第二十二話 進軍
バルサー要塞は、ガンディア北部に広がるバルサー平原に建造されたガンディア王国最大の城塞である。当時、隆盛を誇ったログナーの侵攻から領土を防衛するための要であり、また、将来北へ進出する際の拠点として建造された。
実際、百年近くもの間ログナーの侵攻を許さなかったバルサー要塞は、難攻不落の代名詞として周辺諸国に知られ、何度となく進軍しては敗走するログナー軍の有様はあまりにも有名だった。
それは、英傑の誉れ高き先王シウスクラウド・レイ=ガンディアが即位し、その力を存分に発揮していた頃は元より、病の床に臥せてからもなんら変わらず続いた。やがて、ログナーの軍勢が、ガンディアにとってもはや脅威ではなくなったのだと過信したとしても、仕方のないことだったのかもしれない。
その結果として、バルサー要塞は陥落した。
ログナーが主力を結集したことや、ザルワーンが強力な援軍を差し向けたこと、そしてクオン=カミヤの出現――様々な要因が組み合わさった結果とはいえ、最大の原因はガンディア側の慢心にあったのだ。
ログナーがバルサー要塞に向けて軍を発したときに全力で迎え撃ち、早急に撃退していたのなら、いかにザルワーンの精兵が援軍に来ようとも、クオン=カミヤなる不確定要因が現れようとも、要塞は落ちなかったはずだ。敵主力はもはや潰走しているのだから、落ちようがない。
もっとも、それもやはり机上の空論に過ぎないこともわかっていた。起きてしまったことを変えることはできない。過去は厳然としてそこに存在し、故に彼は、剣を手に取るしかなかったのだ。
頭上には、眩いばかりの青空が広がっていた。雲ひとつ見当たらない。数日前の曇天が嘘のような天候に、軽く眩暈すら覚えかけて、彼は苦笑した。ただの晴天如きで眩暈を覚えてどうするというのだろう。
眼下に広がるのは、マルダールのほぼ城塞化された町並みであり、マルダール・タワーと呼ばれるこの塔の五階に設けられたバルコニーからは、市内に満ち満ちた数千の兵士と、彼らを見送るために集まった数多の市民の姿を見ることができた。
彼――レオンガンド・レイ=ガンディアは、ガンディアの象徴でもある白銀の獅子を模した甲冑を身に纏っていた。兜を被っていないのは、その素顔を臣民に曝すためだった。もっとも、地上五階のバルコニーに立つ彼の顔を肉眼で確認できるものなど、そうそういないのだろうが。
レオンガンドは、腰に帯びた剣を抜くと、前方に向かって突きつけるように掲げた。その美々しく飾り立てられた長剣は、宝剣グラスオリオンといった。ガンディア王家に代々伝わる剣であり、王位の継承とともに先王から新王へと受け継がれてきたものであった。
そして、新王がグラスオリオンを抜くのは、初陣のときだけだった。
「全軍、出撃」
レオンガンドの号令は、兵士たちの怒号のような歓声の波を引き起こした。
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マルダールを発したガンディア王国軍は、総勢五千に及ぶ大軍だった。そのうち三千五百がガンディア王国の正規軍である。人口二十万の国家が動員するには少ないのかもしれないが、それがガンディアの実態なのだという。
もちろん、ガンディアの全兵力ではない。バルサー要塞奪還のためにすべての兵力を投入することなど、できるはずがないのだ。領土拡大を望む周辺諸国が、その隙を逃さないはずがない。
南は、いい。ルシオン、ミオン両国との同盟のおかげで、南に兵力を裂く必要はなかった。
しかし、東にはベレル、西にはアザークがあり、どちらもガンディアと大差ない小国とはいえ、侮っていては領土を掠め取られてしまうに違いなかった。油断は禁物なのだ。
それでも、バルサー要塞に投入できる限りの兵士を集めてはいた。それが三千五百人の兵士たちであり、弱兵で知られる彼らガンディアの正規兵が隊伍を組み、乱れひとつなく行軍する様は中々どうして、頼もしく感じられたのだった。
残る千五百のうち、八百がルシオンからの援軍だった。白聖騎士隊百名では心許ないと思ったのか、ルシオンの第一王子ハルベルク・レウス=ルシオンが、精兵七百とともにマルダールを訪れたのが三日前のことだった。合計八百名に及ぶルシオンの援軍は、それだけでガンディア正規軍を圧倒するという。
