第二千二百八十八話 亡霊(二)
ラーゼン=ウルクナクトが“雲の門”に入ったのは、運命的なものだったのかどうか。
彼は、ネミア=ウィーズとふたりきりの遅い昼食を終えると、彼女が甘えるままに任せながら考え事をしていた。そうすると、ネミアはむしろ機嫌がよくなる。考え事をするラーゼンの表情が素敵だというのが、彼女の意見らしい。女とふたりきりの時間。考え事をするなど、普通ならば怒るところだろうが、そういう意味でもネミアは器の大きさが違った。荒くれ者どもを容貌だけでなく、その精神性でもっても心服させるだけの度量もある。
そういう女は、傭兵業には決して少なくはなかった。女を頭領とする傭兵集団は、少なからずいたのだ。女の生命力の強さを舐めてはいけない。子供を産むのは女であり、新たな生命を産む力を持った存在が逞しくないわけがないのだ。
もっとも、だからといって女のほうが男より優れている、などという幻想を抱く必要もない。肉体的には、どうしたところで男のほうが優れている。どれだけ鍛え上げても、同様に鍛え上げた男の肉体のほうがより強く、より逞しくなるのは、致し方のないことだ。女が子供を産むように、その女と子供を護るのが男の役割だったのだ。
遙か太古から、それが人間における男女の役割分担だった。
では、この組織における男女の役割分担とはなにか。
彼が現在食客として身を置く組織“雲の門”は、何百年もの昔、帝国全土に勢力を誇り、帝国の闇を支配したという歴史的事実があった、という。ラーゼンも話を聞いただけだが、様々な書物に目を通したところ、“雲の門”の恐ろしさについて触れた記事がいくらでも見つかったため、どうやら虚仮威しでもなんでもないらしい。帝国全土を勢力下に置いていたというのは誇張表現としか思えないが、だとしても、それなりの勢力を誇り、市民にも恐れられていた組織だったということは事実のようだ。
“雲の門”は、いったいどのような組織なのかといえば、端的に言うと盗賊集団だ。ひとから物を盗み、金に換え、あるいは懐に蓄え、組織を巨大化させていき、ついには帝国全土の闇を支配したというのが“雲の門”の隆盛物語だ。ときにはひとの命を盗むこともあったがために一般市民にも恐れられたようだが、実際のところ、人殺しは組織の掟として禁じられており、人殺しを生業とする暗殺組織“月ヶ城”と混同された結果、“雲の門”も人殺しを行う極悪非道の組織と伝わってしまっているようだ。
“雲の門”は決してひとに危害を加えず、金品だけを盗み、ときにはそれら金品を恵まれないひとびとに分け与えることさえしていたという、いわゆる義賊と呼ばれるものたちだったのだ。その事実を知っているひとびとからの人気は高く、帝国政府も、“雲の門”をその圧倒的軍事力でもって壊滅まで追い込まなかったのは、“雲の門”の存在が私腹を肥やす悪徳商人や我利我欲を貪る役人への攻撃手段としても大いに利用できたから、らしい。
帝国は、極めて強大な組織だ。中央から末端まで、目が完全に行き届くことなどありえない。故に末端に行けば行くほど、地方に行けば行くほど、帝国法が護られておらず、無法地帯と化しやすい。特に帝国成立初期から中期にかけてはそうであったらしく、政府の目が届かないことをいいことにやりたいほうだいやっていた役人も少なくはなかったようだ。故に帝国は領土を七つの方面に分け、細分化していくことで、役人たちが政府の目を盗んで私腹を肥やしたり、市民を虐げたりすることのないように監視の目を強めていったのだ。
“雲の門”の最盛期はそうなる以前の帝国であり、そう考えれば、帝国全土に勢力を誇っていたというのも案外誇張ではないのかもしれない。
