第二千二百七十六話 ミリュウの中の小さな怪物
静寂がある。
方舟は、その巨体を空に浮かべるのに大きな音を立てなかった。方舟が空を飛ぶ原理というのは、セツナにはいまいちわかっていない。神の力である神威を動力に変換し、その動力によって船を浮かせ、飛ばしているということは知っているのだが、その原理となると話は別だ。神威を元とする動力をどう使えばこれほどまでに巨大な質量を空に飛ばすことができるのか。それも、その最高速度たるや凄まじいものであり、攻撃手段も有している。未知の技術によって作られているというのは間違いあるまい。
そしてなにより、方舟内は基本的に静かだった。大気を切り裂くようにして大空を飛んでいるものの、分厚い金属の板に護られた船内は防音対策も万全といってよく、隣り合った部屋の音が漏れ聞こえてくるようなことさえなかった。たとえば廊下を大声で走り回っても、寝ているものを起こしてしまうようなこともない。
極めて静かで、故に彼女にとっては辛い空間なのではないか。
セツナは、ミリュウに膝枕をしてやりながら、彼女の精神状態を心配していた。いや、精神的なことだけではない。肉体的な消耗についても、不安が残っている。ミリュウは、リヴァイアの“知”を受け継いだ影響を常に受けていたのだ。そのことをいまさらのように思い出したのは、もちろん、彼女がレヴィアの記憶でもってこの世界の成り立ちについての解説を始めたからだ。
世界の成り立ち。
このイルス・ヴァレの真実とでもいうべき重大な事実を知ったことがセツナたちの方針に影響を及ぼすことは、少ない。やることに変わりがないからだ。しかし、心配事は増大した。ミリュウの心身に関しては、セツナだけでなく、ファリアたちも皆、心の底から案じている。だからこそ、こうしてミリュウにセツナとのふたりきりの時間を設けさせたのだろう。
ふたりがいるのは、ミリュウの自室だ。
ひとりでは眠ることもできないミリュウのために、彼はここにいた。普段は、エリナかファリアがその役割を果たすのだが、今日だけは彼がその役目を果たさなければならない。長く閉ざされていた記憶、その膨大な情報量の処理は、ミリュウの心身に多大な負担をかけている。彼女の憔悴しきった目を見れば明らかだった。マユリ神が彼女に休養を命じるのも当たり前といえば、当たり前かもしれない。マユリ神はミリュウを友といった。友の身を案ずるのは、神であれ当然のことである、と。
ミリュウは、そんなマユリ神の言葉に感激していたようだった。ミリュウ本人だけではない。あの場にいただれもが女神のいたわりに感動しただろう。セツナだってそうだ。だからこそ、ミリュウがゆっくりと、思い切り休めるようにしてあげたかった。
「ちょっと、悪いかな」
「なにが?」
「なんだかみんなに気を遣わせちゃったみたいでさ」
「気にすることなんてないさ。困ったときはお互い様。助け合うのが、俺たちだろう?」
「……うん。そうね。そうだよね。あたしたちは、ただの仲間なんかじゃあないんだもんね」
ミリュウは、少しばかり安心したように微笑んだ。彼女のいうとおりだ。ただの仲間などではない。何度となく死地を潜り抜けてきた間柄なのだ。命を預け合うことのできる、かけがえのない関係なのだ。生半可な絆ではない。そのことは、こうして皆が彼女を労り、気遣う様子からも窺い知れる。だれひとりとして、ミリュウのことを邪険に思ってなどいないのだ。
穏やかなときが流れていく。
セツナとミリュウ、ふたりきりの時間。室内に音はなく、ゆえに彼女は、無音を恐れるようにして口を開く。セツナは、そんな彼女の言葉をただ聞き続けている。
「……声がね、するのよ。頭の中で、いくつもの声が、無数に重なり合って、無限に響き合うの。それはレヴィアから受け継がれてきたいくつもの記憶が生み出す声なのよね。遠い過去からの残響なのよ」
「うん」
セツナは、小さくうなずきながら、ミリュウの横顔を見下ろしていた。彼女が自分の色だと主張して止まない紅に染め上げた髪を優しく撫でて、彼女の頭の中の雑音を少しでも消してやる。太ももの血管を流れる血の音も、筋肉のわずかな音も、多少なりとも彼女には救いとなっているのだろう。ミリュウは、少しずつ穏やかさを取り戻しつつあるようだった。
「それが日に日に大きくなっていっているわ。前にも話した通りにね。あたしが受け継いだ知識が、眠っていたリヴァイアの記憶が、次第に目覚めつつあるのよ。ううん、もうほとんどが解き離れていて、すべてが覚醒するのも時間の問題なのよね」
「……それが、さっきの話に繋がるわけだ」
「うん。レヴィアの記憶が覚醒したから、この世界の隠されていた真実に触れることができたのよ。別に知らなくても問題のない真実だったかもしれないけどさ」
「そんなことはないさ」
「そう? そうかな」
「そうだよ」
「だったら、いいけど……」
ミリュウが自信なさげにいって、セツナの手に触れた。ミリュウの頭を撫でているほうの手とは反対の、所在なげに投げ出された左手を握りしめてくる。
「うん、それなら、いいのよ。セツナ」
「どうした?」
