第二千二百九十話 亡霊(四)
イミシャダは、マグウの村の北西に聳える山間の街だ。四方を城壁で囲われた大陸特有の都市形式は、小国家群だろうと帝国領土だろうと変わりはない。マグウの村も、船着き場以外の四方は防壁に囲われていた。そうしなければ、皇魔の襲撃に遭う可能性があるからだ。
漁業が盛んであり、海に棲む皇魔が基本的に人間に危害を加えようとしないように、皇魔が積極的に襲いかかってくるということは考えにくい。皇魔とて、わざわざ人間の領域を侵し、人間と相争うような状態に持ち込みたいわけではないはずなのだ。だから、防壁がなかろうと、必ずしも即座に皇魔に襲撃されるわけではない。可能性の問題なのだ。皇魔に襲われる可能性を限りなく減らすことが、人里が防壁に囲われる理由であり、小国家群のみならず大陸全土の都市や街、村が四方を壁で覆われている理屈だ。
イミシャダに辿り着いたラーゼンたちを待ち受けていたのは、そんな四方を城壁に囲われた街にありながら、半壊した町並みであり、絶望に暮れるひとびとの姿だった。街の住民は口々に言った。帝国軍は当てにならない。このままではイミシャダは全滅するしかない、と、口々に泣き叫び、わめいていた。
“雲の門”に救いを求めたのは、なにを隠そうイミシャダに駐屯する帝国陸軍の軍人であり、駐屯部隊の指揮官である中年軍人は、恥を忍んで盗賊集団に使いを出したのだ。
ネミアは、これを好機と見た。
かつて帝国全土の闇を支配し、帝国全土に勢力を誇っていた“雲の門”を再興させるには、名声を高める必要がある。そのためには、実績を積み上げていかなくてはならないと彼女は考えていた。ではどうやって実績を積むかといえば、ある意味簡単なことだ。困っているひとを助けていけばいい。
幸いにも、時代は混乱を極めていた。
帝国全土が大混乱の時代、法もなにもあったものではなく、怪物が跋扈し、帝国軍が当てにならないどころか帝国の内部で争いを始めてさえいる。そんな状況下で、ひとびとは救いの手を求めている。どこかに頼りがいのあるものはいないか、常に声を上げている。悲鳴は、そこら中から聞こえた。
イミシャダの駐屯軍さえ、悲鳴を上げているのだ。
そういうひとびとの声に応え、問題を解決していけば、自然と“雲の門”の名声は高まり、“雲の門”の一員になろうとするものがつぎつぎと声を上げ、集まってくるだろう。事実、マグウの村での活躍は、村民の中でも血の気の多い若者たちを“雲の門”に加入させた。村からの支援もある。“雲の門”は、一段、組織として強くなったといってもいい。
ネミアはこの調子で、まずは帝国領南東部、いわゆる第四方面での地盤固めを行おうと考えていた。
その手始めが、イミシャダの問題解決だ。
イミシャダの問題というのはは、先もいったように怪物騒動だ。
情報を聞く限りでは皇魔でもなさそうな怪物は、突如、イミシャダ市内に出現し、暴れ回ったのち、街の外へ消えたという。数日後、街に引き返してきたかと思うと、市街地に大打撃を与え、また街の外へ消えた。駐屯部隊の武装召喚師が応戦したが、まったく倒せる気配がないのだという。
「前回からの間隔を考えれば、数日以内にまた街に姿を見せるはずです。そこを退治して頂きたい」
頭髪の薄い指揮官は、ネミアにそう依頼したようだ。帝国陸軍における階級では少佐に当たるらしい指揮官が“雲の門”に依頼したのは、やはり、ラーゼンの活躍を風の噂で聞き、詳細に調べていたからのようだ。そういえば、マグウの村に見慣れぬ人物が住み着くようになったという話もあった。おそらく、帝国軍の諜報員かなにかだったのだろう。
「ってことだけど、どう? やれるかい?」
ラーゼンは、ネミアから詳しい話を聞いて、肩を竦めた。
「ここまできた以上、やれるもなにもないだろうよ」
やるしかない、ということだ。