“雲の門”がそれだけの規模を誇った組織であったため、組織の構成員に男女の別はなかったそうだ。男でも女でも、覚悟さえあれば組織に入ることが許された。技術は後から身につくものであり、必要なのは、捕まったとしても組織のことを口にせず、死ぬ覚悟だった。それさえあれば、だれでも組織の一員になれたというのだ。故に、“雲の門”では男女の別はなく、組織の長を女が務めたことは何度もあったようだ。
それも、いまは昔。
様々な原因で落ちぶれた“雲の門”は、その勢力を極限にまで低下させ、帝国南東部、方面でいえば第四方面の都市エランラム近郊の漁村に拠点を構え、そこに集う数十名の構成員を持つ極めて小規模な組織に成り下がっていた。ラーゼンが、帝国全土に勢力を誇ったという話をただの誇張としか受け取れなかったのも、それが原因なのだ。
彼が最初に“雲の門”の拠点として案内されたのは、漁村近くの磯臭い洞窟であり、とてもかつて帝国全土を震撼させた組織とは思えなかった。そういう夢を見、妄言を吐いているだけではないか、と、思うのは当然のことだろう。ネミア自身、自虐していたものだ。しかし、ネミアは、そうはいいながらも、組織の再興に情熱を燃やし、人生を捧げてもいた。数十名の構成員のうち、半数ほどが彼女の代になってから集められた人材であり、ネミアは、養父から受け継いだ“雲の門”を帝国最大の組織に返り咲かせることを生涯の目標としていたのだ。
彼女の情熱に当てられたのが、現在の幹部たちだ。彼らは、ネミアの狂信的といっても過言ではないほどの想いに感化されており、“雲の門”がいずれ帝国全土を震撼させるにたる組織になることを信じてさえいた。
とはいえ、片田舎といっても過言ではない漁村の洞窟に本拠を置くような小組織が、小国家群と同程度かそれ以上の国土を誇る帝国全域に勢力を伸ばすなど、簡単にできることではない。数十年、いや、百年以上はかかってもできるかどうか。
しかも、“雲の門”没落の最大要因は、人殺しを生業とする暗殺者集団“月ヶ城”の存在があってのことなのだ。そしてどうやら、“月ヶ城”は、“雲の門”からの分派といっていい存在だということだ。
かつて、“雲の門”で隠密技術を培ったものたちの中に、暗殺を請け負ったほうが効率よく金を稼ぐことができるという事実を知ったものが現れた。それらは、“雲の門”の掟が目障りだと考え、頭目に直訴した。掟を変え、殺人を許可して欲しい、と。しかし、“雲の門”は義賊であるべき、という考えを持つ頭目はこれを頑なに認めなかった。それが反目の始まりであり、組織の分離が起こったのはその直後のことだという。
“雲の門”から抜け出したものたちは、月を名乗り、暗殺者として帝国の闇を暗躍するようになる。帝国の暗部を跳梁跋扈する月の暗殺者たちは、やがて、“月ヶ城”として知られるようになり、そのころには、“雲の門”とも公然と対立するようになっていた。人殺しを禁じた義賊と、人殺しを生業とする暗殺者たち。勝敗は一目瞭然だ。
どれだけ盗みの技術を鍛え、研ぎ澄まそうとも、殺さずの心構えでは、必殺の心構えをもって向かってくる相手にはどうしようもない。
“雲の門”の没落は、そうしてゆっくりと、しかし、確実に進んでいったという。
その“月ヶ城”も、ここ数年で没落の一途を辿っているといい、だからこそ、“雲の門”再興の好機である、と、ネミアは考えていた。
そこへ、ラーゼンが現れた。
ラーゼンほどの腕前を持つ人間は、そういるものではない。一騎当千。帝国軍の精兵相手にも引けを取らないどころか、一方的な虐殺といっても過言ではないような戦いを繰り広げるほどの人間など、この世にどれだけいるのか。
