第二千二百九十一話 亡霊(五)
ラーゼン=ウルクナクトは、白い化け物の大跳躍を冷ややかに見つめながら、後方から聞こえてくる悲鳴とも絶叫ともつかない、荒くれ者どもの声を聞いていた。だれもかれもが化け物の実在を認識し、ネミアの判断を疑うかのような反応を見せている。それはそうだろう。化け物は、そこらにいる皇魔とは比べものにならないほどの巨体と圧力、殺意を発している。“雲の門”程度の組織が戦うべき相手などではなかったし、受けるべき依頼ではなかった。ネミア自身、白い怪物の姿を目の当たりにした瞬間、自分の判断が間違っていると想ったらしく、ラーゼンの生存を祈るような言葉を吐いている。
ラーゼンは、イミシャダの城壁から遠く離れた平地にいながら、後方の声を余すところなく聞いていた。手に召喚武装を持たずして、彼の聴覚は、まるで複数の召喚武装を装着しているときのように研ぎ澄まされているからだ。聴覚だけではない。視覚、触覚、嗅覚、味覚――ありとあらゆる感覚が肥大し、さながらいくつもの召喚武装を手にしているときのような万能感が彼を包み込んでいた。
故に、彼は白い巨人の圧倒的な速度の跳躍も緩慢な動きとして捉えていたし、上空から振り下ろされる拳が轟音を発しながら降り注いでくるのを受けて、腰に帯びた剣の柄を抜き放
って切り裂くことさえできたのだ。剣の柄から伸びた光の刃が巨人の中指を真っ二つに寸断し、そのまま手を、手首を、腕をも両断し、さらに光刃が大きな曲線を描きながら白き巨躯を切り裂いていく。巨人が怒号を発し、もう片方の腕を振り上げたときには、光の刃はその腕を肩から切り離している。巨人の怒りは一瞬にして極致に達したらしい。咆哮とともに巨大な口腔に炎が揺らめいた。ラーゼンは、後方ではなく前方に飛びつつ、光の刃でもって巨人の体をでたらめに切り刻む。巨人が吼え、口の中に渦巻いていた熱気が爆炎の渦となって解き放たれ、ラーゼンを襲わんとした。が、そのときには、彼はその場にはいない。爆炎が舐めたのは平原であり、土が焼け、溶けた。
(炎か。厄介な)
山林に逃げ込むのはありえない。炎を避けることができても、煙に巻かれて死ぬ可能性がある。かといって、至近距離で戦うには、巨人は危険過ぎた。ラーゼンの十数倍はあるだろう巨躯と、その巨躯からは考えられないほどの速度、そこから繰り出される拳の一撃は、人間などたやすく粉砕するだろう。攻撃を受けてはならない。どれだけラーゼンが肉体を鍛え上げたとはいえ、生身の人間なのだ。一撃でも食らえば、いや、掠っただけでも致命傷になりかねなかった。
しかも、イミシャダの街を背後に佇む巨人は、ラーゼンが切り裂いた部位を完璧に再生させ、傷ひとつ見当たらない完全無欠の状態だったのだ。口腔から熱気を漏らすだけでは飽き足らず、耳や鼻からも熱気を吹き散らすその様子からは、巨人がなんらかの方法で炎を生み出す能力を持っていることを示しているようだ。
よくもまあ、イミシャダの街が焼き尽くされなかったものだ、と、彼は別の意味で感心した。白い巨人が先ほどの火炎攻撃を使えば、イミシャダの街など一溜まりもないはずだ。ということはつまり、白い巨人がイミシャダの破壊には、炎を使う必要もないと判断していたとでもいうのだろうか。あるいは、別の理由があって、町中では火炎を使えないのか。
いずれにせよ、ラーゼンのいまの戦いには一切関係がなかったし、どうでもいいことではあった。
「なあ、そうだろ?」
ラーゼンは、右手の光剣を軽く振り回して牽制しながら、巨人の出方を窺った。イミシャダの城壁付近では、“雲の門”の連中のみならず、イミシャダ駐屯部隊の指揮官から末端の兵士たちまでもが固唾を呑んで戦況を見守っている。その中でただひとり、臨戦態勢に入っているのは武装召喚師の女だけだ。その青ざめた表情からは責任感の強さが窺える。きっと、自分が巨人を仕留められなかったことに責任を感じているのだ。だから、いつでも参戦し、ラーゼンを援護できるよう準備しているのだろうが、彼にはそんな援護など不要だった。それでは、“雲の門”の名声を高めることができない。