ちなみに、どうでもいいことではあるが、ラーゼンは、マグウを出るに当たって、常に素顔を隠すよう配慮していた。平時には仮面を纏い、戦時においては兜を被る。自分の正体を知っているものに出くわす可能性は、皆無ではない。正体が明らかになれば、ここが帝国領土である以上、どうなるかわかったものではないのだ。注意を払って払いすぎることはない。
怪物の情報を纏めると、こうだ。
それは、元々人間だった、という。イミシャダに住んでいた成人男性が突如として怪物に成り果て、周囲のひとびとを襲い、建物を破壊し始めたのだ。駐屯部隊がすぐさま撃退に動いたものの、怪物化した男の力というものは人間とは比較できないどころか、皇魔以上のものといってもよく、とても駐屯部隊だけでは処理しきれなかったということだ。帝国軍所属の武装召喚師ですら太刀打ちできなかったというのだから、一般人が主要人員である駐屯部隊に為す術もないのは道理といっていい。
そんな怪物相手にラーゼンがまともに戦えるのかどうかは、やってみなければわからないことだ。なにせ、相手は武装召喚師以上の力を持った人外の怪物なのだ。ラーゼンは一般の武装召喚師に引けを取らない実力を自負している。並大抵の武装召喚師ならば、負けることなどあり得ないと胸を張っていうことができた。しかし、相手も同じようなのだ。
ただの武装召喚師では倒せない怪物。
なんでも無限の再生力を持っていて、腕を吹き飛ばしても、頭を破壊しても、胴体を蒸発させても、瞬く間に再生し、反撃してきたのだという。
駐屯部隊の武装召喚師がお手上げなのも、わからない話ではない。
だが、だからといってネミアが請け負った以上、やりきる以外の道はないのだ。
ラーゼンは、その怪物の襲来を待たずに街を出た。ネミア率いる“雲の門”の戦闘員たちには城壁付近を護らせ、以前、化け物が姿を見せた街の東へと単身向かった。“雲の門”の戦闘員は、だれもかれも帝国軍の正規兵に勝るとも劣らないほどに屈強な荒くれ者揃いだが、帝国兵がまったく敵わず、一蹴されるような相手にぶつけられるはずもない。彼らを無駄死にさせることはできなかった。
(死ぬのは俺ひとりでいいのさ)
彼はやはり、死に場所を求めずにはいられない己の性分を冷笑する以外にはなく、山林を震撼させ、木々が織り成す緑の屋根を割るようにして姿を現した白い巨人に目を細めた。
それはまるで、かつて彼の前に大いなる威容を現した巨人の末裔の如くであり、彼は気を引き締め直した。
純白の外皮に覆われた巨人は、立ち並ぶ木々などよりも遙かに高身長であり、体格も圧倒的といってよかった。まるで山のようだ。しかし、見る限りでは、かつて目の当たりにした巨人と比較していいような相手でもなさそうだった。少なくとも、巨人の末裔のほうが遙かに脅威となるだろう。あちらは不老不滅の存在だが、こちらは、どうか。
(再生能力はあるって話だが)
それも驚くほど高性能で、無尽蔵に近いものであるらしい。
不老不滅の存在だろうか。
だとすれば、いくら彼でも勝ち目はない。いまもちうるすべての力を叩き込んだところで、不老不滅の存在を滅ぼすことなど、神ならざる彼にできるわけもないのだ。不滅の存在は、確かに実在する。かつて見た巨人の末裔もそうだが、彼の主の下僕がそうだった。ただ、あの死神少女の場合は、命の源である主が死ねばその不老不滅の力も消えて失せるという話であり、もはやこの世に存在していない可能性は高い。
白い巨人めいた怪物は、そのずんぐりした上体を大きく震わせた。大気が激しく震撼し、周囲の木々が根こそぎ吹き飛び、土砂が舞い、森に潜んでいた鳥獣たちが一目散に逃げ出していく。真っ白な顔面に入った切れ目のような双眸が大きく見開かれると、禍々しいとさえいえるようなまなざしがラーゼンを睨み据えた。
白い巨人の居場所は、イミシャダの東に聳える山の麓、そこに横たわる森の真っ只中だ。対して、ラーゼンが佇んでいるのは、山林へと至るまでの平原地帯であり、ただひとり突っ立つ彼の姿は、白い巨人にはよく見えたのだろう。
「目は、いいらしいな?」
ラーゼンがつぶやくと、巨人の咆哮が破壊的に響き渡り、巨躯が空高く飛び上がった。
耳も、いいらしい。




