第二千二百六十四話 今度こそ、帝国へ
セツナたちがメキドサールを出ると、辺りは夜の暗闇に包まれていた。
森の真っ只中とはいえエンジュールまでの道のりは決して遠くはなく、一時間も歩けば温泉郷に辿り着いた。結局メキドサールで一日を過ごすこととなったため、その疲れを温泉宿で癒やすはめになったものの、ミリュウたちの喜びぶりを見れば、予定に多少の狂いが生じたこともどうでもよくなっていた。
元々、帝国本土へは船で海を越えて向かうはずだったのだ。空を行く方舟ならば、海を行く船よりも圧倒的に早く辿り着けるという利点がある。多少の予定変更も、大した問題にはならない。
温泉に泊まるとなれば、ミレーユとゲインを船から呼び戻してあげるべきだという話になり、そのためにセツナが酷使されたのはいうまでもない。飛行能力を持つ召喚武装を持つのは、この中ではセツナただひとりだ。ミリュウのラヴァーソウルも使い方次第では移動距離を短縮できるものの、複数人を連れて戻ってくるとなれば話は別だ。セツナがメイルオブドーターを駆使するしかなかった。
とはいえ、ミレーユやゲインの日頃の働きに感謝したいという皆の気持ちはわかっていたし、セツナも同じ気持ちだったこともあり、酷使されることに不満もなかった。エリナだって、母親と一緒のほうがいいだろう。
その夜は、宿の主人の計らいによって宴会を開き、大人たちは皆、酔い潰れるくらいに酒盛りをした。
セツナは、酒を呑まなかった。
酔い潰れた皆をエリナ、レムと介抱しながら部屋に運び込みながら、こういう夜があってもいいものだと、ひとり感慨に耽り、レムに不思議がられ、からかわれたりした。
翌朝、二日酔い気味のファリアたちはレムに任せ、たったひとりでゴードンに別れを告げるべく役所に向かうと、エレニアの姿があった。
エンジュールの“守護”は、一児の母に専念することが許されないのだ。そういう事情を考えてみても、エレニアには感謝する以外にはないと想うのだ。彼女とて、ひとりの母親として、常にレインの側にいたいはずなのだが、その気持ちを殺して、“守護”としての重責を担ってくれている。司政官ゴードンとふたり力を合わせ、この混迷の時代にエンジュールを支えてくれているのだ。
セツナは、エレニアとゴードンのふたりに必ず戻ってくることを誓うとともに、この混沌とした現状をどうにかしてみせると約束した。すると、ゴードンもエレニアは笑顔でこういうのだ。
「セツナ様ならば、必ずや成し遂げてくださると信じております故、なにも聞きますまい。なにもいいますまい。ただ、くれぐれもお体にはお気をつけくだされ」
「ゴードン殿のいうとおりです。セツナ様のお体は、セツナ様おひとりのものではないということを、お忘れなきよう」
「どういう意味だ?」
「ファリア殿やミリュウ殿にレム殿……セツナ様の周りには、セツナ様を唯一無二の太陽の如く見ておられる方々ばかり。どうか、皆様方のためにも生き抜いてください。愛するひとを失う哀しみは、この世の終わりに等しいものです」
エレニアの深い実感の籠もった言葉に、セツナは、彼女のこの数年に及ぶ苦しみと哀しみの日々を想い、そして、彼女の忠告に大きく頷いた。エレニアの気持ちが完全にわかる、とは、いわない。セツナは未だ、最愛のひとを失ったことがないのだ。しかし、ある程度の想像はできる。たとえば、いま目の前からファリアたちが消えてなくなったとき、セツナは自分がどのような行動にでるのか容易に理解できるのだ。
きっと絶望するだろう。
戦う気力どころか、生きる希望さえ失ってしまうのではないか。
エレニアは、セツナが無理をしがちだということを、暗にいっているのだ。彼女は、ガンディアの歴史におけるセツナの戦歴をよく知っている。エンジュールには、領伯であるセツナの戦績が漏れなく伝わっていて、エンジュールの大人ばかりか子供さえもそらんじられるほどだというのだ。“守護”たる彼女がセツナの戦いぶりを知らないはずもなく、その戦歴が無茶と無理の連続であることくらい、彼女にはお見通しなのだろう。
