第二千二百九十六話 船の名は(二)
「で、ミリュウあなたが考えた名前ってなんなの? ゼイブブラスのままってわけじゃあないんでしょ?」
ファリアが尋ねると、ミリュウが待ってましたとばかりに目を輝かせた。シーラのせいで機を逸していた彼女にとっては、ファリアの質問はまさに助け船だったのだろう。
「ゼイブブラスもいい名前だと思うけど、敵のつけた名前をそのまま使うのもどうかと思ったのよ。だからあたしも考えに考えたんだけど、その結果、ミリュウとセツナの愛の巣号に決まりました」
「決まりましたって」
「おい」
「ミリュウ様……」
「決定も決定、大決定よ。異論は聞かないわ。ね、セツナ、いいでしょ? 定住地のないあたしたちの愛の巣には、方舟がちょうどいいと思うわけよ。ここでたくさん想い出を作っていきましょう」
女性陣の意見を黙殺するかの如く早口でまくしたててきたミリュウから凄まじい圧を感じて、セツナは、なんともいえない顔になるのを認めた。一言で言えば、長い、というのがある。つぎに、ミリュウはともかくとして、ほかの皆がそれを認めるとは想えなかった。ミリュウがセツナへの溢れんばかりの好意を抱いていることはだれもが認めることだが、だからといって彼女だけを特別扱いするような風潮はないのだ。
ファリアもシーラもレムもエリナも、その好意の矢印をセツナに向けている。決して他人の好意に鈍感ではないセツナには、そういった想いを無碍にはできない。だから、なのだろう。ミリュウが強引に話を進めようとした。
「ね、これでいいわよね。これが最上、これが至高、これ以上素敵な名前なんてだれにも思いつかないわよ。うんうん」
「呼びにくいだろ」
「う……そ、それはふたりの愛で乗り越えればいいのよ」
「ほかの皆はどうしろってんだ?」
「そ、それは……」
ミリュウが口ごもったのは、彼女自身、必ずしもその呼称を押しつけることを気まずく感じていたからだろう。
「妙案が浮かびました!」
レムの力強い声に振り向けば、彼女がなにか良くないことを思いついたときのような満面の笑みを浮かべていた。
「ミリュウ様を含め、各人がそれぞれ好きなように呼称すればよろしいのではないかと」
「どういうこと?」
「ですから、ミリュウ様は先ほど仰ったミリュウとセツナの愛の巣号と呼び、ファリア様はファリアとセツナの愛の巣号、シーラ様はシーラとセツナの愛の巣号……という風にでございますね」
レムが説明中、それぞれの名を挙げるたびにそれぞれに反応があった。シーラは顔を赤らめ、ファリアも困惑を隠せなかったのだ。ミリュウの提案こそ即座に否定的な態度を取ったふたりだが、自分の名を含めるとなると、話は変わるのだろうか。
とはいえ、セツナはそんなことをさも稀代の名案のように語るレムを冷ややかに見つめるほかなかった。
「長いし、混乱する。却下」
「そんな……」
「却下ってことは、ミリュウの案もだよな」
愕然とするレムとは違って、シーラが安心したように頭を縦に振った。すると、ミリュウがセツナに肉薄してくる。
「えええええええ!? あたしが寝ずに考えた最良の案も!?」
「どこが最良なのよ。セツナのいうとおり長くて呼びにくいわよ」
「それは……だから、愛の力で、ね」
「そりゃあ、わたしもあなたのことを愛しているわ、ミリュウ」
「ファリア……」
「でもね、それ以上にセツナのことを愛しているのよ」
ファリアがそう宣言するのは、極めてめずらしいことだった。というより、セツナだけならばともかく、ほかのだれかがいる前でそのような発言をするのは、そうあることではないだろう。だれもがファリアのセツナへの好意を知っていたとしてもだ。だからこそ、セツナも驚いたし、ミリュウもシーラもレムも、ファリアの発言に衝撃を受けたようだった。エリナは、なんだか嬉しそうな顔をして見せている。
「うっ……」
「いくらなんでも方舟をふたりの家にするのは、認められないわ」
「そ、そーだそーだ!」
シーラが気後れしたようにファリアの発言に賛成したのは、彼女の先ほどの宣言が強烈だったのかもしれない。
「師匠、わたしもファリアお姉ちゃんに賛成です!」
「くっ……飼い犬に手を噛まれるとはこのことか……!」
「なに悔しがってんだよ」
「だってえ……」
「おまえの気持ちはわかったけど、呼びにくいのは論外だろ。だったらゼイブブラスのままのほうがいいくらいだ」
「それはないわ」
冷酷なまでにきっぱりと断言したところを見ると、彼女としては、敵のつけた名称を使うことにはかなり強い拒否感があるようだった。それ自体、セツナも否定するつもりはない。確かに、方舟と呼ぶだけでは、状況によっては混乱を招きかねないだろうし、敵がつけた名称をそのまま使うというのも、奇妙な気分だ。ものの名前などなんでもいいだろうと想う反面、そういう気持ちもわからないではなかった。