巨人が、動いた。
両方の巨腕を掲げたかと想うと、肘から先の前腕をそれぞれ五つに分裂させ、合計十本の白い槍の如く撃ち出してきたのだ。
(なんでもありだな、おい)
ラーゼンは、むしろ胸中で歓声を上げると、十本それぞれ異なる軌道を描いて迫り来る白い槍の一本一本を光剣で切り裂き、足場にし、飛び移っては切り裂くという行動を繰り返しながら巨人の懐に飛び込んだ。すると、待ってましたとばかりに巨人が大口を開いている。熱気が渦を巻いていた。
咆哮。
爆炎が、嵐のように吹き荒れた。渦巻く紅蓮の炎は球を作り、空間内のすべてを燃焼し尽くすが如く荒れ狂う。無数の悲鳴と落胆、失意の声が聞こえた。だれもが、ラーゼンが爆炎に飲み込まれ、焼き殺されたと想ったのだ。彼を信じて送り出したはずのネミアすら、そう想ったに違いない。当然だ。常人には見えない速度、考えられない方法で、彼は爆炎球を回避している。
巨人の懐に飛び込んだ瞬間、彼は下方に向けた光刃を最大速度で伸長させたのだ。光刃は一瞬にして地面に突き刺さり、さらに伸長を続けた。するとどうなるか。柄を握っているラーゼンの肉体が遙か高空に撃ち出されるが如く飛び上がっていく。爆炎球は、光刃を飲み込んだが、光刃が炎に灼かれるはずもなく、彼は遙か上空から眼下の光景を見下ろしていたのだ。
そして、白き巨人がこちらに気づき、顔を巡らせたときには、彼の光刃は無数に閃いている。最大限に伸長した光の刃は、彼の意のままに縦横無尽に舞い踊り、山の如く巨大な肉体をでたらめに切り刻み、ばらばらの肉塊に変えた。しかし、無数の肉塊に変わったはずの怪物は、それでも活動を終えることはなく、瞬く間に肉塊同士をひっつけ、元通りの姿に戻っていく。当然、彼も油断はしていない。事前情報通りだ。上半身に風穴を開けても元に戻るような怪物だ。不老不滅の可能性さえあった。
(いや、どうかな)
ラーゼンは、白き巨人の肉体をばらばらにしたとき、無数の肉塊の狭間に輝く物体を見逃さなかった。それは、真っ白な肉質の塊でしかないほかの部位とは明らかに質感の異なる物体であり、紅く輝く鉱物のようにも見えたそれが肉塊の中に隠れていく様も異様だった。そしてそう認識した瞬間には、彼の左腕がその物体の隠れた部分に翳されている。無意識。脊椎反射といっていい。直後、異様な感覚が意識を突き抜けたかと想うと、激痛が左腕を襲った。まるで腕そのものが吹き飛ぶような衝撃だった。
ラーゼンは自分の身になにが起こったのかを考える間も与えられないまま、復元中の巨体に風穴が空き、その空隙に紅く輝く物体が露出するのを目撃する。今度は、右手が反応した。いや、意識かもしれない。光刃が紅い物体を真っ二つに切り裂いたのだ。それは、ラーゼンが超高空から地上に着地するまでのわずかな時間の出来事であり、彼が落下の衝撃を光刃で殺すのとほぼ同時に白き巨人の巨大な体が跡形もなく消えて失せた。
ラーゼンは、着地に成功すると同時に光刃を消して柄を腰の帯に挟み込み、背後を振り返った。白き巨人は完全に消滅していて、余韻さえ残さない。そのあまりの容赦のない最後に憮然とする暇もないのは、左腕の痛みが尋常ではなかったからだ。左腕に視線を向けると、異様なほどに腫れ、燃えているかのように赤くなっている。自分の身になにが起こっているのか、彼自身まったく理解できない。
(なんだってんだ? いったい、なにが……)
あのとき、無意識に伸ばした左手の先から飛び出したのは、紛れもなく強力無比な衝撃波だ。並大抵の武器では傷つけることも敵わないのが、先の化け物の肉体であり、その肉体を突き破るほどの衝撃波を発生させたのだから、ラーゼンにもわけがわからない。
その場を包み込んだ沈黙が、イミシャダからの歓声によって破られる中、彼はただ、釈然としない気持ちと不気味さを抱きながら、皆の待つ街へと足を向けた。
