第二千二百七十七話 ダルクスという男
彼は、機関室に残っていた。
ミリュウの身を案じなかったわけではなかったし、ひとり邪険にされたわけでもない。なにも語らず、相互理解を深めようともしないものに対して、彼らは野放図なまでの愚かさで彼を信じ、彼を受け入れてくれている。その事実には、日々呆れるばかりだ。
彼らは、自分が何者なのか、ほとんど理解していないといっていい。
かつての敵対者であることは周知の事実として認識しているのだが、それ以上のことは詳しく知ろうともしなかった。彼が無言を貫いていることが、彼が喋ることのできない人間であるかのように彼らに誤解させ、その誤解を誤解のまま信じ込ませてしまったらしい。言葉を発すればその途端正体がばれてしまうだろう彼にとっては好都合極まりないことだが、その事実が彼に彼らを心配させた。
言葉を発さず、感情を表さず、相互理解を拒み、親睦を深めようともしないものをそう簡単に信じ込んでいいものだろうか。いいわけがない。そんなことはわかりきっている。そんな風に簡単に信じているようでは、いずれ痛い目を見るのは彼らなのだ。
彼は、彼らがそういった悪意あるものに騙されることのないよう、痛い目に遭うことのないよう、見守らなければならなくなった。
ダルクス、と名付けられた。名付け親はミリュウだ。ミリュウ=リバイエン。いや、ミリュウ=リヴァイアか。彼女につけられた名は、古代語から取られている。ダルクスは、闇を意味する古代語で、彼が常に身につけている漆黒の鎧が闇のように黒いから、そう名付けたのだろう。短絡的だが、わかりやすいという意味では、いい名前だろう。彼は、その名を気に入っていた。
ダルクス。
彼女にそう呼ばれる度に心が躍った。ようやく、彼女の力になれる。やっと、彼女のために自分の力を振るえる。命を費やすことができる。無限に尽きることのない命を、彼女のためだけに燃やし続けることができる。
それは、彼にとって歓喜だった。
歓喜以外のなにものでもない。
自分の人生は、いまこのときのためにあるのだ、と、彼は胸を張っていえた。
だからこそ、正体を知られるわけにはいかないのだ。正体を知られれば、彼の本性を知られれば、彼女を失望させることになる。故に彼は沈黙し、言葉を失った人間を演じている。無意識にも彼女の名を呼ばないように制御するのは至難の技だが、いまの自分ならできないわけがなかった。
「ダルクス……といったか」
声に、顔をあげる。
ここは方舟の機関室。機関室の主たる女神マユリが動力機械の上に鎮座し、その神々しいまなざしをこちらに向けていた。淡く発光する女神の姿は、いつ見てもこの世のものとは思えないほどの美しさを誇っている。無論、彼にとってはミリュウ以上とは思えないが、だからといって、女神の価値が下がるわけもない。
「ミリュウの側にいてやらなくてよいのか?」
女神の質問に、彼は、兜の中で渋い顔をした。せざるを得なかった。どうやら女神には、彼の考えなど筒抜けのようだった。ならば、沈黙を通す必要もない。どうせ、女神にはすべてお見通しなのだ。
「彼女の側には、彼がいてくれているのです。わたしの出る幕はない」
言葉にするのには、多少の苦痛を伴う事実だった。彼女の側にいて、彼女を支えるのは自分ではないという事実は、この世界において極めて絶対的な事実であり、覆しようのないものだった。彼女の愛は、最初から彼には向けられていなかった。彼に向けられたのは、同士としての感情だけであり、いわば友情以上のものはなかったといっていい。彼もそれ以上を求めようとは想わなかったし、それでいいとさえ想っていた。
そして、言葉を発するのは、しばらくぶりだった。最終戦争によって彼の最期の地と定めた村が滅ぼされ、“大破壊”によってなにもかもが変わり果ててからというもの、彼は、少女の幻影に支配され、廃墟の守護者と成り果てていた。ミレイユという名の、純粋無垢という言葉そのものの少女は、ミリュウたちがいう神人に成り果て、彼を支配していたのだ。その支配から脱却できたのは、ミリュウのおかげであり、彼女との再会は運命以外のなにものでもなかったのだと、彼は信じた。
そうして、いま、彼はここにいる。