故に、彼女は、セツナが命を落とすような行動を取る可能性を危惧し、忠告してきたに違いない。
セツナは、ゴードンとエレニアの忠告を素直に受け取ると、しばしの別れを惜しんだ。
だが、いつまでもエンジュールに留まっているわけにもいかない。
ザルワーンは、いい。
龍神ハサカラウが護ってくれるからだ。
しかし、ログナー島はどうか。
ウェゼルニルのひとりに圧倒さえ、制圧されかけた島だ。ネア・ガンディアが再び軍を寄越せば、瞬く間に支配されてしまうのではないか。
ネア・ガンディアの脅威を完全に拭い去るには、ネア・ガンディアの本拠を攻撃し、指導者を討つ以外にはないだろう。だが、それも簡単な話ではない。おそらく、ヴァシュタラの神々の多くを従えるネア・ガンディアの戦力は、現状のセツナには勝ち目がないのだ。
神を斃せるという算段はある。
神殺しの力を秘めた黒き矛ならば、カオスブリンガーならば、神々とも対等以上に戦える。しかし、それだけでは、セツナひとりだけでは、神の軍勢をどうこうできるわけもないのだ。一体二体、神を斃したところで、もっと多くの神による反撃に遭い、蹂躙されるだけのことだ。そして滅ぼされれば、世界は暗雲に閉ざされる。
まずは、ネア・ガンディアの全貌を解き明かすことだ。
ネア・ガンディアと名乗る勢力の真実を探らなければ、どうにも動きようがない。ネア・ガンディアが本当はどのような組織であり、なにを目的とし、なんのために行動しているのか。それを知ることが先決だろう。
その上で、対抗手段を用意するのだ。
(敵を知り、己を知れば……ってな)
エインから聞いたようなことを脳裏に浮かべながら、方舟に向かうと、ファリアたちが待ち受けていた。
現状、ログナー島については、セツナたちが戻ってくるまで無事であることを祈る以外にはなかった。
戦力の一部を残していくという選択肢もなくはない。が、ネア・ガンディアが神々を派遣してきた場合、セツナ以外の戦力では、多少の抵抗はできても、拮抗にさえ至れず、敗れ去るほかないだろう。ミズトリス率いるネア・ガンディア軍が侵攻を渋った白毛九尾状態のシーラならば、ある程度は食い下がれるかもしれない。しかし、そのシーラでさえ、龍神には敗れ去った。
ネア・ガンディアが本腰を入れれば、いかなファリアたちであってもただでは済まないのだ。
その上、戦力を割くにも、セツナたちの持ちうる戦力自体、決して大きいわけではないのだ。ファリア、ミリュウ、ダルクスという優秀な武装召喚師にエリナ、強力無比な召喚武装使いシーラ、死神レム――と、名前だけを挙げれば強力極まりない面々ではあるが、数の上ではなんともいいようがないほどに心細い。もし、ログナーに戦力を残していくとなれば、セツナ以外の全員を駐留させてもまだ足りないような気さえする。
そして、帝国の問題を早々に片付けようとするならば、セツナひとりでは足りないのだ。
やはり、ここは全員で帝国に赴き、ニーナ、リグフォードとの約束を果たし、すぐさまログナーに戻ってくるほうが堅実なのではないか。
方舟での話し合いの結果、セツナたちの今後の方針が定まった。
つまり、素早く帝国本土に向かい、西ザイオン帝国皇帝ニーウェハインに会って、早急にその願いを叶えることこそ優先するべきだ、ということになったのだ。
ネア・ガンディアも、手痛い敗北をしたばかりだ。すぐにはログナー島に戦力を送り込んでくるようなことはあるまい、という希望的観測に従い、セツナたちを乗せた方舟は、エンジュールから出てきた大勢のひとびとに見守られながら翼を広げた。
十二枚の翼を生やした巨大な船が空に浮かび上がっていく光景に歓声を上げ、声援を送ってくるエンジュールのひとびとには、セツナはなんともいえない気持ちになった。
二年以上もの長い間、一切手助けもできなかった自分を未だ領伯として慕い、敬ってくれているという事実が、彼の心を震わせてならないのだ。
なんとしてでも帝国の問題を早期に解決し、ログナー島に戻ってこなければならない。
彼は、そう固く誓った。
方舟は、空を行く。
ログナー島の東の海を飛び越えて、見果てぬ地、ザイオン帝国領へ。