白い巨人は、二度と復活しなかった。
不老不滅でもなんでもない。あの赤い物体が力の源であり、あれさえ破壊することができれば斃すことが可能だとわかったのだ。それはつまり、ラーゼンでなくとも、あの怪物に風穴を開けることのできた帝国軍の武装召喚師にも可能だったということだ。赤い物体の在処を見つけ出すことができなかっただけのことであり、弱点を見抜けなかった点に関しても、彼女に落ち度はあるまい。
「さすがですぜ、旦那!」
まっさきに駆け寄ってきたのは禿げ頭のドルンだ。そのドルンの頭を叩き、足止めをしたのは、頭領近衛を自負するガロン=ダスクであり、彼の働きを賞賛するように大きな背中を叩いたのは、ネミア=ウィーズだ。いつも通りの派手な格好をした義賊の頭領は、いつも以上に甘ったるい声でラーゼンを迎えた。
「本当、さすがだよ、ラーゼン。やはりあんたはいい男だね」
「当然だろう。俺をだれだと想ってるんだ?」
「そういうところ、最高だよ」
惚気放題のネミアには、さすがの護衛長のガロンも幹部のドルンも、目のやり場に困ったように顔を背けた。
ふたりとも、義侠心溢れるネミアに心服しているのだが、そんなネミアが初めて女を見せる相手がラーゼンらしい。そういうネミアをいまのいままで一度だって見たことがないため、“雲の門”には激震が走ったそうだ。とはいえ、自分たちの尊敬して止まない頭領が女としての幸福を得ることに対し、彼らは当然のように喜び、ラーゼンがネミアを裏切らないことだけを懸念しているようだが。
ラーゼンに対するネミアの態度というのは、彼にとってある女性を思い起こさせるものだが、その女性よりは甘さが控えめで、彼にはちょうどいい塩梅といえた。これがもしべたべたのどろどろの甘さならば、少し遠慮したかもしれない。
そんなことを考えていると、ネミアがラーゼンから離れた。彼女の視線を追えば、帝国陸軍少佐とその部下たちが続々と歩み寄ってくるのを目の当たりにする。だれもがラーゼンに対し、明らかに態度を変えていた。
「我々が手も足もでなかったあの化け物を相手に一歩も後れを取るどころか、圧倒し、あまつさえ撃滅されるとは……いやはや、感嘆するほかありませんな……」
帝国陸軍少佐ともあろう人物に心から賞賛されて、悪い気はしなかった。
帝国軍には悪印象のほうが強いし、できるならば帝国軍関係者とは関わりたくないのが彼の心情だが、いまはそんなことをいっている場合でもないのだ。むしろ、帝国軍を利用しなければならない立場だ。“雲の門”の勢力を広げる上でも、この世界の現状に関する情報を集める上でも、だ。
「ラーゼン様。本当に素晴らしい戦い方で、惚れ惚れしました。帝国の武装召喚師の端くれとして、恥じ入るばかりです……」
などといってきたのは、駐屯部隊の武装召喚師だ。二十代後半の女性で、ネミアに比べると全体的におとなしめの人物だが、ラーゼンを見て頬を赤らめている理由はよくわからない。彼女の発言通り、戦いぶりを見て惚れたとでもいうのだろうか。だとすれば、惚れっぽいとしか言い様がない。
「あんたはあの化け物に風穴開けられる程度には強いんだろう? だったら、卑下する必要はないさ。並みの武装召喚師じゃあ、相手にもならなかっただろうしな」
それはラーゼンの本音だったが、女はそうは想わなかったようで、困ったような顔をしていた。ふと、剣呑な気配に目を向けると、ネミアが苦い顔をしている。どうやら女召喚師が困惑していたのは、ネミアが睨み付けていたからのようだ。ネミアは、基本的に度量の大きな女傑だが、ラーゼンに関しては嫉妬深くなるというところがあった。“雲の門”に所属する女でさえ、ラーゼンに近寄ることすら許されないくらいに独占欲が強いのだ。そういった独占欲の強さも、ドルンたち古参連中には驚きを禁じ得ないものだそうだ。
ラーゼンも、ネミアのその部分にだけはお手上げ状態だった。