第二千二百五十四話 ログナー島散歩(三)
エレニア=ディフォンは、元々、ログナーの人間だ。
ログナー王国におけるもっとも名の知れた家柄であり、多数の騎士を輩出した名門テウロス家の分家であるディフォン家の長女として生まれた彼女は、本家テウロス家の長男ウェイン・ベルセイン=テウロスと幼馴染みだったという。しかしながら、本家の人間であり、跡取りであるウェインよりも、彼女のほうが先に騎士に叙任されており、ウェインはその後、武装召喚術を身につけてからようやく騎士になったようだ。
ウェインがログナーの青騎士として頭角を現すようになったのは、それ以降のことのようだが、いまはどうでもいい。
エレニアの話に戻る。
エレニアは、ログナーの女性騎士であり、飛翔将軍アスタル=ラナディースの右腕として名を馳せていた。将来を約束された立場だったといっていい。そんな彼女の運命が激変したのは、いわずと知れたログナー戦争だ。ログナー戦争の折、彼女の幼馴染みであり最愛のひとであったウェインがセツナの手によって殺された。失意の中で終戦を迎えた彼女の心の中に悪魔の如き想いが宿ったとして、だれが責められよう。
それも、もう随分と昔の話だ。
彼女の罪は、エンジュールを護るという彼女の行動によって贖われた。ガンディア大乱の折のことだ。エンジュールのひとびとは、それ以降、エレニアをエンジュールの住民として受け入れていたはずであり、彼女を“守護”として推戴する気運が生まれたのも、様々な積み重ねがあってのことだろう。
エレニアの住居は、役所からほど近い場所にあった。以前、エンジュールの外れに住んでいたはずだが、なにやら引っ越差なければならない事情があったらしい。”大破壊”の影響もあるだろう。エンジュールの街の中には、”大破壊”による影響はあまり見受けられない。守護精霊による加護がエンジュールを守り抜いたというのは、本当のようだ。しかし、”大破壊”の影響というのは必ずしも直接的なものばかりではないのだ。神人や神獣へと変わり果てる症状も”大破壊”の影響だったし、結晶化もそうだ。そして結晶化は、緑豊かなエンジュール近郊の森を侵蝕しており、特にかつてエレニアの住居があった方角の森は、一面が水晶の森の如く変わり果てていた。結晶化が一体どういった現象なのかわからない以上、その付近に住むというのは怖いものだ。特に彼女のような立場の人間であれば、身の安全に細心の注意を払うべきであり、役所の近所に引っ越しを余儀なくされたのは当然といってよかった。エレニア自身が望む望まないに関わらず、そうするべきだろう。
エレニアは、エンジュールの“守護”であり、ゴードンともどもこの温泉郷を支える二本柱なのだから。
「そこそこ立派な屋敷ね。あたしたちの新居もこんな感じにしましょうよ」
馬車を降りるなり、ミリュウは腰に手を当てて、屋敷を見上げながらそんなことをいった。すぐさま、ファリアが突っ込みを入れる。
「だれとだれの新居ですって?」
「セツナと俺が住むなら、そうだな……もう少しこじんまりしててもいいな」
「お兄ちゃんと一緒ならどんな家でもいいかなー。ね、お母さん」
「そうねえ……エリナが幸せならそれでいいわ」
「わたくしは、天輪宮程度で十分でございます」
「天輪宮程度とはいったい……」
「……ひとの家を見ての感想がそれかよ」
セツナは、もはや大喜利状態の各人の感想に頭を抱えたくなった。確かに、森と山に囲まれたエンジュールの風景に溶け込むような三階建ての木造住宅は、見た目にもよく、住み心地も悪くはなさそうだ。広い庭は鍛錬を行うのに向いているし、武装召喚術の修練も可能だろう。体を鍛えるなら、エンジュールを走り回るのも悪くはない。疲れた体は温泉で癒やせばいい。疲労回復には、エンジュールの温泉は最適だ。
ふと、セツナは誰かに見られているような感覚に気づき、視線を巡らせた。敷地を囲う低めの柵の間からこちらを覗き見る顔があった。男の子だ。年の頃は四、五歳くらいだろうか。警戒心と好奇心の狭間で揺れ動く気持ちが、その可愛らしい顔に出ていた。
「あの子……もしかして」
「ああ、きっとそうだろうな」
