第二千二百八十七話 亡霊(一)
彼の朝は、遅い。
極めて遅い。どれくらい遅いかといえば、日が昇りきり、だれもが午前の仕事に取りかかり始めた頃合いにはまだ布団の中に潜り込んでいる。ふと目を開き、危うく起きそうになると、自分自身を叱咤するようにして瞼を閉じ、再び眠りにつく。眠りは決して深くはなく、疲れも取れそうで取れない。だからこそ、執拗なまでに眠りを強い、疲労を消し去ろうとするのだが、全身を蝕む疲労感と倦怠感は、まるで生まれ持った宿業の如く彼の意識を包み込み、離れようとはしなかった。
そう想うたびに、まるで影のようだ、と、彼は皮肉げに口を歪めるだけだ。
どうせろくな人生ではない。
影のように寄り添う絶望的なまでの重みの中で、朝日を逃れて生きていくしかないのかもしれない。それも悪くはない。良くもないし、好きでもないが、決して悪くもない。
(どうでもいい)
彼は、その日、何度目かの寝返りの最中、心の底から想った。
(どうでもいい……)
なにもかも、どうでもよかった。
愛するひと、気の置けない腹心、部下たち、そして命を預けるにたる存在――それら心の拠り所であったすべてを失ったいまとなっては、なにもかもがどうでもいいことにしか想えなかった。どんな物事にも関心は持てず、心も揺り動かされない。感情は壊死し、精神状態も最悪を更新し続けている。このまま、心が腐敗し、体も蝕まれて、死に向かえばいい。滅びろ、と、呪詛のように唱えたところで、肉体は健康そのもので、三大欲求も消えて失せないから憎らしい。
食欲、睡眠欲はまだいい。
もうひとつの欲求が生きていることが彼にはどうにも解せなかった。
それが人間という生き物なのだろう、と諦めもするのだが、同時に申し訳なくもなる。
彼がこの世でただひとり愛したひとは、死んだ。
いや、彼女とともに命を捨てるつもりでいたのだから、彼女が死ぬことそのものは、問題ではない。死ぬことが本望だった。死ぬことで、ようやく本懐を遂げることができる、と、そう信じていた。
亡者のような人生だった。
生きる目的を失い、新たな目標など見つかるわけもなく、死に場所だけを探して彷徨う影のような人生だった。
故に死に場所を見つけたとき、彼は心の奥底で狂喜乱舞した。愛しいひとは、彼に生きて欲しかったようだが、彼が喜ぶ様を見て、なにもいわなかった。むしろ、一緒に死んでくれるつもりだったようだ。それは、心が通い合っていたことの証明だろう。互いに認め合い、愛し合い、許し合った。
異なる価値観も認め合っていたのだ。
だからこそ、戦場で死ぬという唯一の彼の本懐も、彼女は理解を示し、ともに死ぬ道を選んだ。
強い女だ。生きる道はいくらでもあった。美人でもある。金持ちの男を掴まえることくらい、造作もなかったはずだ。器量もいい。そうして掴まえた男を尻に敷くことくらい、容易くできただろう。
だが、彼女は、彼とともに死ぬことを選んだ。
だから、だろう。
彼は、死が怖くなかった。
死ぬべきときに死ねなかったことも、関係あるが。
しかし結局、そのときは、彼は死ねなかったのだ。彼女も、生き延びた。ふたりして生きて、生き恥を曝しながら、支え合って生きていく道を選んだ。彼にとって、ふたり目の主が現れたからだ。
剣と命を捧げる価値のある人間と出逢えた。
それは、亡者に成り果てた彼を蘇生させるような出来事だった。
奇跡が起きたといっても、過言ではなかった。
凍てつく氷原の真っ只中で真夏の烈日を見出したような、そんな感覚。
だからこそ彼は生き続けるという恥辱に満ちた道を選ぶことができたのだし、生きていることの実感の中で、愛しいひとや気の置けない腹心との日々を満喫することもできた。幸福だったのだろう。なにもかもが、幸福に満ちた人生だった。