「……そうか。だが、おまえ自身はそうは想ってはいまい?」
「わたし自身がどう想っていようと、関係のない話だ」
彼は、女神の目を見つめながら、言い返した。女神には、隠し事はできない。嘘は見透かされ、曖昧な返答も真実を見抜かれる。ダルクスの正体までも見破られている可能性が高い。クルード=ファブルネイアという無残な男の人生のすべてを見透かしているのではないか。そんな気がして、彼は目を細めた。
「そういうものか。わたしには人間の機微はわからぬでな。差し出がましいことをいった」
「そのわりには、わたしの正体を皆には告げていないようだが」
「おまえがそれを望むのであれば話は別だが、そうではないだろう?」
「……それで、いいのか?」
彼は、マユリ神の発言に耳を疑った。この船の守護神たる女神がそのような有様でいいのだろうか、と想わざるを得ない。しかし女神は悠然と言い放ってくるのだ。
「わたしは希望を司る女神だよ、ダルクス」
「わたしの希望も、叶えてくれるというのか……?」
「ああ。わたしは、この船に乗るすべてのものに希望を与えよう。それがわたしの存在意義、存在理由なのだからな」
「まったく……慈悲深いことだ」
皮肉ではなく、本心から彼はそういった。その慈悲深さに甘えざるをえない事実とともに、女神が本物の神様であり、信仰するにたる偉大さを持った存在であると理解する。
「慈悲とは違う。これがわたしの役割だから、そうするだけのことだよ、ダルクス。それに、おまえの正体を明かして、友の心を傷つけたくないというのもある。おまえの正体が知れ渡れば、この船の中に不協和音が生まれるやもしれぬ。それも、不要なことだ」
「わたしが害意をまき散らすとは想わないのか?」
「そんな考えを持っていれば、おまえをこの船に受け入れはしなかったよ。たとえミリュウがなんといおうと、セツナがなんといおうとな」
女神が微笑む。それは即ち、彼の心の中にそういった悪意が一切存在しないことを見切ったという証だろう。だからこそ、彼をこの船に乗せていられる。
「わたしは女神。希望を司る女神マユリ。おまえがなにを考え、なにを願い、なにを望み、なにを祈っているのか、すべて把握済みだ。だからこそ、おまえをこの船に乗せることも、おまえがミリュウの側にいることも許している。おまえがダルクスという仮初めの名を語り続けることもな」
「……なるほど。すべて、お見通しというわけだ」
ダルクスが危惧した通りだ。女神には、どうやら隠し事は通用しない。同時に安堵もする。女神が話のわかる相手でよかった、と、彼は心底思った。これがもし、融通の利かない相手ならば、ダルクスの正体を白日の下に曝し、ミリュウの前にクルード=ファブルネイアとしての自分を曝け出さなければならなくなっただろう。そうなれば、彼は、自分を維持することができたのかどうか。
死んだはずのクルードが生きていて、それが黒い戦士としてオリアン=リバイエンの片腕であり、オリアンの死とともに消息を絶ったことの真実までも明かされれば、彼は立つ瀬がなくなる。オリアンを殺したのは、クルードなのだ。ミリュウが殺そうとして殺せなかった、愛憎入り交じる実の父親の命脈を絶った事実は、彼女にどれほどの衝撃と苦痛を与えることか。想像するだけで、心が震えた。
「わたしは、彼女が、ミリュウが傷つくことだけが恐ろしい。彼女には幸せになってもらいたいのだ。彼女には、そうなる権利がある」
「それは、おまえも同じだと想うが」
「わたしは駄目だ。わたしは、彼女の父親の命を奪ってしまった。もう、わたしには幸福になる権利などはないのだ」
「……おまえがそう想うのであれば、なにもいわぬ。それがおまえの希望なのだろう」
「……感謝する。希望の女神よ」
ダルクスは、心の底からマユリ神に感謝した。マユリ神の温情があればこそ、彼はここにいられるのだ。ここにいて、ミリュウの力になることができる。それが贖罪になる、などとは想わない。彼女の父を奪った罪は、この程度のことで帳消しになるようなことではない。いや、帳消しになどなるまい。
だからこそ、彼は窺っている。
いつか、この罪を贖うときがくることを待ち望み続けているのだ。




