず、東西帝国を統一し、安定した政権を作り上げることだろう。
東帝国の皇帝がミズガリスである以上は、彼に従う道はない。
だからこそニーウェは立ち上がり、皇位継承を宣言した。
ニーウェハイン・レイグナス=ザイオンと名乗ったのだ。
すべては、この南大陸に絶対的な平穏をもたらし、混乱の時代を乗り越えるためだ。
そのためには、まず、昨今の東帝国の躍進を食い止めなければならなかった。
ここ二月ほど、西帝国領土は東帝国軍によって荒らされることが多く、いくつかの都市が東帝国軍に占拠されたままになっていた。このまま東帝国軍の躍進を止められなければ、西帝国は、大総督率いる外遊船団の帰還を待たずして、敗北の一途を辿りかねなかった。
が、幸いにも外遊船団のうち、大総督ニーナ・アルグ=ザイオンと光武卿ランスロット=ガーランドを乗せた二隻は、既にヴェイルイログに帰港しており、ニーナたちが吉報をもたらしてくれること請け合いであり、東帝国に対抗する手段は確保できるものと彼は考えていた。
外遊船団は、東帝国との拮抗を打ち破るべく、諸外国に存在するかもしれない強大な戦力を引き入れるために南ザイオン大陸を旅立っている。その長旅を終え、帰港したということは、西帝国にとっての勝利の鍵を手に入れただろうこと請け合いなのだ。でなければ、ニーナが西帝国への帰還を選択するはずもない。
帰港を知らせる手紙には、詳細は伏せられていたものの、ニーナのことだ。ニーウェに直接知らせて驚かせたがっているに違いない。手紙の文字が躍っていたことからも、ニーナの興奮が伝わってくるようだった。そういう部分がたまらなく可憐だと想うのだが、そのことが一層彼を苦しめているのもまた、事実だ。
ニーナを愛おしく想えば想うほど、苦痛は増大の一途を辿る。
彼女を悲しませることだけはしたくないとどれだけ願おうとも、かなわないことを理解しているからだ。
彼は頭を振り、机の上に置いていた仮面に手を取った。異界化した半身のおかげで鋭敏化した五感が、執務室の扉の外から近づいてくるものを察したのだ。召喚武装を常に装備しているようなものだ。あらゆる感覚が研ぎ澄まされている。それは心安まるときがないということでもある。
痛覚も、それだけ増大しているからだ。
仮面を被ってしばらくして後、扉が軽く叩かれた。
「失礼しまーす。陛下、急用でございまするー」
扉の向こう側から聞こえてきた気の抜けた腹心の声には、彼は、仮面の中で笑うしかなかった。そして、そういう笑顔を引き出してくれる彼女には、感謝しかない。
ミーティアだ。