第二百二十五話 黒と赤と
バハンダール制圧から四日。
セツナの身の回りで起きた出来事といえば、長らく待ち望んでいたセツナ用の甲冑が届いたことだろう。
甲冑は、ガンディア方面軍第二軍団がマルダールを出発するときに鍛冶師に預けられ、第二軍団とともにナグラシアまできていたらしい。それが、やっとセツナの元まで届けられたのだ。
セツナのために作り上げられた甲冑は、マルダールの鍛冶師アロウ=コームス作だという話だった。意匠の草案は、レオンガンドが考えたものだといい、それをアロウら鍛冶師が実用的なものに仕上げたということだ。
尖鋭的な漆黒の甲冑。黒き矛を連想させる意匠でありながら、兜や肩当ての形状から黒いドラゴンを想起させ、セツナは一目で気に入った。カオスブリンガーによく似合う形状でありながら、黒き矛のような禍々しさはない。むしろ洗練された美しさがある。
セツナの意見通り、防御性能よりも動きやすさと軽さを重視しているのが見て取れる。極限まで削ぎ落とした装甲は、敵の攻撃を防ぐには心許ない。しかし、黒き矛のセツナは、そもそも攻撃を受けることが少なかった。避けるからだ。だからこそ、重量が気になるのだ。カオスブリンガーを手にしている限り、甲冑の重量など気にはならない。だが、肉体への負担は確実にあり、戦後、反動となってセツナ自身を苦しめるのだ。いっそ、鎧を身につけなければいいのではないか、と思わないでもないが。
セツナが試しに身に付けると、体によく馴染んでいた。全身余すところなく計測されたのは、このためなのだと声を上げて納得したほどだ。黒き矛を手にしていない状態だと、重量は多少気になったが、まず問題はないだろうと結論づけた。
「やっぱり、セツナには黒がよく似合っているわ」
鎧を試着したセツナを見たファリアは、一言目にはそういってきたものだ。彼女には余程バハンダール攻略戦で身につけた鎧が不評だったのだろう。セツナを見る表情まで違って見えた。ルウファにも好評であり、ガンディア軍の象徴たる黒き矛に相応しい甲冑だと、彼も太鼓判を押すほどだった。
そういうこともあり、セツナは、バハンダールでの数日を心地よく過ごした。
制圧後の翌日は疲労のあまり寝て過ごしたものの、それを取り戻す勢いの二日だった。疲れが取れれば、日課の訓練も行ったし、軍議にも参加した。とはいえ、軍議でセツナが発言するようなことはなかったが。バハンダールの守備隊にグラード=クライド以下五百名を置くという話は、軍議の席で聞いている。堅物のグラードが西進軍を離れるとなると、残る軍団長は曲者といっても過言ではないようなふたりだ。ドルカ=フォームとエイン=ラジャール。飄々として掴みどころのないドルカに、セツナに対して並々ならぬ想いがあるらしいエイン。どちらも一筋縄ではいかない人物だ。総大将のアスタル=ラナディースは、真面目一辺倒の女性であり、彼女がいる限り、ふたりが暴走するようなことはないだろうが。
バハンダールの市街地は、西進軍の出発準備のおかげで人集りができていた。だれもかれもが忙しなく動き回っており、喧騒などという生易しいものではなかった。怒号や罵声すら飛び交っている。
そんな様子を、セツナは他人事のように眺めている。
バハンダール北門前。門は開け放たれ、丘の下に広がる湿原が遠くまで見渡すことができた。青々と広がる湿原は、瑞瑞しくもあざやかに輝いている。空は晴れ渡り、侵攻の日の雷雨が遠い昔のようだった。
「ここに居られたのですか」
声に振り返ると、グラード=クライドだった。平時であるため赤騎士の象徴たる真紅の鎧は身につけておらず、ログナー方面軍の軍服を着込んでいる。群青の軍服だが、一般兵とは細部が異なる意匠だった。鍛え上げられた肉体は、窮屈そうにしているが。
セツナは、戦闘服の上から漆黒の鎧を纏っていた。準備が整えば、すぐにでも出発することになる。そして、敵軍との接触予測地点まではそれほど遠くはない。バハンダールを発てばろくに休む暇もなく戦闘に突入するだろうというのがエインの予測であり、戦闘準備を怠ってはならないとも厳命されている。
戦いは、既に始まっているといっていい。
「グラード軍団長」
セツナは、出発前にグラードが話しかけてきたことに驚きを隠せなかった。先発部隊としてマイラムを発って以来、行動を共にしているものの、親しくなったという記憶がないからだ。グラードよりもドルカに絡まれることのほうが多く、エインに纏わりつかれているという状況のほうが遥かに多かったからだ。軍議以外で言葉を交わした覚えもほとんどない。セツナからは話しかけづらいというのもある。
