第二千二百六十九話 図書館迷宮(二)
巨大な螺旋階段は、その大きさに見合うだけの高低差があり、階下に辿り着くまで数時間あまりを要した。
その間、マリアはアズマリアが安全確認した後をついていくだけではあったものの、アマラを背負いっぱなしということもあり、途中で休憩を挟まなければならないくらいには疲労を覚えた。朝から歩き続けていたということも大きいが、当てのない、終わりの見えない道を歩き続けるというのは精神的に参るものだ。その上、螺旋階段から見える風景というのは代わり映えがしなかった。書棚を積み重ねて作り上げられた円筒状の空間のただ中を降りている、そんな感じがある。つまり、螺旋階段の外縁部の壁代わりに書棚が立ち並んでいるのであり、書棚には無数の書物が納められていた。
休憩中、書棚の書物を手にとって覗き見たが、医療の役に立つような書物は見当たらなかった。内容そのものは理解できる。大陸共通語ではなかったが、古代神聖文字(古代語)が使用されているからだ。図書館一階で見た書物はすべて古代語で記されていたこともあり、ほかの書物もそうなのだろうと考えていたのだが、どうやら当たっているようだ。もし、白化症の治療のための手がかりが記されている書物があったとしても、マリアに理解のできない文字で記されていた場合お手上げだったが、そういうことはなさそうだった。
古代文字は、医療の世界においても利用されることが多い。世界最古の医術書と呼ばれる《賢者の杖》は、古代語で記されたものであり、医師を志すものはまず《賢者の杖》を読み解くことから始めるのだ。もちろん、現代において《賢者の杖》の共通語訳などあふれかえるほどに出回っているため、若い医師などは古代語から学ぶなどというまどろっこしいことはしないようだが。
幸いにも、マリアはそうではなかった。古代語に慣れ親しんだおかげで、古代語で記された医術書を調べることは造作もなく、ファリアたち武装召喚師の会話に混ざることも難しくなかった。後者は、ガンディア時代におけるマリアの生活には、重要極まりない事項といっていいだろう。ファリアたちとの触れあいは、マリアの人生を華やかなものにした。
螺旋階段の内側、つまり円筒状の空間の中心部を貫くのは、なにもない空間であり、階段の端に立って下を覗き込めば、遙か階下まで続く階段を覗き見ることができたらしいが、マリアは覗き込まなかった。
『賢明な判断だ』
とは、アズマリアの言葉だ。彼女曰く、覗き込み、螺旋階段がどこまでも続いていることを確認したことは失敗だった、とのことだ。魔人でも頭を抱えたくなるようなことがあるのかと驚くと同時に、彼女に促されるまま覗き込まなかったのは大正解だと想ったものだ。実際、その地点から数時間もの間降り続けることになったのだから、あのとき覗き込んでいればどれくらい絶望感を味わったものか。
階段自体はなだらかな坂道を歩くようなものであり、決して足腰に負担のかかるような作りにはなっていないのだが、それにしても、限度はある。あまりの先の見えなさにアマラが寝てしまうほどだった。背負われて感じる揺れが、眠りを誘ったのもあるだろうが。
ようやく階段を降りきれば、広い通路が待ち受けていた。磨き抜かれたように輝く石畳の床が足下に流れれば、書棚の壁が両側に立ち並び、天井には幻想的な集合灯が飾られている。集合灯は魔晶灯とは異なる原理で淡い光を発し、この広大な地下通路を照らしている。空気は冷え切っていて、着込んでいなければ寒くて立ってもいられないだろう。
「階段の長大さから想像できたことだが、ここはとてつもなく広大なようだ」
アズマリアがいまさらのように、そしてうんざりしたようにいった。この一月余り、迷宮染みた図書館を彷徨い続けているのだ。冷酷無比な魔人も呆れ果てる以外にはないのかもしれない。
「迷宮の時点でわかってたことだろ」
「しかし、ここまで地下深いとは考えもしなかった」
「まあ、そこは否定しないよ」
「なんじゃ……もう着いたのか?」
瞼をこすりながら、だろう。アマラがぼんやりと尋ねてきた。
「まだだよ。疲れてるなら寝てていいよ」
「な、なにをいうか! うちは疲れてなどおらんぞ!」
いうが早いかマリアの背中から飛び降りたアマラは、勢いよく飛び出し、アズマリアの脇を通り抜けようとしたが、魔人が伸ばした手によって容易く捕まえられた。いかにすばしっこいアマラであっても、魔人の身体能力に敵うわけもないのだ。
「なにをするのじゃ!」