“雲の門”は義賊だ。人殺しは許していない。しかし、帝国軍と事を構えてはいけないとは、いっていないのだ。殺さないなら、斃しても構わない。その程度の理屈で、“雲の門”は勢力を一挙に拡大した。
ちょうど、大混乱の時期だった。
帝国全土に起きた大混乱の原因は、わからない。
いやそもそも、ラーゼンは、自分がなぜ、帝国領土の漁村の浜辺に打ち上げられていたのかも、わかっていない。
最終戦争の真っ只中、彼は、降り注ぐ光を見た。そして、吹き飛ばされ、気がつくと、波に呑まれていた。塩辛い液体の奔流の中で、それが海なのだということを認識したときには、なにがなんだかわからなかった。海など、書物でしか知らないものだし、生涯、拝むことなどありえないものとして認識していた。海は、大陸外縁部にでも行かなければ拝むことはできない。大陸の内陸部である小国家群に生まれたものにとっては、一生をかけても縁のないもののひとつが海なのだ。
その海と深い深い縁を結んだ挙げ句、流れに流れ、辿り着いたのが帝国領土の浜辺だった。ただそれだけが確実なものとして彼の記憶の中にある。
そして、浜辺に打ち上げられ、意識を失っていた彼を溺死体と勘違いして近寄ってきたのが、寝起きに挨拶を交わしたドルンだ。ドルンは当時、浜辺につぎつぎと打ち上げられてくる死体から身につけているものを剥ぎ取り、“雲の門”の拠点に運ぶのを日課としていたらしく、その日も、どんな金目の物が手に入るのかと舌なめずりしながら浜辺を散策していたという。やがて、浜辺に打ち上げられていたラーゼンに目をつけたのが、ドルンの運の尽きというべきか、幸運の始まりというべきか。
ラーゼンは、ドルンが剣の柄から彼の手を引き剥がそうともがいているとき、意識を取り戻した。そのときの光景は、昨日の出来事のように思い出せたし、酒の席ではその話題を出してはドルンを困らせたものだ。彼は、死体からの剥ぎ取り行為によっていまの地位に上り詰めたといい、その功績の果てにラーゼンのような厄介者を組織に招き入れてしまったことは、彼にとってもどう考えていいものかわからないのだろう。
ともかくも、ドルンの作業中に目を覚ました彼は、当然、反撃に出た。ドルンを一瞬にして組み伏せ、彼の正体を問うた。ドルンは、死人が動き出したと思い込み、完全に動転していたため、冷静さを取り戻すまでに多少の時間がかかったことは印象深い。それから、ドルンに“雲の門”の拠点まで案内させた。
ラーゼンは、自分が生き残ってしまったという事実に絶望し、打ち拉がれている場合ではなかったのだ。
腹が空きすぎていた。
それはそうだろう。
数ヶ月、海を泳いでいた。
なぜ、海の藻屑となって死ぬこともなく、生きているのか。
自身の生存の理不尽さに、彼はただただ混乱しながら、ネミアと対面した。そこで、ここが帝国領土であるということを知った。
帝国の外縁部に数多に存在する漁村のひとつであり、帝国軍の監視も緩いこの村を彼が気に入るのは、時間の問題だった。
気に入ったのは、村だけではない。“雲の門”の連中のことも、なんだかんだで気に入ってしまった。気のいい連中だった。彼らは、見るからに荒くれ者揃いだが、その心根はまっすぐ過ぎるくらいにまっすぐであり、彼からしてみればまぶしすぎるきらいがあった。常に義憤に燃える彼らは、強きを挫き、弱きを助ける正義の味方そのものたろうとし、そのため、漁村の住民からも人気があった。
故に、帝国領土でありながら、盗賊集団が生き延びてこられたのだ。
彼がそんな組織の食客となったのも、自然の成り行きだった。
名を、ラーゼン=ウルクナクトと偽ったのは、本当の名を名乗れば、“雲の門”に迷惑がかかる可能性があったからだが。