第二千二百六十一話 セツナと魔王
セツナたちが案内役のレスベルに促されるまま魔王の館に足を踏み入れたのは、それからほどなくしてのことだ。
あれ以来、魔王の娘らしき幼女が窓辺に顔を見せることはなかったが、それはつまり、それほどの長時間、館の前で待たされなかったということでもある。
セツナが、レスベルが宣言通り取り次いでくれたことに感謝すると、彼は当然のことをしたまでのことであり、感謝されるいわれはない、と言葉少なに返してきた。彼は、役割を果たす以上の感情はない、とでもいいたげであり、実際その通りなのだろうが、そういった冷ややかな反応こそ、人間と皇魔の間の壁であり溝なのだろうと想わずにはいられなかった。とはいえ、そこに希望や光明を見出そうと想うほど、セツナも愚かではない。人間と皇魔の関係の改善は、気長にやるべきであり、焦り、急ぐことではないのだ。
館は、外観からわかるとおり木造の建築物であり、新しい木のにおいはこの館が建てられたばかりであることを証明していた。それもそうだろう。メキドサールの開拓と開発が始まったのは数日前のことであり、魔王の館を始めとするいくつもの家屋が既に完成している事自体、驚愕に値するのだ。レスベルいわく、リュウディースの魔法とレスベルの怪力をもってすれば簡単なことであり、シグルドたち人間の手助けなど不要以外のなにものではなかった、とのことだ。彼の人間に対する棘のある言い方は、皇魔としてみれば当然の発言なのだろうことは疑うまでもない。
ともかくも、館の一階、奥まった場所にある応接室に案内されたセツナたちは、そこで魔王ユベルと魔王妃リュスカと対面した。
大きな椅子に腰掛けていたユベルは、セツナたちが入室するなり立ち上がり、対面の席に腰掛けるように手振りで促してきた。セツナたちはお辞儀をすると、彼に促されるまま、それぞれの席に腰掛けた。魔王と魔王妃もそうだが、セツナたちも長椅子に腰掛ける形になる。二組の間には大きな卓が横たわり、そこにつぎつぎと茶器が運ばれてくる。美しいリュウディースたちの手際の良さに思わず見惚れると、ミリュウの手首を抓られた。茶器には、お茶と思しき液体が注がれていく。匂い立つ花の香りが、ただのお茶ではないことを示していた。
一通りの挨拶を交わした後、セツナは改めて魔王の顔を見た。魔王は、人間だ。しかし、ただの人間ではない。ガンディアの暗部ともいうべき研究組織・外法機関によって施術された異能の使い手であり、どうやら彼の灰色の瞳がその烙印ようだった。アーリア、ウル、イリスがそうだったように。
頭髪は黒く、肌は白い。健康的な白さは、隣に座るリュウディースの青白い肌とはまったく異なる色彩だった。年齢的にはまだまだ若い。セツナよりは年上ではあるが、それでも二十代半ばから後半くらいだろう。しかし、その顔に刻まれた皺には、年齢以上の苦労を感じさせ、彼がいかにして魔王になったのか、その苦難に満ちた半生をわずかながらも想起させるようだった。衣服は、簡素なものだ。以前、クルセルクで見えたときのように着飾ってもいない。気取ってさえ、いなかった。
「よくぞ参られた、ガンディアの英雄……いや、ログナー島救済の英雄とお呼びしたほうが相応しいだろうな。セツナ=カミヤ殿にファリア=アスラリア殿、ミリュウ=リヴァイア殿にレム殿、シーラ殿、エリナ殿にダルクス殿……だったかな」
「よく御存知で」
セツナは、すらすらと一行の名前を呼んでいった魔王に驚きを禁じ得なかった。セツナはともかく、ファリアたちの顔と名前が一致するというのは、並大抵のことではあるまい。
「それくらい調べておくものだよ。特に為政者というものはね」
「では、俺たちがここに来ることも?」
「当然」
ユベルが静かに告げると、隣のリュスカが面白おかしそうに口を挟んできた。
「ゴードン殿から連絡がありましたから」
「……そこを説明するのか」
ユベルが苦い顔をすると、リュスカはころころと笑った。魔王妃リュスカのひととなりがわかるにつれて、セツナは衝撃を覚えざるを得ない。先入観や前提情報として、皇魔は人間を忌み嫌っているということがある。それは多くの場合、揺るぎようのない事実であり、魔王に“支配”されたからといって人類への嫌悪そのものが薄れることはなさそうなのだ。実際、魔王配下の皇魔のほとんどは、人間に危害を加えこそいないものの、人間に対する嫌悪感、拒否感を剥き出しにしていた。クルセルク戦争などは、そういった感覚が顕著に出ていたものだ。
だが、目の前でおかしそうに笑うリュスカは、ユベルに対する嫌悪の情はなく、むしろ親愛の情ばかりが強調されていた。魔王との間に娘を設けたのだから、多少なりとも愛情がなくてはおかしいのかもしれないが、それにしても、だ。リュスカは、少しばかり肌の青い人間のように、この場に溶け込んでいる。
「だって、隠しておく必要がございませんもの」
「ひとがせっかく脅かしてやろうとしているのに、君というやつは」