ならばこそ、と、彼は、天井の木目を視線でなぞりながら、唾棄するように想うのだ。ならばこそ、なぜ、あのときに死ねなかったのか。なぜ、あの最後の決戦で、だれもかれもが命を燃やし、魂が尽きるまで戦い続けた闘争の中で、最期を迎えることができなかったのか。部下を失い、腹心を失い、愛しいひとをも失いながら、どうして、生きていられるのか。
これこそ、生き恥以外のなにものでもあるまい。
彼はそう想うのだが、生きている以上、つぎの死に場所と遭遇するまでは生き続けなければならないのだろうとも諦観するのだ。
生きて、借りを作った。
一宿一飯の恩。
借りを返す内、情が生まれた。
情が、しがらみが、生き方を縛る。
どうやら人間とは、自分とは、そういう生き物らしい。
死にたがりのくせに、そういうしがらみには素直に従ってしまうのが、自分の悪い癖だ。そうやって、何度も死地を逃している。死に時を見失っている。だから亡霊なのだ。死に場所を求めて現世を彷徨うただの亡霊。
(それが俺だ)
彼は、もう一度寝返りを打とうとして、止めた。上体を起こし、寝心地のいい上等な寝台と別れを惜しみながら、離れる。帳もかかっていない窓からは、太陽の光が差し込んできている。朝日というには高すぎる。さすがに真昼ということはないだろうが、時計のないこの部屋では時間を計る術はない。時計を置かないのは、時間に縛られたくないからだ。そして、彼の新たな居場所ではそれが許された。
彼は、自由気ままに振る舞うことを黙認されている。
彼の立ち位置は、結局いつも特別だった。特例を認められた立場に収まるのが、生まれながらの運命なのか、どうなのか。たまたま偶然なのだろうが、それにしたって、運がいい。いつだって、そうだ。自分のやりたいようにやることができた。その点では不満はない。
唯一の不満は、死に場所で死に時を見失うというどうしようもない運命くらいだ。
服を着て、剣を携え、ひとりには広すぎる部屋を出れば、いつものように陽気すぎるにもほどがある空気に包まれた広間があり、そこには彼の見知った顔ばかりが屯している。大半が屈強な男だ。およそ普通の生活というものを送れなそうな荒くれ者ばかりが顔をつきあわせて悪巧みをしている。彼が部屋から出てきたことに気づくと、即座に居住まいを正し、深々と頭を下げてくるものだから、内心笑ってしまう。彼は鷹揚に手を挙げるだけで挨拶を済ませると、目だけで問う。荒くれ者のうち、もっとも小柄な男が駆け寄ってきた。
「頭なら奥でお待ちですぜ、旦那」
「めずらしいな?」
「へえ。旦那のおかげで暇を持て余すことができると喜んでいるやら嘆いているやら」
へこへことした態度は、初めて彼とあったときのことを思い出させた。剃髪した頭部に奇妙な刺青をした小男で、落ちくぼんだ目がぎらぎらと輝いているところが彼の本質を窺わせた。彼に対しては常に謙っているものの、決して実力がないわけではない。実際、この小男はこの組織の幹部でもある。悪巧みする荒くれ者たちも、実のところ、この小男には立場上まったく敵わないのだ。しかし、彼らとこの小男が顔を突き合わせて話し込んでいると、どうしても小男が詰められているようにしか見えないのが困りどころだ。ドルン=フォング。彼にとって気の置けない間柄だった男と似た響きの名は、彼に奇妙な親近感を抱かせている。
彼は、ドルンが荒くれ者どもの元に戻るのを見届けつつ、広間の奥の部屋に繋がる扉を見やった。大きな両開きの扉の前には、筋骨隆々たる男が一名、扉の重しのように座り込んでいる。荒事担当だった時代についたものらしい傷跡が右目を潰している。幹部のひとりで、現在は頭目の護衛長を任されている。名は、ガロン=ダグスといったか。
