第二千二百八十一話 空中都市の謎(二)
監視塔一階に隠されていた階段を降りていく。
リョハンは冬を越え、五月を迎えている。しかし、空中都を包み込む空気は相変わらず冷ややかなものであり、ときには凍てつくほどの寒さを感じることもある。防寒着を着ずに済むのは、七月八月の二ヶ月くらいのものといっていい。それ以外は常に冷気との対決を強いられるのが、この空中都の恐ろしいところだ。
だが、それでこそ、空中都の信仰は磨かれ、研ぎ澄まされるものである、という考えが一般的であり、空中都市民が山間市や山門街に比べて選民思想を持っているのは、そういうところにも由来している。選民意識の最大の原因は、いわずもがなだが、戦女神と同じ場所に済むことができ、同じ空気を吸うことができているからだが。
一方で、空中都は、武装召喚師の修行場としても最適である、という見解を示したのが、ルウファの師グロリア=オウレリアだ。冬になれば極寒地獄の如き様相を見せ、夏の間以外は寒さとの苦闘を強いられる世界は、武装召喚師の精神修養にもってこいだと彼女はいうのだ。ルウファとしては、修練は修練、日常は日常と別けて考えたいところだが、師のいうことももっともだと想わざるを得ない。というのも、リョハンの武装召喚師たちの優秀さとこの空中都の寒さが根深く関連しているようだからだ。
この極寒の地で年中修行を積んでいる武装召喚師たちが弱いわけがないのだ。
とはいえ、そんな優秀極まりない武装召喚師と比べても図抜けているのが、彼の尊敬して止まない師匠であり、そんな彼女に徹底的にしごき抜かれてきたことは、彼の自信にもなっていた。グロリアに鍛え上げられたからこそ、リョハンの武装召喚師たちを前にしても物怖じすることなく、自分を保っていられるのだ、と彼は想っていたし、いまもグロリアにしごかれることを至上の喜びだと考えていた。
もっとも、いまは目の前のことに集中しなければならない。
先代戦女神が子供時代に遊び場にしたという監視塔の地下階段を降りていく。
「先代様の子供時代のリョハンは、いまとまったく違ったんですよね?」
『もちろん。なんたってヴァシュタリア共同体の統治下にあったんだもの。リョハンのひとびとは、教会の教えなんて信じてもいなかったけど、ヴァシュタリアには敵わないからね。嫌々ながらも信仰していたんだ』
『祖父の時代なんて、ヴァシュタリアの連中が鼻息荒く取り締まってたって話よ。異端者は一族郎党まとめて厳罰を受けたっていうし、リョハンでも多くの市民が処断された記録があるわ』
「そういった不平不満が募って、のちの独立戦争に繋がったってわけですかね」
『そういうことだろうね。ま、独立戦争を起こしたのは、アズマリアに発破をかけられたからだけど』
「え?」
『武装召喚術を世界中に広めることが魔人の目論見だったそうだし、そのためにも、リョハンが自由でなければならなかったんだろう。ヴァシュタリアの支配下では、武装召喚術を広めることはできないからね』
「なるほど……」
ルウファがマリクの考えに納得したのは、リョハンの独立以降、武装召喚術は爆発的な広がりを見せたという事実があるからだ。
リョハンに武装召喚術がもたらされたのが大陸暦四百五十年頃だといわれている。それから五十年あまりで大陸全土に行き渡り、帝国においては二万人もの武装召喚師が育成されたというのだから、驚愕に値する。歴史的に見ても、そのような速度で物事が広まったことなどそうあるものではないだろう。武装召喚術の有用性に気づいた人間がそれだけいたということであり、帝国の先見の明たるや、凄まじいとしかいいようがない、というべきか。
やがて階段を降りきると、狭い通路に辿り着く。石造りの壁と床、天井は、空中都の建物群の材質とそっくりだ。同年代に作られたものであることは、疑いようがなかった。
『アズマリアがリョハンに来た当時のことも鮮明に覚えているよ。異邦人の到来は、リョハンに不吉を運ぶものだと信じられていたから、だれもが警戒したし、教会の人間に通報するものも少なくなかった。アズマリアがリョハンのひとびとに受け入れられたのは、ファリアたちが武装召喚術を習得し、その力を示してからのことなんだよ』
マリクから、聞いたこともない話がつぎつぎと飛び出してくる中、ルウファは、前方から吹き抜けてきた冷気に身を震わせた。風が吹くということは、この通路の先に風が吹き込んでくる場所があるとうことだ。リョフ山のどこかと通じているのか、それとも空中都のどこかと通じているのか。いずれにせよ、この地下通路は、密閉空間ではないということのようだ。
「よくもまあそんな危険人物から武装召喚術を教わろうとしましたね、先代様」
『まあ、ファリアはよくいえば天真爛漫で自由奔放だったから』
『だから、このような場所でも遊んでいた、と?』
『そういうこと。ああ、そう、ここも覚えているよ。ファリアが転んで怪我をして、泣いた場所だ』
マリクが懐かしそうにいったのは、狭い通路の真っ只中、さらに道幅の狭くなった場所を前にしたときだった。