ミリュウに漠然とした不安を感じたのは、彼女がいつになく力なくつぶやいたからだ。常ならば元気いっぱい、力一杯の彼女が、今日はやけにおとなしい。それは彼女が憔悴しきっているからなのだから、どうしようもない。ミリュウは、横を向いたまま、言葉を探すように口を開く。
「……いったわよね。“知”の解放が進めば、あたしはあたしでいられなくなるって。これまでの継承者のように情報の洪水に溺れて自分を見失い、ただの怪物に変わり果てるって」
「ああ」
「そのときが迫っているわ」
「だからなんだよ」
セツナは、彼女がなにをいいたいか察したものの、その言葉を口にするのが嫌で、声を荒げた。ミリュウが顔をこちらに向ける。凜としたまなざしがセツナに突き刺さる。
「殺してよ」
「はっ」
セツナは思わずのけぞりかけたが、ミリュウを膝枕に乗せていることもあって、あまり大きく動けず、留まらざるを得なかった。
「ふざけるなよ」
セツナが思い切って告げると、ミリュウが上体を起こしてこちらに向き直ってきた。真っ赤な髪を振り乱すようにして、言い返してくる。
「ふざけてなんかないわよ。ふざけてるのはそっちでしょ。何度もいったわよね。あたしは、化け物になってセツナを傷つけるような、セツナに嫌われるような醜態を曝したくないって。だから、そうなる前に殺して欲しいって。何度も、何度もさ」
「いったよ。聞いたよ。でもだからって、俺が受け入れると思ってんのかよ。俺がおまえを殺すって? そんな馬鹿げた話、ありえるわけねえだろ」
「……セツナ」
ミリュウは、セツナを抱きしめると、その勢いのまま寝台に倒れ込んだ。セツナは、自然、押し倒された格好になる。無機的な船室の天井を飾る花柄模様が紅く燃えているように見えた。
「嬉しい。嬉しいよ。そういってくれるのは。そうまでして想ってくれているのは、本当に嬉しいとしかいえないよ。でも、だめなの。だめなのよ。このままじゃ、あたし、本当の怪物になってしまうわ。見えるのよ。記憶の中に、あたしの成れの果てがいるのよ。レヴィアがそうだったように、その後継者たちがそうだったように、あたしも――」
「ミリュウ……」
「お願いよ、セツナ。あたしを、人間のままのあたしを殺してよ」
「嫌だ」
「セツナ!」
「嫌だね」
セツナは、ミリュウが睨み付けてくるのを認めつつも、そう言い返すしかなかった。
「俺は、おまえを殺さない。おまえを殺してそれでなんになる。おまえは満足か? それで幸せか? それで、後悔はないなんていうのか?」
「ええ、そうよ。少なくとも、化け物に変わり果てて、だれもかれもを傷つけて、忌み嫌われながら殺されるよりは、ずっといいわ。だって、あなたのことを好きなまま、あなたに愛されるまま、死ねるんだもの。これ以上の幸福なんてないわ」
「それが本音かよ」
セツナは、ミリュウの両肩を掴むと、彼女を引きはがしながら叫んだ。
「ちげえだろ! おまえは、俺と一緒にいたいんじゃないのかよ」
「いたいよ! いたいに決まってるじゃない! ずっと側にいて、あなたのことを見守っていたいよ。あなたと一緒に暮らしたいよ。なにもかも全部が終わってさ、戦いもなにも忘れて、幸せな日々を過ごしたいよ……!」
ミリュウの両目から大粒の涙がこぼれ落ち、セツナの顔面をぬらした。彼女の悲痛な叫びが痛いほどに突き刺さる。
「でも、無理なのよ……」
「無理かどうかはおまえが決めることじゃない。俺が決めることだ」
「なっ……」
唖然とするミリュウに向かって、セツナは一方的に続けた。
「俺は世界一欲深なんでな、幸せにすると決めた以上、おまえのことは絶対に幸せにしてやる。おまえがなんといおうと、どれだけ死を望もうと、俺はそんな不幸な結末、絶対に認めない」
「なにを……いってるのよ。方法はあるの? あたしを怪物にしない手段もなにもないくせに、勝手なこといわないでよ……希望を与えないで……」
「いまはないさ。思いつきもしねえ。でもさ、絶対にないとは言い切れないだろ? 探し回れば見つかるかもしれない。いや、きっと見つかる。そうに決まってる」
「なんでそんなに自信満々なのよ……」
「そりゃあ、おまえが俺を信じてくれているからな」
セツナは、それこそ自信満々に告げた。すると、ミリュウは、惚けたような顔をしたのち、思い切り冷ややかなまなざしを送ってきた。
「……馬鹿なの?」
「ああ、馬鹿だよ、俺は。だから、どこまでだって突き進めるのさ」
「まったくもう……これだから放っておけないのよねー……」
呆れ果てたような、それでいてどこか満足げなミリュウのつぶやきがなにを意味するのかは考えず、セツナは、ただただうなずいた。
一先ずは、これでいいのだ。
問題を先送りにしただけだが、まだ彼女は発狂してなどいなければその兆候も見えない。彼女の頭の中では大変な状況なのかもしれないし、耐え難い苦痛の中にいるのかもしれない。しかし、だからといって命を絶って、それで救われる、だなどと想いたくもなかった。死んだほうが増しなことだってあるだろう。それは、わかる。でも、それでミリュウを殺したくなんてなかった。
それこそ、自分で自分を否定するようなものだ。
セツナは、彼女を含め、皆を幸せにしてみせると約束したのだ。
それがどんなに困難なことであれ、諦める理由はない。