「うふふ。ひとが悪い魔王だなんて、想われたくありませんもの」
「どうあがいたところで魔王は魔王だよ」
「だからといって、わざわざ悪しく想われようとはしないでくださいませ。リュカのためにも」
「……君には敵わないな」
ユベルが頭を振って、肩を竦めて見せた。ふたりのやり取りは、極めて温和だった。互いの愛情が交錯するだけの麗しいものであり、それがセツナ以外の皆にも衝撃的だったようだ。ミリュウの囁きが聞こえてくる。
(なんていうか、想ってたのと違うんだけど)
(そうね……)
(うん……)
(あれが……魔王様と魔王妃様の日常なのでございましょうか)
(そうなんだろうがな)
セツナも小声で参加すると、さすがの魔王の気に触ったのだろう。わざとらしい咳払いで、セツナたちを注意してきたのだ。目を向ければ、彼は眉根に皺を作っていた。怒っているという風ではないことにほっとする。
「……それで、英雄殿におかれては、このメキドサールになにようかな?」
と、問いかけてくるなり、彼は思い出したように手を上げてセツナの返事を制した。
「ああ、もちろん、先の戦いにおける貴殿らの活躍には、手放しで賞賛し、心より感謝しよう。貴殿らがいなければ、我々も滅ぼされていたのは紛れもない事実。おかげで助かったよ。ありがとう」
魔王ユベルは、わざわざ椅子から立ち上がると、リュスカともども深々と頭を下げてきた。そのうえ、セツナが慌てて応対しようとするのをまたしても手で制してきたのだから、セツナとしてはなにもいうことがない。しかも、彼は席に座り直すと、穏やかな口ぶりでこう告げてきたのだ。
「貴殿らが望むのであれば、我がメキドサールからも褒美を取らせようと想うのだが、どのような褒美が所望かな?」
「……我々に褒美は不要ですが、もし、陛下がどのような褒美でもいいと仰るのであれば、ひとつだけ」
「ほう。随分と勿体ぶった言い回しだ。なにを望む。我がメキドサールができることならば、なんだって構わぬぞ。なにせ、貴殿らがいなければこのメキドサールは存在し得なかったのだからな」
ユベルはそういってきたものの、セツナとしては、メキドサールに望む褒美などあろうはずもない。セツナたちがログナー島を救援したのは、それがガンディア仮政府のためになると想ったからにほかならない。主君からの命令と言い換えてもいい。そして、メキドサールを救ったのは、結果論に過ぎないのだ。無論、ユベルもその程度のことはわかっているのだろうが、それでもなお、彼はそう提案せずにはいられないのかもしれない。
彼は、この小さくも美しい楽園の王なのだ。臣民が再び楽園での生活に戻ることができたという事実を手放しで喜ぶのは、道理なのかもしれない。
だから、というわけではないが、セツナはひとつの提案をした。
「では……エンジュール、ログノールと結んだ三者同盟を今後も大切にして頂きたい、と」
「……そのようなことだけか?」
「はい。それ以上は、なにもいりません」
「無欲なことだな」
彼は、呆れながらも感心したように唸った。
「元々、我らが三者同盟を結んだのは、島内の敵であった女神教団に対抗するためだったが、いまやその目的は島内秩序の維持のためへと移り変わっている。ログノール、エンジュールの両者が我々メキドサールとの関係を維持してくれるというのであれば、我々としてもなにもいうことはない。もちろん、英雄殿が危惧しておられることもわからないではないがな」
ユベルのまなざしは、
「なに、安心せよ。わたしは人間だが、わたしには歴とした後継者がいる。彼女がいる限り、メキドサールの臣民が三者同盟に牙を剥くことはないよ」
「その後継者とは、もしや……」
「わたしの娘だ。名をリュカという」
ユベルのその返答は予想通りであり、セツナも驚きはしなかった。魔王の後継者となれば、愛娘以外にはありえないだろう。しかし、つぎの瞬間、起こったことには、さすがのセツナも面食らうしかなかった。
「お呼びでございますか、お父様」
ユベルの背後から、幼女が頭を覗かせたのだ。
「呼んではいないが……どこから現れた」
ユベルにとっては慣れたことなのだろう。彼は、極めて落ち着いた様子で後ろを振り返ると、その視線をすり抜けるように移動する幼女の素早さに呆れるばかりだった。幼女は、ユベルの背後から両親の前へと移動すると、ユベルに向き直る。見た限りでは、館の上階の窓から顔を覗かせた幼女に違いない。美しい黒髪に白い肌は父親譲りだろう。黒い衣服がよく似合っていた。
「まあ、まるでリュカをどこぞの精霊のように仰るのですね」
「わたしはだな」
「お父様よりご紹介にあずかりました、リュカですわ。なにとぞ、お見知りおきを……英雄様」
リュカと名乗った幼女は、ユベルの言葉に耳を貸しもせず、しかしながら恭しくも礼儀に則った仕草で、セツナに自己紹介してきたのだった。
ユベルは、頭を抱えてしまっていた。




