第二千二百八十六話 大いなる手がかり
マリアが天球儀の目の前に辿り着いたときには、アズマリアが天球儀を投影している機械を操作し、その回転を止めることに成功していた。幻像の天球儀は、世界の大半が海面に覆われていることを示している。陸地も決して少ないわけではないのだが、陸地よりも海面のほうが遙かに膨大だ。これに色彩がついていれば、きっと青の面が多い球体になるのだろう。
そんなことを考えていると、アマラがまたしても天球儀に手を伸ばし、指先で触れた。小さく細い指先は当然、天球儀の幻像を貫通し、幻像の表面に波紋を起こす。波紋はあっという間に収まり、アマラの指を貫通させたまま、天球儀を維持して見せた。アマラはそれが気に食わなかったのか、何度も何度も指を刺し続けたが、天球儀の形状が変化することはなかった。
「ここが、南北ミズトロアと当時呼ばれていた大陸だ」
と、アズマリアが細長い金属の棒の先端でもって天球儀を指し示した。
「その棒は?」
「さっき拾った。なんのためのものかは知らんがな」
アズマリアはこともなげにいった。マリアは、金属棒が指し示した先に視線を移すと、南北ミズトロアという言葉の意味を理解するに至った。制止した天球儀の、マリアから見て左側にその陸地はある。天球儀の頂点を北とし、逆位置を南とすることは、天球儀に表示された古代文字からもわかっていた。頂点にはシェド(北)、最下部にはシビン(南)と表示されているのだ。
つまり、アズマリアが指し示した北と南に広大な陸地を持つ大陸こそが南北ミズトロアと呼ばれる地域だということがはっきりとわかったのだ。天球儀上には地名は記されていないものの、ほかの陸地と比べると、違いがよくわかる。ほかの陸地というのは、無数の島々であり、大陸であったりするのだが、それらはひとつで完結しているといっても過言ではないのだ。一方、南北ミズトロアは、まるでふたつの大陸が橋のような陸地によって繋がっているように見えるのだ。つまり、アズマリアにいわれるまでもなく、南北ミズトロアを特定することそのものは難しくなかったというわけだが、それそのものは、マリア自身、わかっていたことではある。情報端末こと霊子演算機を用いれば、大陸の位置を把握することは難しくなかっただろう。
「なるほどね……それで南北ミズトロア」
「そしてここが、南部ミズトロアの都市アルガノンがあった場所だ。ミエンディアの時代にはネア・アルガノンとして栄えていたものだから、よく覚えている」
アズマリアが指し示したのは、南ミズトロアの
「ネア……アルガノン?」
「新生アルガノン。アルガノンは南ミズトロアでも重要な都市だったと記事にもあっただろう。消滅したからといって、そのまま放置するわけにはいかなかったのさ。ま、ミエンディア一行は、そんなことを知るよしもなかったが」
「……ミエンディア一行ねえ」
「のちに聖皇ミエンディアと名乗ることになる人間の娘ミエンダと六名の師の旅さ。世界を救うための旅は、世界全土を巡る旅でもあった。当然、南北ミズトロアにも立ち寄ったし、ネア・アルガノンにも訪れた。もっとも、諸族の戦い真っ只中のこともあって、ミエンダたちが得られたものは限りなく少ないが……無意味な旅ではなかったはずだ」
「その六名ってのは、いわゆる聖皇六将のことだろ?」
マリアが聖皇六将に関して多少なりとも知っているのは、ミリュウという情報源がいたからだ。聖皇に六人の腹心がいたという話は、伝説の中でも語られてはおらず、古代語で記された文献を漁っても知ることのできないことだった。それを当然のように語るアズマリアは、不可思議な存在としか思えない。
「ああ」
「じゃああんたは、いったいなにものなんだい?」
マリアは、アズマリアの正体がますます深い謎に包まれていくのを感じた。
「まるでミエンディア一行の旅をその目で見て、体験してきたかにいうあんたは、いったい……」
「……そのことだが、わたしもずっと考えていた」
アズマリアは、悪びれることもなく、肩を竦めて頭を振った。
