第二千二百七十話 世界の記憶
セツナたちを乗せた方舟がログナー島エンジュールを飛び立って、既に二日が経過した。
方舟内での生活には、既に慣れたものであり、だれもが不満ひとつ漏らさずに過ごしている。空の旅を満喫しているものさえいる。
セツナの方舟生活というのは、特にこれといって決まったことはない。開いている時間の大半を鍛錬に費やすという以外は、ミリュウやレムの我が儘を聞くというくらいのものであり、特にこれといってなにかがあるわけではなかった。とはいえ、方舟での日常というのは、極めて気楽なものであり、その点ではセツナもなんの不満もなかった。
なぜならば、気を使う必要がないからだ。船に乗っているのは見知った顔ばかりであり、気兼ねなくくつろぐことができたし、自分の時間を持つこともできる。考え事に没頭することだってできた。地上では、そうはいかない。地上にいるということは、なにかしら問題に首を突っ込んでいるということでもあるからだ。そういう状況下で自分の時間を持つことは難しい。
セツナが自分の時間で考えるのは、やはり、ザルワーン、ログナーの両戦場に現れた黒装束の連中のことだ。獅徒ミズトリスとウェゼルニルを確保し、戦場から離脱したということはどう考えてもネア・ガンディアの連中なのは間違いない。ミズトリスも知っているようだったのだ。その点は、疑いようもないが、どういった連中なのかがよくわからない。
女と少女、それと男。いずれも黒ずくめだった。黒髪に黒装束、黒い帯で目元を隠しているのが特徴といえば特徴だった。同じ格好ということは、同じ組織に所属しているということだろう。同じ部隊というべきか。ネア・ガンディアという組織の中の、獅徒とは異なる部隊。
そこまでは推察できる。
わからないのは、彼女たちが口にした言葉だ。
(お兄様……だと)
セツナは、自室の寝台で仰向けに寝転がりながら、あのときのことを思い出していた。ミズトリスに止めを刺そうとしたときに現れた黒衣の女。ついで、ウェゼルニルを斃そうとしたときに現れた二名。いずれも、セツナを兄と呼んだ。
意味がわからない。
理解ができない。
(兄? 俺がか?)
セツナに妹などいない。弟もだ。だが、ほかのだれかをそう呼んだわけではないのは、状況からも明らかだ。ではやはり、セツナをそう呼んだということにほかならないのだが、だからこそ解せない。まったく納得できない。兄妹などいない。一人っ子で、だからこそ、母は自分を育てることに集中できたのだ。兄妹がいれば、生活もままならなかったのではないか。
母ひとり、子ひとりだった。
父を幼くして失ったからだ。
では、いったいどういう意味があるのか。
なんらかの意図を持って、そういう発言をしたのではないかと、としか考えられない。
たとえば、いま、セツナが煩悶しているように、セツナの思考を乱すためだけにそのような言動を繰り返しているだけのことではないか。兄妹であると認識させる言葉がセツナを多少なりとも混乱させたのは、間違いない。実際、その言葉のせいで、セツナはミズトリスを滅ぼせなかった。もし、あの女がただ現れただけならば、セツナは問答無用でミズトリスを滅ぼしていただろう。ウェゼルニルに関しても同じことがいえる。
しかし、それが効果的なのは一度きりだ。今後、同じように現れたとしても、敵とわかっている以上、手加減する必要はない。
セツナに兄妹はいないのだ。たとえ兄だのなんだのと親しみを込めていってきたところで、立ちはだかるなら滅ぼすだけのことだ。
それは、決まっている。
セツナが問題にしているのは、なぜ、兄などと呼んできたか、だけのことだ。
それがセツナの心を惑わせるためだけのものである可能性が高い以上、考えるまでもないのかもしれないが。
《セツナよ。起きているか?》
不意に脳内に聞こえたのは、優しげな女神の聲だった。神の聲は頭の中に直接響くため、頭痛を覚えることもないではないのだが、マユリ神はその点を考慮し、極めて柔らかな聲を発するようにしてくれていた。そういう気遣いもできるのが、マユリ神なのだ。
「ああ? なにかあったのか?」
《ミリュウが話があるそうだ。至急、機関室まで集合せよ、とのことだ》
「ミリュウが?」
セツナはすぐさま寝台から跳ね起きると、上着を羽織り、部屋を出た。時刻は午後四時。皆、それぞれ自分の時間を満喫している頃合いだった。ミリュウもその一環として、マユリとの親睦を深めるべく、機関室にいたのだろうが。
(なにがあった?)
ミリュウの身になにか異変があったのではないか。
セツナは多少の不安を抱えたまま、シーラやファリアと合流しながら機関室に向かった。どうやら、全員が全員、ミリュウに呼びつけられたようだ。
機関室には、乗船員全員が呼び集められた。
自室で寝転んでいたセツナや読書をしていたファリア、鍛錬に励んでいたシーラはともかくとして、食材の仕込みをしていたゲインや、厩舎で馬の面倒を見ていたミレーユの手を止めてまで呼び出すなど余程のことだろう。エリナ、レム、ダルクスも当然、呼び集められている。
マユリ神はいつもの水晶体の上に鎮座し、その下にミリュウが腕組みして待ち構えていた。彼女はなにやら真剣な表情で機関室の上部を見やっていて、セツナがそちらを見ると、映写光幕が展開していた。映写光幕に映し出されているのは船外の光景でも、世界図でもなかった。いや、確かに世界図ではないのだが、世界図のようでもあるのだから、奇妙だった。広大な海といくつかの大陸、無数の島々といった、現状の世界にも似た光景が描き出されているのだが、記憶にある世界図とは大きく異なる配置だった。
「突然の呼び出しに応じてくれてありがとね。みんな、愛してるわ」
「わたしもです、師匠!」
「うふふ」
麗しい師弟愛を見せつけられるのも慣れたことだが、ミリュウのいつにない言動にセツナは奇異なものを感じずにはいられなかった。ミリュウは、感情表現が豊かで、特に愛憎の深い人物ではあるが、だからといって皆に向かってあのような発言をするのは極めて稀だった。セツナやエリナに対してならばよくあることだが。
「それで、なんなの? いったい」
「あの地図が、なにか問題なのか?」
「さっきから気になってたんだけどよ、あの地図はなんなんだ? この間見せてもらった世界図とは違うじゃねえか」
「確かに変でございますね。いま向かっているのはどこでございましょう?」
レムがきょとんとしたの無理はない。方舟が向かっているはずの帝国本土がいずこにも見当たらないからだ。四つに分かたれた帝国領土の原型さえも、映写光幕に映し出された地図にはなかった。大陸図ですらない。
「そこにはないわよ。西ザイオン帝国の領土なんてね」
ミリュウが、冷ややかに告げた。
「そこに映し出されているのは、いまじゃないもの」
「いまではない、とは、どういうことでございます?」
「過去」
「……過去?」
「ちょっと待てよ。おかしいだろ、それ」
「そうだぞ。過去ってことは、大陸が映し出されるはずだろ」
世界は元々、ひとつの大陸だった。ワーグラーン大陸というたったひとつの大陸。それがこの世界のすべてだったはずだ。それは、だれもが知っている事実であり、揺るぎようのないものだとだれもが信じていた。だが、ミリュウはいうのだ。
「それも、過去。でも、これも過去なのよ」
「はあ?」
セツナは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「世界がひとつになる前の過去の記憶なのよ、これは」
ミリュウは、静かに、しかし確実に聞こえるような声で語り出した。