「じゃあ、こうしよう。いまからそれぞれ船の名前を考え、後で案を出し合い、話し合って決めるってことで」
「……もう、しょうがないわねえ」
「なんでおまえが折れている風なんだよ」
「だってえ」
甘えた声でしなだれかかってくるミリュウを受け止め、その頭を撫でてやりながら、セツナは、彼女がこうして積極的に甘えてくる理由を察して、渋い顔になった。こうでもしないとやりきれないのではないか。それほどまでに辛い状態が続いているのではないか。常に苦痛の中にいて、それを我慢しているのが、ミリュウなのだ。多少の我が儘や暴走を許すくらい、いいだろう。
ミリュウだけを特別扱いするつもりはないが、彼女の苦しみを少しでも和らげてあげたいという気持ちもあった。
ともかくも、船の名前を決めるのは、後のこととなった。
「船の名前ならば、わたしにもいい案があるぞ」
マユリ神がいかにも面白そうに話題に入ってきたのは、訓練後、浴場で汗を流し、機関室に集まってからのことだった。
船の名前を決めるに当たって、方舟の動力にして操縦者であるところの女神の意見を聞かないわけにはいかない、という理由から、機関室でそれぞれの案を出し合うことにしたのだ。その話を聞いていたマユリ神が、みずから提案してくるのも想定内の出来事ではある。
機関室には、訓練室のときとは異なり、乗船員全員が集まっている。ミレーユとゲインにも、船名の案を考えてもらったのだ。
「ではまず、マユリ様の案から聞こうかな」
セツナが機材の上に鎮座する女神に話を振ると、マユリ神は、話題に入れることが嬉しいのか、にこにこしながら口を開いた。方舟は、船全体が女神の領域といってもいい。どこでなにを話していても、彼女には筒抜けと考えていいのだ。訓練室での話し合いも当然、女神の耳に入っていて、女神は船の名を決めるというある意味重要な相談からのけ者にされているような疎外感を感じていたのかもしれない。
だから、こうして一同が機関室で自分を含めた話し合いに発展したことは、女神にとってこの上なく嬉しいことなのではないか。女神マユリには、そういうところがある。
「では、いうぞ。わたしが考えたのは、遙かなる希望号、というのだがどうだろうか。 おまえたちの目的にかなった素晴らしい名前だと想うのだが」
「中々いい線いってると想うわよ、マユリん」
「そうだろう、そうだろう」
ミリュウの賞賛を受けて、女神は至極嬉しそうな顔をした。マユリは、ミリュウと同水準の話し相手というだけあって、扱いやすくはあるのだ。もっとも、ミリュウはマユリ案を本当に良いものと想っているからこその発言であり、だからこそ、マユリも嬉しげな反応を示したのは間違いない。雑に処理すれば、その瞬間、女神に意図を見抜かれるのが落ちだ。女神は、無能ではないのだ。むしろ、ひとの心を読む術に長けている。
ミリュウがマユリの扱いが上手いのは、彼女がマユリのことを純粋に敬愛し、素直に想ったことを口にしているからにほかならない。上辺だけの言葉は、女神には響かないのだ。
「つぎはあたしの番ね。あたしは、最初に挙げたのがいまでも最強最高だと想うんだけどさ……みんながいうから考え直して上げたわ」
ミリュウは、満を持して、とでもいうかのようにたっぷりと間を取って、告げてきた。
「愛・セツナ号よ」
一瞬、機関室が静まりかえったのは、ミリュウが提案するにしては予期せぬものだったからに違いない。
「愛・セツナ号……か。なるほど、おまえたちの重すぎる愛を運ぶには、セツナでなくてはならんのは確かだ」
「でしょでしょ!」
「御主人様の名をつけるのは、悪くはございませんね」
「確かにな」
「そうねえ……」
「最高です! 師匠!」
「え、いや、おい、ちょっと待ってくれよ」
ミリュウの自信に満ちた一言に対し、女性陣がなにやら感心したように唸るのを目の当たりにして、セツナは口を挟まずにはいられなかった。このままでは、愛・セツナ号一択になりかねない。さすがのセツナも、それだけは勘弁願いたかった。方舟の呼称に拘りはないが、自分の名前をつけられた上、その頭に愛などとつけられれば、そうもなろう。
「なによう。不満なの?」
「さすがに俺が「愛・セツナ号」がどうたらいうのは恥ずかしすぎるだろ」
「恥ずかしくないわ。あたしたちのセツナへの愛がぎっしり詰まった船って意味だもの」
「そういうことじゃなくてだな」
セツナは、ぐいぐいと押してくるミリュウに閉口するほかなかった。
もちろん、愛・セツナ号に即座に決まるわけもない。
話し合いは、続く。