第二千二百八十二話 マリアの戦い(一)
アマラがなにやら天球儀と真剣な顔をして睨み合っているのを横目に、アズマリアが室内に並んだ長卓のひとつひとつを確認している様子を見て、マリアは我に返った。
アズマリアの説明によってマリアにわかったのは、この世界を示す天球儀の幻像の存在によって、この古代図書館に未知の技術が用いられているということであり、その技術を利用することで目的の情報を引き出せるかもしれないという重要な事実だ。ここに至るまでの道中で、古代図書館に不可思議な力が働いていることはわかりきっていたが、どうやらそれが魔法のようなものではなく、未知の技術によるものだということがはっきりと理解できたのは、収穫といえば収穫かもしれない。その未知の技術を解明することができれば、医療技術が大幅に発展する可能性もある。なにせ、最低でも五百年以上もの長い時間、動き続けている謎の技術なのだ。なにかしら医療に転用することができれば、医術の進歩もありうる。
医療技術の進歩、発展は、医師たるマリアにとって宿願であり、大望といっていい。白化症の治療法の確立がそれだ。その上で、ほかの、現状不治とされる病の治療法が確立され、医療技術そのものが進歩することを願ってやまないのだ。ひとりでも多くの患者を治療し、命を救うことがすべての医師の切なる願いといっていい。
そのためならば悪魔にだって魂を売るのだ。
実際、魔人に協力を仰いでいる。マリアの覚悟に嘘はない。
マリアはまず、天球儀とにらみ合ったままの精霊に話しかけた。
「なにをしているんだい、アマラ」
「見覚えがあるようなないようなと想ってのう」
草冠の精霊は、天球儀に小さな手を伸ばしたものの、届かないことに腹立たしくなったのか、地団駄を踏んだ。そして、マリアを見つめてくる。マリアはアマラがなにをしたいのか瞬時に悟ると、肩を竦めた。彼女の小さな体を両手で抱えてあげると、アマラは心底嬉しそうな顔をした。それだけで心が晴れるのだから、自分も安いものだと想わずにはいられない。
「それはそうだろう」
アマラが天球儀に触れたとき、アズマリアがいってきた。天球儀の幻像は、アマラの指先が触れた部分だけがわずかに歪み、それ以外の部分にはなんの変化もない。それがアマラには不思議で溜まらないらしく、今度は両手を突っ込んでかき回す。天球儀が音もなく壊れれば、アマラはそれ見たことかと勝ち誇ったが、しかしながら天球儀は瞬く間に元通りに復元し、アマラの度肝を抜く。そんなアマラと天球儀の様子を見てだろう、アズマリアが思い切り嘆息した。アマラが彼女を睨む。
「その天球儀は、かつてのこの世界――五百年以上の昔、世界がまだ圧縮される前の姿を記録したものなのだからな。精霊たるおまえには懐かしくもあるだろうさ」
「むう……?」
「世界が圧縮される前?」
「世界は圧縮されたのさ。およそ五百年前、おまえたちが大陸統一と記録し、記憶する出来事によってな」
「……なにをいってんだか、よくわかんないね」
マリアはアマラを抱え直して、アズマリアと向き直った。
「うちにもじゃ。もっとわかるように話さぬか。小難しい言い回しをして賢しくみせようというのは、愚か者の所業じゃぞ」
「なにも難しい話ではないだろう」
アズマリアは、こちらを一瞥すると、手近にあった長卓の椅子に腰を下ろした。長卓の上には、金属製の板があり、そこには球体が嵌め込まれている。それと同じものがほかの長卓にもいくつも並んでいるのだが、アズマリアの座った席のものだけが、微妙に光を発している。いや、よく見てみれば、ほかにもいくつかの席が同じように明滅しているようだ。
「世界はかつて、その天球儀が見せる通りの形をしていたのだ。三界の竜王が世界の管理者として君臨し、数多の種族が想うままに生きた時代の話さ」
「そんな話、聞いたこともないねえ……」
「……そういえば、そうじゃったような気もするのう」
「五百年近く隔離されていれば、忘れ果てもするか」
「む」
「マリア。君が知らないのは当然のことだ。大陸統一以前の記憶は改竄され、記録も消し去られた。諸族の文明は尽く埋葬され、残ったのは人間の文明だけ。そしてそれもあのものにとって都合良く改変された記憶でしかない」
アズマリアは、慣れた手つきで金属板を叩き始めた。指先だけを使い、鍵盤を叩くような軽やかさで、だ。するとどうだろう。金属板上部に嵌め込まれている球体に無数の光線が走り、球体上方の虚空に光が投射され始めた。光は、一枚の板のようになってアズマリアの視界に固定される。それも気になったが、アズマリアの発言にも気になることがある。
「あのもの……?」
「聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーン。君らの、いや、この世に生きとし生けるものすべての敵というべきか」
「すべての……敵」
「聖皇は世界を救うために、統一という名の圧縮と改変を行った。それによって世界は滅びを免れたのは事実だ。それそのものは、褒められることではあるのだろうな。人類が滅亡せず、新たな歴史を紡いでこられたのは、聖皇の世界統一のおかげ以外のなにものでもないのだから」
アズマリアは、まるで見てきたかのようにいってくるが、実際、目の当たりにしてきたのかもしれない。彼女は、五百年以上の長い時間を生きてきたという。聖皇ミエンディアとも対面したことがあるのかもしれない。
「しかし、聖皇のやり方は、三界の竜王の逆鱗に触れた。三界の竜王は、聖皇を敵と定めた。世界を自由自在に改変するような存在は、世界管理者たる竜王たちには、看過できない存在だったし、それは至極当然の判断だ。故に聖皇は滅ぼされた」
