第二百二十七話 迎え撃つ
ガンディア軍がバハンダールを出たという斥候からの報告があったのは、夜の闇が訪れようとした頃合いだった。
斥候が張り付いていたのはバハンダールの湿原の北側であり、遮蔽物のない湿原は見通しもよく、丘の上から大軍が下りてくるのは夕日の中でもはっきりとわかったらしい。即座に報告に戻ってきた優秀な斥候のおかげで、クルードたちは陣容を整えることができた。
扇形陣という防御型の陣形を取っているのは、部隊長らの提案だった。バハンダールを落としたガンディア軍の部隊には、黒き矛のセツナ=カミヤがいるということもあり、部隊長らは消極的になっているようだった。こちらには三人の武装召喚師がいるというのに、だ。とはいえ、軍勢を率いたこともないクルードたちにほかの戦い方も思いつかず、陣形や戦術に関しては部隊長たちの提案に任せていた。
結局、戦うのは自分たちなのだ。
兵士たちは、敵の雑兵を少しでも減らしてくれればいいし、壁や盾になってくれればいい。それだけの役目でもあるだけましだ。彼らの価値などその程度のものでしかない。何百人もの命を投げ捨てて生み出された最高峰の武装召喚師とは、わけが違うのだ。
「まっすぐ向かってきてくれるなんてね」
ミリュウ=リバイエンが嬉しそうにつぶやいたのは、つぎつぎと飛び込んでくる報告に対するものだろう。ガンディア軍は湿原を北上し、そのまま、こちらに向かって進んできているという。ガンディア軍は、この部隊がここに布陣していることに気づいているはずなのだが、迂回して、戦闘を回避するという手段は取らなかったようだ。
ガンディア軍が戦闘を回避した場合、クルードたちには二通りの道があった。バハンダールの奪還に向かうか、ガンディア軍の背を衝くか。どちらにしても、面白そうだというのがミリュウの意見ではあったが、クルードはバハンダールの奪還よりも、ガンディア軍を討つほうがいいと考えていた。バハンダールをたやすく陥落させるような軍勢を野放しにはできない。五方防護陣は突破されるだろうし、龍府への攻撃も許してしまうことになる。そんなことになれば、この国は終わりだろう。
この国は、終わらせてはならない。
クルードは、ミリュウの濡れたような唇を見て、目を逸らした。頭上、月が高い。雲が多かった。そのせいで星の多くは隠れてしまっている。が、戦闘に大きな影響があるものでもない。風は強く、膝辺りまで伸びた草が激しく揺れている。
本陣周囲には、部隊長たちが控えている。天将位を与えられたとはいえ、なんの実績もないクルードたちに従うことに対して、彼らも思うところはあるのだろうが、戦闘を目前にして不平や不満を漏らすものはいない。クルードたちの下であれ、活躍し、戦功を立てさえすれば、評価されるのは間違いないのだ。その点、ミレルバス=ライバーンの実力主義、成果主義は上手く機能しているのだろう。戦果さえ上げれば、一般兵さえ日の目を見る可能性がある。士気は高まり、戦意は上がる。こんな部隊であっても、だ。
「ザインのいってた通り、ってことかしらね」
ミリュウは椅子から立ち上がると、大きく伸びをした。軽装の鎧を着込んだ彼女は、クルードにはいつになく眩しく見えた。夜だというのに、だ。
彼女が髪を赤く染めたときは、驚くとともに残念に思ったものだが、こうして見ているとミリュウの顔立ちには似合っていた。白金色の髪も素敵だったが、いまの髪色の彼女も同じくらいに美しく、クルードは時を止めて永遠に眺めていたいとさえ想うのだ。だが、それは叶わぬ願いだ。彼女は止まらない。立ち止まることを恐れているかのように、走り続けている。
「ザインの……ああ、そうだな」
「まさか、忘れてたの? ザイン、かわいそう」
「忘れてなどいないよ」
クルードは言い返しながら立ち上がった。実際、忘れていたわけではない。ミリュウに見惚れていただけのことなのだ。そして、そんなことをいえるはずもなかった。いえば、関係が壊れるかもしれない。それが恐ろしかった。いまのままでいい。空気のようであっても、彼女の側にいることができればいいのだ。ときには言葉を交わし、笑顔を向けてくれる。それだけで、十分だった。それ以上は望まないと、あの地獄で決めたことだ。
「ほんとに?」
ミリュウが疑わしげな目で見てくるが、クルードは返す言葉も思いつかない。そういうところが駄目なのだろうということはわかっているのだが、努力でどうにかできるものでもないということは、この数年で理解していた。
「どう思う? ザイン」
ミリュウがザインに話を振ったのは、当事者だから、というのもあるのかもしれない。
ザインは、というと、ミリュウの隣の椅子に座って、子犬を抱きかかえている。戦場に犬を連れ込むのはどうかと思うのだが、ザインにはその犬こそが心の支えなのかもしれないと思うと、クルードにはなにもいえなかった。これがほかの兵士や部隊長なら叱責しただろう。