『当時のぼくではなにもしてやれず、困り果てたものだよ。大人を呼ぶことはできたけど、そうすれば、ファリアは二度とこの場所で遊べなくなる。それはあまりにも可哀想だから』
『マリク様、先代様のこと、本当によく見ていたんですね』
『そう……だね。ずっと見ていたよ』
マリクが、静かにうなずいた。
『もっとずっと、見ていたかったな……』
マリクの悔恨に満ちた声を聞きながら、ルウファは黙々と進んだ。ルウファにとって先代戦女神ファリア=バルディッシュとは、クルセルク戦争における記憶しかない。とても朗らかで、マリクのいうように天真爛漫かつ自由奔放といった言葉のよく似合うひとだった。彼女が多くのひとびとに慕われ、愛されるのもよくわかる。まさに光そのものといってもいいような人物で、マリクのみならず、多くのリョハン市民がその死を悼み、哀しみ、嘆いたことは想像に難くない。
通路は、狭く長いものの、まったく入り組んでおらず、わかりやすい作りになっていた。子供が迷い込んだとしても、歩き続ければ出口に辿り着けるような、そんな構造。だからこそ先代戦女神も無事だったのだろうし、遊び場としてよく利用していたのではないかと考えられる。それこそ独立以前のファリア=バルディッシュの立場など、どこにでもいる一般人であり、子供らしく遊び回っていてもだれも気にしなかったということもあるだろう。
とはいえ、子供がひとりで隠れて遊ぶには少々危険な気がしないでもないのが、ルウファの抱いた感想だった。
一本道とはいえ、この監視塔に至るまでが住宅街からは遠く、子供の足でここに辿り着くまでにどれほどの時間がかかるというのか。そんな疑問については、マリクが補足してくれた。
『ファリアは、子供時代からよく神隠しにあったんだよ』
「神隠し?」
『彼女は人目を盗むのが上手くてね、ここまでひとりで来ては、一日二日、潜り続けることもあったのさ。それをひとは神隠しといってね、不思議がったんだ』
「だれも不審に想わなかったんですか?」
『ファリアがなにもいわないからね。遊び場を取られるのを嫌がったんだろう』
「子供らしいといえば子供らしいですが」
『ま、おおらかな時代ではあったんだろう。ヴァシュタリアの支配は強烈だったけど、それ以外は極めておおらかで、ゆったりとした時代だったんだ』
「いまのような息苦しさはなかった、と」
『いまが息苦しいかどうかは知らないんだけど、それ、君の実感?』
「まさかあ」
『息苦しいのなら、六大天侍を辞める手もあってよ?』
「ニュウさんまでなにをいいだすのやら。俺はこれでも六大天侍としての誇りも矜持も持ってますからね。その証明にほら、目的の場所に辿り着きましたよ」
ルウファは、話がややこしくならないうちにマリクが示した通りの場所に到達できた事実に心の底から安堵した。その場所とは、地下通路の曲がりくねった道の途中にあった大きな広間のことだ。広間に入れば、向こう側にも通路が続いていて、冷ややかな闇が横たわっている。しかし、目的は、その先の通路にはない。床に複雑な紋様の描かれたこの正方形の広間が監視塔に続く二番目の目印だった。
『さすがは六大天侍一の軽々しさだね』
「なにがですか」
『軽やかな足取りだってことだよ』
「そうは聞こえませんでしたけど」
『受け取り方次第ってね』
「なにがなにやら」
ルウファは、マリクと軽口を叩き合いながら、目印となった紋様に魔晶灯を翳し、目をこらした。紋様は、マリクによって脳裏に投影された通りの形状をしていた。雲の上に築かれた城塞のような紋様であり、一度見れば忘れることもなさそうな複雑な形状をしている。その紋章から広間右手に視線を移せば、大きな金属製の扉がわずかに開いた状態で存在していた。これまでの地下通路の様子とは異なるのは、その扉に使われている金属が、空中都のどこにも見受けられない材質だったからだ。鈍い光沢を発するその金属は、どうにも古錆びた様子はなく、劣化しているようにも見えない。数百年の時を経てもなおまったく変質していないようだった。
「この扉の奥、でしたよね」
『確かにそのはずだ。そこでぼくは見たんだ。ぼくというよりはファリアだけどね』
マリクの言葉に押されるようにして、ルウファは扉に向かった。わずかに開いた扉の隙間に身を滑り込ませるようにして扉の奥に進む。空気が重く、より一層冷え切っているように思えて、彼は身を震わせた。冷気が幾重もの層を作り、壁の如く立ちはだかっている、そんな空気感。ルウファは仕方なくシルフィードフェザーの能力を用い、周囲の冷え切った空気を吹き飛ばした。そして、魔晶灯を掲げる。
「これは……」
『ぼくの記憶は間違いでもなんでもなかったようだね』
マリクの声を聞きながらも、ルウファは茫然とするほかなかった。
目の前に広がっている光景は、方舟の機関室で見た光景と極めて似ていたからだ。
半球型の広い空間に備え付けられた巨大な水晶球と、各所に伸びる無数の配線――。
ルウファは、リョハンが空中都市と呼ばれる真の理由の断片に触れた気がした。