嘆息とともに手を止めたアズマリアだったが、思い返したように金属板を叩き始める。金属板を叩くことによって、なにかしらの装置を動かしているのだろうが、マリアにはそれがいったいなんであるのかまったくわからなかった。未知の技術にもほどがある。アマラに促されるまま、アズマリアに歩み寄る。
「それが聖皇による呪いを蒔く結果になるとは、だれも想像できなかったわけではあるまいがな」
「聖皇の呪い……か」
「レヴィアを始め、聖皇六将と呼ばれるものたちにかけられた不老不滅の業も、世界そのものにかけられた復活の約束も、呪いと同じだ。おまえたち精霊がこの世界から弾き出されたのも、だれもがすべてを忘れ去ったのも、なにもかもすべてな」
アズマリアの背後に辿り着けば、球体が虚空に投影する光の板に無数の文字が浮かんでいるのがわかった。光の板に描き出されたのはすべて古代文字であり、膨大な量の文字列を把握するのは、マリアにも簡単なことではなかった。しかし、アズマリアには容易いことであるようで、読み終えると、金属板の操作を行い、光の板に表示されている文字列を変化させた。どうやら、金属板の操作によって、光の板になんらかの文字列を表示させることができるらしい。どういう原理なのかは、まったくもって理解できない。
「この世界は呪われているのさ。聖皇などと名乗る偽りの救世主によって」
「その呪いとやらはいまも有効なのかい? その言い方だと」
「それはそうだろう。呪いを解くことができるのは、呪いをかけたものだけだ。それがこの世の不文律。もしそれをねじ曲げることができるものがあるとすればそれは、この世の在りようすら変えるものだ」
「じゃあ、ミリュウの呪いを解くには、聖皇に解いてもらうしかないってことかい?」
「そうだ。レヴィアだけじゃない。聖皇六将にかけられた呪いを解く方法は、聖皇ミエンディアに直接解いてもらう以外にはない。そして、六将を恨む聖皇がそのような願いに応じるはずもない。そもそも、聖皇の復活は即ちこの世の滅びと同義だ。ミリュウの呪いを解くためだけに聖皇の復活を望むのは、愚にもつかぬことだな」
「……そうかい」
わかってはいたことだが、ミリュウの呪いを解くのは、極めて困難なことだという現実を突きつけられて、マリアは落胆した。ミリュウが呪縛に苦しんでいるという話を聞いて以来、マリアは、《獅子の尾》専属医師として、なんとかしてやりたいと常日頃から考えていたのだ。古今の書物に当たり、治療法を探してみたものの手がかりひとつなく、途方に暮れたものだ。ミリュウは、大切な家族のひとりのようなものだ。手のかかる、愛しい妹なのだ。なんとしてでも助けてやりたいという想いがある。
だからこそ、アズマリアの冷厳な宣告に肩を落とした。
「ところで、おぬしはさっきからなにをしておるのじゃ?」
「見てわからないか。この端末から、古代図書館の情報書庫に干渉しているのだ」
「たんまつ? じょうほうしょこ? さっきもいうたが、わかりやすい言葉を使えと何度いえばわかるのじゃ。おぬしもわからんやつじゃのう」
アマラが心底呆れ果てるように告げると、さすがのアズマリアも憮然とするほかなかったようだ。保護者責任を問うかのようにこちらを一瞥したのち、大きく息を吐く。アマラはそんなアズマリアの様子を見て勝ち誇るものだから質が悪い。
「……これは遙か太古、天人属が叡智を結集して作り上げた情報処理機構のひとつでな、これを使うことで古代図書館のすべての記録が集積された情報書庫に干渉し、様々な情報を引き出すことができる」
「つまり……どういうことなのじゃ?」
「つまりさ、これを使えば、図書館を歩き回るよりは目当ての情報が見つかる可能性があるってことだろ」
「なんじゃ、そういうことならばそういえばいいではないか。まどろっこしいのう」
「……こいつ」
「まあまあ」
マリアは、アズマリアを宥めながら、隣の席に腰を下ろした。端末とやらは、すべての席の前に設置されているが、アズマリアが探し回っていたことを考えると、使用可能な端末と使用不可能な端末があるようだ。数百年以上昔の代物だ。使えるものがあるだけ感謝するべきなのだろう。
「あんたは、最初からこれが目当てだったってわけかい?」
「古代図書館の構造上、可能性はあった。だが、確信していたわけではないよ。すべての端末が死んでいたとしてもおかしくはなかったからな」
「けど、生きていた。幸運だった、ということでいいんだね」
「そういうことだ。わたしは実に運がいい」
「うん?」
「セツナと巡り会えた。これ以上の幸運はないさ」
「セツナ……か」
「彼のことが気になるか?」
「当たり前だろう」
マリアは、アマラを腿の上に落ち着けると、はっきりと肯定した。ベノアで分かれて以来、セツナのことが気がかりではなかったことなどなかったのだ。無論、セツナのことを信じている。ベノアガルドを最悪の窮地から救った英雄である彼が、並大抵のことで敗れるようなことはありえない、と、彼女は想っていた。それでも、彼のことが心配でたまらない。彼がいまどこにいて、なにをしているのか。考えずにはいられないのだ。
彼だけではない。
ファリアやミリュウのことも、ずっと気にかかっている。
彼女たちがセツナと合流できたということは、アズマリアから聞いて知っているし、そのことには安堵している。だからこそ、不安もあるのだ。
セツナたちの戦いは、過酷なものだという。
マリアは、その戦いに加われない自分を歯がゆく想っているのだ。自分には自分の戦いがあるのだといって聞かせなければならないほどに。