「またマリアに迷惑をかけるつもりか?」
「迷惑はかけぬぞ! 今度こそ役に立つのじゃ!」
「それが迷惑だといっているんだ」
「なんじゃと!」
アマラがアズマリアに噛みつく様は、マリアにはなんとも愛おしく想えるのだから、困りものだ。アマラのやることなすこと、マリアには可憐に見えてならない。それは、アマラが純粋だからだろう。純粋に、マリアの力になろうとしてくれている。悪意はなく、善意しかない。その結果、自分が窮地に立たされようと、マリアはアマラを悪くは思えなかった。それはそうだろう。アマラは、いわばマリアの半身のようなものだ。アマラがいるからこそ、いまのマリアがいるといっても過言ではない。
しかし、そういった純粋さが気に食わないものもいるだろう。たとえば、なによりも目的の達成を優先するらしいアズマリアのような性格の持ち主がそうだ。人形の冷ややかなまなざしには、怒りさえ浮かんでいるようだった。
「おまえの健気さがなんどマリアを窮地に陥れた?」
「む……」
「おまえがどうなろうと知ったことではないがな。マリアにもしものことがあれば、セツナに申し訳が立たないのだよ」
アズマリアのその言葉が、彼女の現在の立ち位置を示していて、マリアはなんだかほっとする気分だった。この長い冒険が始まる前もいっていたことではあるのだが、アズマリアは、セツナのことを特別視しているのだ。セツナに嫌われるようなことはしない、と暗にいっているようものであり、だからこそマリアも彼女に気を許しているといってもいい。とはいえ、それであれば、彼女がアマラを無碍に扱うのも問題があるということを教えなければ、彼女に悪い。意図せぬところでセツナに嫌われるのは、彼女としても辛いだろう。
「それをいうなら、アマラにもしものことがあっても、だよ。アマラのことも、あのひとはよく知ってるからね」
「……知っているだけだろう。大した関わりもあるまい」
「でも、あのひとは、あたしが想った以上の対応をするだろうね。そうは想えないかい?」
確かに、彼女のいう通りではある。セツナとアマラの関係は極めて浅いものだ。まだ、アマラと院内を回ったレムのほうが仲の良さでは上といっていい。しかし、セツナは、付き合いの浅さ深さ、短さ長さで判断するようなところはなかった。多少でも接点を持てば、そのひとのことを考えてしまうところがあるのだ。
「きっと、あんたのことだってそうさ」
「なんだと?」
「あんたにもしものことがあれば、あのひとはきっと悲しむ。そういう心根の持ち主なんだよ、あのひとはさ」
「……まったく、彼のお人好しには困ったものだ」
とはいいながらも、アマラを優しく手放したアズマリアの口元は、どこか笑っているように見えなくもなかった。人形めいた彼女の顔に表情などあるはずもないのだが。アズマリアから解放されたアマラはそそくさとマリアの元に戻ってくると、手を握ってくる。先行するのは諦めたのだろう。その代わり、マリアと一緒に行くと主張しているのかもしれない。また、アズマリアにいわれたことも一応は気にしているのだろう。マリアの側を離れないことで、マリアが危険に遭わないようにしてくれている。
そういう可愛げがあるから、マリアはアマラが好きで溜まらないのだ。
アズマリアの先導で広い通路を進んでいくと、やがて大きな扉が見えてきた。扉というよりは、巨大な本が二冊、通路の突き当たりに聳えているという感じだ。行き止まりではないと思ったのは、ほかの壁と様子が違うからだ。ほかの壁は、書棚でできているのだが、突き当たりには書棚と同程度の大きさの本が立ちはだかっていて、奇妙だからだ。
「行き止まりかの?」
「ここまできて行き止まりはないだろう。あれらの書物のための階段だというのなら返す言葉もないがな」
アズマリアが見やったのは、通路の両側に立ち並ぶ無数の書棚のことであり、書棚に並ぶ書物のことだ。数え切れないほどの書物は、あの数時間もかけて上り下りしなければならない螺旋階段を利用しなければ手にとって読むこともできないのだから、それら書物がこの地下空間の宝物だとしても不思議ではないかもしれない。とはいえ、見た限りではマリアたちが求める書物はなく、それら書物のための地下空間であれば、今度は上層を目指さなければならなくなり、それだけでもまた膨大な時間を要することは明白だ。
マリアは、なにもいわなかったが、アズマリアの意見が正しいことを祈った。