「わたしはいったいなにもので、なんのためにこの世に誕生したのか。なぜわたしはこの世界をこうまでも愛おしく想い、生きとし生けるすべてのものを慈しんでやまないのか。わたしは、いったいどこのだれなのか。どこからきて、どこへいくのか。ずっと、考えていた。解に辿り着いたのは、つい最近のことだ」
「解……」
「それはなんじゃ?」
「さて、なんだと想う?」
「はぐらかすつもりかい?」
マリアがさらに質問を重ねると、魔人は嘆息して見せた。少女人形そのものたるその姿は、彼女自身を神秘と幻想に包まれた虚構の存在のように想わせる。
「……君の本題は、わたしの正体などではあるまい。君は一刻も早く白化症の治療法を確立しなければならないはずだ。でなければ、彼にもう一度逢うことも敵わなくなるやもしれんぞ」
「わかったよ。ここであんたの協力を失うわけにもいかないからね。これ以上、あんたのことを詮索するのは止めにしよう」
マリアがあっさりと手を引くと、腕の中のアマラが不服そうにいってくる。
「なんでじゃ? なんでもっと聞かぬのじゃ。あやつのこと、信用できなくなってきたぞ」
「信用はできるだろう? ここまでのことをしてくれたんだ。大事なのは過去じゃない。いまであり、明日だよ。あんたの過去にだって、あたしは拘らなかった。そうだろう?」
「そうじゃが……仕方がないのう。マリアのいうことは絶対じゃしな。わかったのじゃ。マリアに従うのじゃー」
そういって笑顔を向けてくるアマラの愛おしさに負けそうになるのを懸命に耐え抜くと、マリアはアズマリアに視線を戻した。魔人は金属棒を弄ぶようにしながら、天球儀を見つめている。
「なにか、考え込んでいるようだね?」
「君の意見について、ずっと考え込んでいた」
「あたしの意見?」
「確かに件の記事が事実で、アルガノンが神の裁きに滅ぼされたのであれば、その生存者は本来であれば神威に毒され、白化症と同様の症状が確認されていてもおかしくはない。都市を滅ぼすほどの神威が拡散されれば、人体が神威に毒されないわけがないのだからな。しかし、あの記事に関連するすべての記事を閲覧したが、生存者はその後精神状態も回復し、健康的な生活を送るようになったことも確認できた」
「つまり、記事が事実なら、本当に神様の仕業なら、生存者が神威への抵抗を持っている可能性がある……と見ていいんだね?」
「記事が事実で、神が本当に裁きを下したのならば、な」
アズマリアが念を押したことで、マリアは、彼女がなにをいいたいのかを察した。アマラがむすっとしたのは、マリアの考えを否定することが許せないからだろうが。
「だが、実際のところ、あの時代、神が顕現することなどありうるのかというと疑問が残るところなのだ」
マリアは、南北ミズトロアに視線を移しながら、魔人の言葉を聞いていた。彼女がいわんとしていることは察していたため、その言葉に驚きはない。
「この世界における神は、世界最古の生命体にして世界管理者たる三界の竜王をおいてほかにはいない。神代、古代、近代に至るまで、ほかの神が彼らに取って代わった事実はないのだ。無論、記事にあるように信仰は存在した。創世回帰によって世界が生まれ変わるたびに、三界の竜王は、世界の成り行きを見守るために姿を消し、影すら見せなかったのだから、ひとびとは、別の神を想像し、救いを求め、祈り、信仰するのは必然だからな」
神がいったいどういう存在なのかについては、マリク神から散々聞いて理解しているつもりだった。祈りの果てに示現する、人知を越えた存在であり、信仰者に対し、手を差し伸べる存在である、という話だ。故にこそ、聖皇に召喚された神々は手がつけられないのだ、とも、マリク神はいっていた。
召喚されたのは異世界の神々であり、それら神々の出現の原因となった信仰者は本来在るべき世界にいて、この世界とは無関係だから、神々はやりたい放題なのだ、と。召喚者である聖皇なきいま、神々は想うままに動き、世界に混沌と破滅をもたらしかねないらしい。