同盟国ミオンからの援軍も、もちろん合流していた。突撃将軍の異名で知られるミオン三将のひとり、ギルバート=ハーディを筆頭とする五百名である。群青の武具に身を固めた彼らもまた、ガンディアの正規軍など比べるまでもなく精強なのだろう――。
「結局、同盟国の力に頼らなきゃならないってのが、ガンディアの辛いところだな」
とは、傭兵集団《蒼き風》団長シグルド=フォリアー。彼の支配下には約百名の傭兵がおり、また、それ以外から集まった百人ほどの傭兵も、その指揮下に置いていた。
それが、正規兵以外の千五百のうちの二百である。要するに、金を目当てに集まった傭兵たちが、《蒼き風》を筆頭に二百人もいたということだ。
《蒼き風》の団員以外の傭兵たちがシグルドの指揮下に入ったのは、単純に、そのほうが生存率が高いかららしい。
《蒼き風》は、半年前のバルサー要塞攻防戦において多くの団員を失ったものの、それ以外の戦いではほとんど死者を出さないことで有名なのだとか。
傭兵は、褒賞金目当てで命を張る。しかし、だからといって、死んでしまっては意味がないのだ。生き残ることがもっとも肝要であり、そのためには、どのような手段を講じてでも生存率を高める必要がある。
その手段のひとつが、《蒼き風》の指揮下に入ることだったのだ。
「ま、今回の戦いに勝って要塞を取り戻せば、多少は風向きも変わりますよ」
「そうなったらいいけどね」
ジン=クレールの言葉に笑みを浮かべたのは、ルクス=ヴェインだ。彼の銀髪は、とにかく目立った。陽光を浴びてきらきらと輝く白銀の頭髪は、隊列のどこからでも見つけることができるのではないだろうか。
「そうならないと、ガンディアはおしまいなんだけど」
隣を歩くファリア=ベルファリアの小さなつぶやきを、セツナは、聞き逃さなかった。とはいえ、別段気にするようなものでもない。当然の結論なのだろう。先王の死の直後に落とされた重要拠点を即座に取り戻さないどころか、半年以上に渡って放置してきたのだ。此度の戦いで奪還できなければ、ただでさえ人望のないレオンガンドの権威は失墜することは、想像に難くない。
だからこそ、勝たねばならないのだ。
マルダールを北へ。
約五千の大軍が列を成して、進んでいく。
街道を通り、脇目も振らず進軍する。
正規軍を先頭に、ルシオン、ミオンの同盟国が続き、傭兵たちは最後尾であった。
セツナは、その最後尾の一群の中にあった。《蒼き風》の団長、副団長、突撃隊長とともに、初陣の地へと一歩一歩近づいていた。
当然、徒歩である。騎馬を許された身分であるはずもなければ、そもそも馬も持っていない。それ以前に、セツナは馬には乗れなかった。
出陣に当たって、セツナも、格好だけはそれらしく整えられていた。ファリアが手配してくれた戦闘用装束は、極めて動きやすい代物であり、しかも素晴らしいデザインだった。セツナはその衣服を一目で気に入り、ファリアに何度も感謝を述べたものである。
その上に、鎧を身に付ける予定だったのだが、これが事のほか重く、セツナは、その鎧を装着したまま戦うのは無理だと判断し、身に付けるのを諦めたのだ。とはいえ、鎧もなしに戦場に出るなど、正気の沙汰ではない。いやそもそも、セツナは自身がとうに正気を失っていることに気づいていた。
狂気だ。
狂気に飲まれなければ、戦争に参加しようなどと思わないだろう。つい最近まで、ただの学生に過ぎなかったのだ。しかし、あまりにも現実離れした世界の中では、かつての常識は脆くも崩れ去るしかない。狂気こそが正気となり、いつかの正気は昔日の幻想と成り果てた。
もはや、後戻りはできないのだ。
その狂気の渦中へと進軍する軍勢の中にあって、セツナは、マルダール中を探し回ってようやく手に入れた軽金属の鎧を身に付けていた。その鎧は、ファリアが用意していたものよりは遥かに軽いものの、性能面においてはやはり圧倒的に劣っていた。
(仕方がないよな)
セツナは、胸中でひとりごちると、前方に目を向けた。いまはどうしようもないことだろう。体力がないのだ。その根本的な問題をどうにかするには、今後時間をかけてしっかりと体力をつけるしかなかった。
それにはまず、目の前の戦に勝利しなければならないのだが。
(そもそも戦えるのか? 俺)
もちろん、戦ったことはある。皇魔の群れを撃退し、ランカイン=ビューネルを打ち倒したのは事実だ。しかし、戦争とは根本的に違うものだろう。
とはいえ。
(やるしかない……か)
緊張感と昂揚感がない交ぜになった不思議な感覚の中で、セツナは、ただ前に進んでいくのだった。