アズマリアは、周囲を警戒しながら本の壁に歩み寄ると、ちょうど二冊の本が接触している場所に立った。そのまま、本と本の間に手を伸ばし、片方の表紙を掴む。そして強引に引っ張ると、あっさりと本が開き、表紙はそのまま壁際まで流れていった。無数の頁が表紙に引っ張られるようにして捲られていき、アズマリアの紙が風圧に揺れた。
「おお、開いた!」
「よかった。行き止まりじゃなくて」
「ああ、これで先に行けそうだ」
アズマリアは、もう片方の本の表紙を同じように開くと、本もまた、同じように動いた。表紙が壁際まで移動するとともに頁が捲れていき、アズマリアの顔が風圧に嬲られる。残るは裏表紙だけだが、それに関しても、アズマリアが軽く押すだけで開いた。本の扉の奥にさらに広大な空間が待っていることがわかる。
それも、これまでの本だらけの空間とは根本的に異なる雰囲気であり、見たこともないような光景の異質さに、マリアは思わずアマラの手を強く握った。アマラが握り返してくれたおかげで、安心する。見れば、アマラも緊張を覚えているようだった。
アズマリアも多少警戒しながら、その空間の中に足を踏み入れていく。アズマリアが安全を確認するのを待ってから、後に続く。空間内に足を踏み入れれば、そこは全体的に金属質なもの覆われた空間だということがわかる。広大な半球型の空間で、中心から外側に向かって同心円状に金属製の机が並んでいるようだ。中心には、円形の台座のようなものがあり、その台座の上に浮かぶものにマリアは気を取られた。
淡く発光する球状の物体。青く発光している部分もあれば、それ以外の多様な光を発する部分もある。緩やかに回転しながら、まるでこの空間内を照らしているように見えなくもない。しかし、それがこの空間の照明ではないことは、室内全体が明るいことからも明らかだ。この金属質の室内は、どこもかしこも光があり、それらの光が照明代わりになっているようなのだ。机も床も天井も、それらを覆う金属の表面に流れる光が室内を照らしていた。
マリアは、室内そのものの奇異な光景も気になったものの、まず真っ先に疑問に思ったことを口にした。中心に浮かぶ球体のことだ。
「これは……いったいなんだい?」
「ぼうえいきのう、というやつかのう?」
アマラがいった防衛機能とは、度々現れた守護者に対するアズマリアのつけた呼称だった。古代図書館の防衛機能が守護者をけしかけてきている、とアズマリアは断じていた。その防衛機能を停止させない限り、守護者は何度でも襲ってくる、と。しかし、防衛機能を停止させる方法は不明であり、こればかりは仕方のないことだとも彼女はいっていた。
「いや……これは――」
アズマリアは、立ち並ぶ机と机の間の通路を通過し、中央に向かった。マリアもそれに続く。
彼女は、淡く発光する球体に触れるほどの距離で覗き込むと、うなるようにいった。
「なるほど。そうか。確かにそうだ。ここは古代図書館。統一以前に封印された記憶の場所。統一以前の世界の記憶が眠っていて然るべきではあるな」
「なんだい? なにか、思い当たることでもあるのかい?」
「そうじゃそうじゃ。もったいぶらずに教えよ。セツナもそう思っておるぞ」
「セツナの名前を出せばどうにかなると思うな、痴れ者め」
「だれが痴れ者じゃ!」
アマラが食ってかかるのをアズマリアは黙殺し、マリアに目を向けてきた。
「……これは、世界図だ」
「世界図……? これが……?」
マリアは、アズマリアの説明に驚くよりほかなかった。世界図ということはつまり、イルス・ヴァレの姿を示しているということだろう。だとすれば、球体の大半を覆う青い部分が海で、それ以外に点在する部分は島や大陸ということにほかならない。“大破壊”によって世界はばらばらになったという話は聞いていたし、ベノア島のような例も知っているマリアにとっては、受け入れられる姿形ではある。しかし、疑問に思うこともある。
「これが現在のイルス・ヴァレだってのかい?」
「そうではないさ。ここは古代図書館。記録されているのは、ここが封印される前の情報に過ぎない」
アズマリアの回答は、マリアの疑問を解消するとともに新たな疑問を覚えさせるものだった。
「いまより五百年以上の昔、聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンによって統一される以前、いくつかの大陸と無数の島々によって成り立っていた世界が、ひとつの大陸になる前の記憶なんだよ」
アズマリアの説明に、マリアは、言葉を失うほどの衝撃を受けた。