彼が近づくと、ガロンはいつも通り無言のまま立ち上がり、道を開いた。ガロンは寡黙でなにを考えているかわからないものの、ドルン同様、自分の立場を弁える程度の知能は持っている。でなければ、このような組織で生き延びることはできないだろうが。
彼が、ガロンに目線だけで挨拶をすると、ガロンは静かにうなずいてきただけだった。いつものことだ。気にすることもない。それはつまり、ガロンが彼のことを認めているという証でもあるのだ。
奥への扉を開けば、やや長めの通路に出る。陽気ながらも男臭かった広間とは異なり、通路には艶やかな装飾品の類いが所狭しと飾られ、各所で香が焚かれていた。広間から向こう側の男臭さを消し去るためのようだ。しかし、むせ返るような香のにおいには、未だ慣れることはなく、故に彼は足早に通路を通り抜けるのだ。通路を通り抜けさえすれば、香の地獄からは解放される。
通路の先には当然、扉があり、固く閉ざされている。幹部さえも簡単に開くことのできない扉は、しかし、彼には自由に開閉することが許されていた。扉を叩く必要もない。それは、扉を勝手に開くものがあれば、彼が来たのだということがわかるからだ、と、頭目はいった。彼としても、手間がかからない分、頭目の提案に感謝さえしていた。
扉を開き、中に入るとともに即座に閉める。香のにおいがこの部屋にまで充満しては、敵わない。せっかく香地獄から逃げることに成功したというのにだ。
「ラーゼン!」
女の嬌声にも似た呼び声が聞こえてきたかと想うと、奥から物音がした。頭目の玉座から腰を上げたのだろう。部屋は薄暗く、薄絹の帳が幾重にも垂れ下がっていて、出入り口付近からは奥の様子がまったくわからなかった。しかし、女が喜び勇んでこちらに向かってくるのはわかっていた。
女は、彼に惚れ込んでいる。だからこそ、彼だけが特別扱いを受けているのだ。そしてそのことに不満を持つものは、組織にはいない。不満を持つということは、頭目への反逆行為そのものであり、その程度のことで叛意を抱くようなものは、とっくに組織を離れているだろう。
組織は、彼が来るまで、壊滅状態といってもいいような有り様だった。
部屋の奥から幾重もの帳を押し退ける風のように現れたのは、がたいのいい女だった。決して若くはないが、若作りをしているわけでもなく美貌を保っているところを見ると、生まれがいいのではないかと思えたし、実際、高貴な血筋を引いている可能性は低くはないようだ。子供の頃から鍛え抜いてきた肉体は筋肉と脂肪がほどよい均衡を保ち、彼女の肉感的な肢体をより魅力的かつ蠱惑的なものに仕上げている。それを色鮮やかな装束で包み込み、着飾っているのだから、男ならばだれしも魅了されるに違いない。事実、彼女の組織は、彼女の魅力によって辛くも滅亡を免れたといってもいいらしい。
名をネミア=ウィーズといった。この荒くれ者集団“雲の門”の頭目である彼女は、媚態を尽くして、彼を迎え入れている。
「今日はいつもより早いじゃないか」
「まあ、たまにはそういう朝があってもいいだろ」
「朝というには、少々遅すぎるけどね」
ネミアは、苦笑交じりに彼に抱きつき、濃密な口づけをしてきた。彼は彼女の愛情表現に応え、そして奥へ向かう。
いつものことだ。
いつからか、日常になったそれら一連の流れは、彼に人生の虚しさを実感させずにはいられない。
だが、そんな人生に不満を抱けるほど、自分は大した人間ではないということもわかっている。
ラーゼン=ウルクナクト。
そう名乗る彼は、何度目かの人生の転機を迎え、謳歌している。