ここは、エレニアの住居だ。その家にいる子供となれば、思い当たるのはひとりしかいない。エレニアとウェイン・ベルセイン=テウロスの子で、名はレインといったか。レインが生まれたのは確か五百二年四月のことであり、外見から判断した年齢と合致している。まず間違いないだろう。
「おにいちゃんたち、だれ?」
男の子が質問してきたのは、セツナたちへの好奇心に耐えかねたのだろう。声音が弾んでいるのも、警戒心よりも好奇心、興味のほうが強いことの表れだ。
真っ先に反応を示したのはファリアだった。ファリアは、彼を刺激しないようゆったりとした足取りで近づくと、柵を挟んで屈み込んだ。視線を合わせるようにして、優しげに微笑む。
「わたしはファリア。お兄ちゃんはセツナっていうのよ。レインくん」
「どうしてぼくのなまえをしっているの?」
男の子は、目を丸くして、柵に顔を押しつけた。ファリアの顔を覗き込もうとしているかのようだ。
「どうしてでしょう?」
「わかんない」
「レイーン! 午後の勉強よー! どこにいるの-?」
屋敷のほうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある女性の大声だった。エレニアだ。午後四時前。午後の勉強ということは、午前の勉強もあるのかもしれない。
「あ、おかあさんがよんでる……」
レインは、柵から顔を離し、屋敷を振り返った。すぐにも屋敷に戻ろうという反応に、セツナは、慌てて声をかけた。
「レイン君、俺たちは君のお母さんに逢いに来たんだ」
「おかあさんのしりあいなの?」
「ああ」
「じゃあ、ここでまってて。つれてくるから」
「ありがとう、レインくん。君はいい子だね」
「ひとにはやさしくしなさいって、おかあさんが」
「ああ、そうだね、その通りだ」
セツナが大きくうなずくと、レインはにっこりと笑った。その屈託のない笑顔は、エレニアが彼に注ぎ込んでいる愛情の膨大さを表しているように想える。しかし、先ほどの彼への呼び声の内容からすれば、必ずしもただただ溺愛しているだけではないことが窺い知れる。教育にも熱心なのだろう。
ディフォン家は、ログナーの名門であるテウロス家の分家なのだ。エレニアも、名門の分家に恥じない教育を受けて育ったに違いなく、彼女の我が子への教育も、それなりに厳しいものであると想像できた。とはいえ、レインがエレニアの呼びかけに怖じ気づく様子もないことから、厳しすぎるということもなさそうではある。
「いまになって想えば、あのとき、殺さなくてよかったのよね」
「そう……ね」
ミリュウの小さな声に反応を示したのは、ファリアだけだ。ふたりとも、暗殺未遂事件の際、セツナが刺された現場に居合わせている。そのときに苦い記憶を思い出したに違いない。ふたりにとっては、それがどれほど辛い事件だったのか、セツナは想像するよりほかはないが、セツナがふたりの立場ならば、きっと実行犯を殺害するか、半殺しの目に遭わせていただろう。
彼女たちのように冷静でいられるとは、思いがたい。
ミリュウが殺さなくてよかった、といったのは、レインのことがあるからなのか、それとも、エレニアがいたからエンジュールが無事だったということからなのか、あるいは複合的な理由なのか。いずれにせよ、彼女を殺していた場合、エンジュールは当然無事で済むわけもなければ、レインの元気に成長した姿を見ることもできなかったのは間違いない。
そういう意味では、セツナも、あのとき彼女に極刑を望まなかったのは、間違いではなかった、と想わざるを得なかった。
エンジュールどうこうよりも、レインという男の子の生きている姿を見れば、そう想いたくもなる。
しばらくすると、レインに引っ張られて、エレニアが玄関先に姿を見せた。最初、レインの強引さに困惑していた彼女だったが、門前のセツナたちを認めると、レインを抱き抱えてまで駆け寄ってきた。
「ああ……!」
エレニアは、レインを下ろし、門を開けると、セツナたちも想いも寄らない行動に出てきたのだった。
「セツナ様、よくぞご無事で……!」
彼女が、涙さえ浮かべながらおもむろに抱きついてきたことには、さすがのセツナも虚を突かれる想いがした。