といって、身構える必要はない。グラードの表情は穏やかそのものだ。
「御存知の通り、わたしはここの守備につくことになり、今後の戦いには参加できません。セツナ殿とともに戦場に立てないのは残念なことではあるのですが、このバハンダールを護るのも大事な使命」
難攻不落のバハンダールを取り返されれば厄介なことになるのは、セツナの頭でも理解できる。西進軍は、セツナを超上空から投下するという荒業で制圧したものの、通常の戦力では湿原を踏破するしかないのだ。そして、湿原を進むということは、バハンダールからは攻撃し放題ということでもある。実際、グラード隊はバハンダールからの攻撃に曝され、多数の兵士が命を落としている。
「ええ。グラード軍団長、この街をお願いします」
セツナは、グラードの目を見つめながらいった。バハンダールの守備は確かに大事なことだが、前線で戦えないというのは辛いことかもしれない。特に戦いの中に己の価値を見出すような人物なら、納得出来ないだろう。グラードはそうではないのかもしれないが。
「守備は任せて下さい。難攻不落の城塞、なにがあっても抜かせませんよ」
「敵が来ないのが一番ですけどね」
「その通りですな」
セツナの一言にグラードが笑った。
現状ではザルワーンがバハンダールを奪還するために兵力を割く余裕が有るとも思えない、という話もある。バハンダールを奪還するには、相応の戦力を投入しなければならない。あるいは、多数の武装召喚師を使う必要がある。それほどの戦力が、現在のザルワーンに残っているのかどうか。
今朝、レオンガンドの中央軍が大勝したという報告が届いていた。レオンガンドの無事と勝利にセツナは歓喜したが、ログナー人の多い西進軍では大きな反応は見られなかった。無論、表面上は喜んでいるものもいる。しかし、ガンディア人になりきれないものの多くは、どう反応すればいいのかわからないといった有り様だった。もちろん、レオンガンドが敗れれば、ガンディア軍全体の危機にも繋がるということも理解してはいるのだろうが。
ともかく、ガンディア軍はこれまで、ナグラシア、バハンダール、そして中央軍と、三箇所での戦いに勝利している。敵軍に与えた損害は少なくはない。西進軍だけで二千近い敵兵を撃破しており、ザルワーン総力一万五千の一割以上は削ったことになる。それでも一万以上の兵力を持っているのがザルワーンの恐ろしいところではあるのだが、その戦力の多くをバハンダールに割くかというと微妙なところだろう。バハンダールの奪還よりも、優先すべき事態がある。ガンディア軍の撃退にこそ、ザルワーンは全力を上げるに違いない。そう考えれば、バハンダールへの攻撃の可能性は限りなく少ないと見ていい。
というのは、すべてエインやアスタルの受け売りだったが。
「たいちょー! どこですかー!」
遠方でセツナを探しているのは、ルウファだった。バハンダール市街を満たす人混みの中から、彼の大声だけが聞こえてくる。
「セツナ殿を呼んでおられるようですが」
ルウファの大声にグラードが苦笑を浮かべた。野放図な大声は、ルウファという人物が誤解されかねない。彼は真面目で、どんな仕事にも愚痴ひとつこぼさない、《獅子の尾》にはなくてはならない人材だった。セツナがこうして怠けていられるのも、彼のおかげなのだ。
「準備ができたのかもしれません」
「では、わたしが引き止めているわけにも参りませんな」
セツナは、グラードの朗らかな笑顔を見つめながら、ちょっとした安らぎを覚えている自分に気づいた。彼とはほんの少し前まで敵同士だったという事実を考えると、こうして普通に会話すること事態、感慨深いことだ。直接戦闘したことはないが、命のやりとりをした相手なのだ。なにより、セツナはグラードの同僚を手にかけている。
「では、わたしはこれにて」
グラードが、セツナに背を向けた。大きな背中だ。色んな物を背負ってきたのだろう。雄大にすら感じる。彼が歴戦の猛者だというのがよくわかる。セツナは数多の敵を殺してはきたが、彼のような背にはなってもいないだろう。ただの殺戮で得られるようなものでもなさそうだった。
「グラード軍団長」
セツナは、ふと、呼び止めた。
「戦いが終わったら、またお話しましょう」
「それは、嬉しいお誘いですな。楽しみにしていますよ」
グラードは、セツナの申し出に一瞬戸惑ったようだったが、すぐに笑顔になった。