クルードの中で、ミリュウとザインは特別なのだ。
魔龍窟出身というだけの繋がりではない。魔龍窟という地獄を生き延びるために、三人は力を合わせてきた。卑怯などといっていられるような状況ではなかった。なんとしてでも生き残り、陽の光を浴びよう、そう誓い合って今日まで来た。三人揃って地上に出ることができたのは僥倖だった。三人なら、また、力を合わせて生き抜くことができる。そう、クルードは考えている。
「クルードは嘘をつけないよ」
ザインの一言に、クルードは困惑するしかなかった。確かに、彼に対して嘘をついたことはないのだが、ミリュウに対しては、どうだろう。常に本音でぶつかり合ってきたかというと、そうではなかった。本心はひた隠しに隠してきた。それを明かせば嫌われるだろうという前提がある。彼女の烈しい性格を知っているからこその判断は、間違いではないはずだった。
「そうだっけ?」
「どうかな……?」
ミリュウがいたずらっぽく笑ってきたので、クルードも苦笑で返した。
ザインのいっていたことというのは、彼が昼間に、陣地の上空を旋回する天使のようなものを目撃したという話だ。背に一対の翼を持つ人型のそれは、一見すると天使のようだったらしいのだが、ザインいわく、天使ではなく武装召喚師だろうとのことだった。
なんのことはない、ガンディアの武装召喚師が敵情視察にきただけのことだろう。クルードやミリュウが気づかなかったのは、空を見上げていなかったからかもしれないし、ふたりの視力では認識できなかったからかもしれない。ザインは、飛び抜けて目がいいのだ。
敵情視察に武装召喚師を用いたということは、この部隊に攻撃してくるのではないか、というのがザインの考えだった。ミリュウもクルードも彼の考えに賛同したが、敵軍がいつ攻撃してくるかまではわからなかった。まさか、その日の内にバハンダールを出発するとは思いもよらなかったのだ。
しかし、斥候からの報告もあり、準備は万端に整っている。
陣形は完璧に構築され、盾兵や槍兵、弓兵も存分に働けるだろう。もちろん、彼らは戦力に数えていない。この部隊の戦力とは、クルード、ミリュウ、ザインの三人だけだ。
「今夜中に仕掛けてくるかな?」
「どうだろうな。夜戦は武装召喚師の独壇場だが……」
武装召喚師は、夜目が利くという次元ではないくらいに夜の闇をものともしない。無論、召喚武装の性能次第ではあるのだが、ある程度の性能があれば、月光や星明かりの恩恵を最大限に受けることができる。さらに召喚武装の性能が高くなれば、五感だけで戦場を把握することもできるだろう。
「向こうにもふたり以上いるんでしょ? 武装召喚師」
「ああ」
ザインが目撃した天使がガンディア軍の武装召喚師なら、そういうことになる。そこで、クルードは黒き矛がバハンダールに投下されたという話を思い出した。投下されたということは、黒き矛を上空まで運んだものがいるということだ。そして、普通の人間が空を飛べるはずもない。武装召喚師なのは間違いなく、天使がその武装召喚師である可能性は極めて高いといえるだろう。
「こちらに武装召喚師がいると考えていなければ、夜戦に持ち込んでくるかもしれないわね」
「黒き矛は圧倒的な力を持っているという話だ。その可能性も高いな……」
クルードは、胸の前で腕を組んだ。黒き矛がどれほどの力を持っていようとも、三人がかりなら負けることはない。だが、ガンディア軍には天使もいる。そちらにも戦力を割かなければならず、一筋縄ではいかないだろう。もっとも、黒き矛がミリュウとぶつかれば、勝敗は決まったのも同然だろうが。
ミリュウが武装召喚術の呪文を唱え始めている。夜戦の可能性を考慮すれば、妥当な判断だろう。召喚武装によって強化された感覚に頼れば、奇襲による被害を未然に防ぐこともできる。
ザインは立ち上がると、子犬を椅子の上に置いた。彼も呪文の詠唱を始めた。ミリュウに習ったに違いない。クルードも続く。三人による詠唱を、周囲の部隊長たちは奇異なものでも見るような目で見ていた。確かに、一見すると奇妙な儀式に見えたのかもしれない。共通言語とは異なる言葉の羅列だ。歌うように紡がれる不可解な言語の数々を理解しようとも思うまい。クルードが彼らに冷ややかな視線を送ると、彼らは慌てて視線を逸らした。
くだらないものたちだ。こんな連中でも壁にはなる。そう考えることで、クルードは溜飲を下げた。ミリュウは気にもしていないようだし、ザインに至っては他人など視界にさえ入っていないのかもしれない。
「武装召喚」
ミリュウが術式を完成させたことで、クルードたちは、ガンディア軍の接近を知ることになる。