マリク神は、聖皇に召喚された神ではないが故にリョハンの守護神たりえたが、それ以外の神々は、在るべき世界に還ることを第一義とし、それ以外の物事には冷淡なのだというのだ。
故に世界は神威に毒され、白化症が蔓延してしまった。
「人間だけではない。神代の竜属も、古代の巨人属も、自分たちの神を想像し、信仰したという。だれもが自分たちよりも上位の存在を夢見、庇護を求めるものらしい」
「へえ……」
「神は、祈りの果てに顕現するものだ。故に、この世界においても神が顕現することは、ありえないことではない。可能性は極めて低いがな」
「なんでじゃ?」
「三界の竜王の管理が徹底していたからだ」
アマラの疑問に、アズマリアが即答した。
「三界の竜王は、この世界に神のような上位者の干渉を望まなかった。たとえ弱きひとびとが神に祈り、縋り、願い、その果てに神が顕現しようとも、干渉を許さなかった。それは、生物本来の力ではないからだ。神々の召喚とそれに伴う闘争は、結局のところ、神々の闘争にほかならない。そんなもののために世界は存在するわけではない――というのが、管理者たる彼らの考えだったのだろう」
三界の竜王とはだれか。それについても、多少、学んでいる。
“大破壊”が進行中だった世界の空の上、マリアたちを乗せた船を運んでくれた蒼き竜こそ、三界の竜王と呼ばれる三柱の転生竜の一角たる、蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラースなのだ。ラムレスはその後、リョハンに極めて協力的な態度を取ってくれていたことは、記憶に新しい。マリアがベノアに辿り着いて以降のことはよくわからないものの、決して悪い関係にはなってはいないだろう。ラムレスには人間の娘がいて、その娘が戦女神ファリアを大切に想ってくれているのだ。
三界の竜王の一柱がマリアにも馴染み深いラグナシア=エルム・ドラースだという事実を知ったのはいつだったか忘れたが、大いに驚き、混乱さえしたものだ。愛嬌の塊のような小飛竜は、《獅子の尾》の愛玩動物の如くであり、マリアもよく可愛いがったことを覚えている。
「つまり、顕現した神がいたとしても、世界に居続けることはなかった、ということかい?」
「そういうことだ」
「だったら、ありうるってことだね」
「ん?」
「ワレリアなる神の顕現に成功したのが、アルガノン消滅事件だった、ってことなんじゃないか……ってね」
「そうも考えられる……な」
「そうしか考えられぬわ! のう、マリア!」
「そうだね」
マリアは、勢いづくアマラがおかしくて仕方がなかった。
「問題は、そのアルガノン消滅事件の生存者がどこへいったか、ということだが」
「南ミズトロアの別の都市に移住したんだろうけど、問題はそこじゃあないね」
「そうだ。世界は、その後、激変するからだ」
アズマリアが静かにうなずく。天球儀として虚空に投影された世界は、過去のものだ。遙か遠い時代の世界の形に過ぎない。現在とも、大陸時代とも異なる世界の形。そんなものが当てになるはずもなかった。だからこそ、マリアは頭を抱えているのだ。これでは、手がかりとさえいえないのではないか。
「世界統一……圧縮と言い換えてもいいが、聖皇ミエンディアは、神々の力を駆使し、世界そのものを改変した。陸地を一点に集中させ、ひとつの大陸を作り上げたのだ。それがワーグラーン大陸であり、君らが世界と呼んでいた天地だ」
「そして、“大破壊”……か」
「だが、案ずることはない。目星はついている」
「なんだって?」
「先ほどからわたしたちが口にしている神の名が手がかりだよ」
アズマリアは告げて、金属棒で天球儀を突き刺した。
「……かつて君が所属したガンディアの同盟国だったルシオンが隣国ワラルから奪い取った都市ハルンドール。ワラルは、その都市をワレリアと呼んでいた。奇妙な縁を感じないか?」
魔人の囁くような声が、マリアに衝撃をもたらしたのはいうまでもない。