第二千二百五十三話 ログナー島散歩(ニ)
「領伯様! それに皆様もよくぞご無事で戻られた……!」
ゴードン=フェネックは、セツナたちの姿を目の当たりにするだけで感極まったのか、声を震わせながら馬車に駆け寄ってきた。よく見れば、目を潤ませ、肩を震わせている。温厚かつ質朴な性格の彼の感激ぶりにこそ、セツナは感動を禁じ得ず、駆け寄ってきた彼の手を取り、見つめ合った。
「ゴードンさんこそ、ご無事でなにより」
「役所の皆も、エンジュールの住民も、領伯様、皆様方の無事の到来をどれほど待ちわびていたことか。このエンジュールは、領伯様あってのもの。領伯様なしでは、立ちゆきませぬ」
「そんなことはないでしょう」
セツナは、ゴードンの激賞ぶりに苦笑するほかなかった。
「現に、俺がいない二年以上を持ち堪え、今日まで来られたんだ。俺なんてお飾りの領伯がいなくとも、ゴードンさんならやっていける」
「なにを仰る」
ゴードンは、筋違いだといわんばかりに頭を振った。
「わたしが大手を振ってエンジュールの司政官をやっていられるのは、領伯様の後ろ盾があってこそのこと。ガンディアの英雄たる領伯様の御威光がなければ、わたしのいうことなど聞かぬものばかりですゆえ」
「そうなんだ?」
「はい」
彼はにこやかにうなずき、彼とともにセツナたちを出迎えた役所の関係者一同を振り返った。彼らにもゴードンの発言は聞こえていたのだろう。なんともいえない表情で笑っている。彼らの反応、ゴードン自身の反応を見る限り、決して悪い意味でいったわけではないのだろう。関係は良好そうだ。元々、気のいい連中ばかりだという話も聞いている。
ゴードンに視線を戻す。恰幅のいい中年男性だった彼は、この二年あまり、司政官として大忙しだったのだろう。幾分、痩せているように見えた。頭髪には白髪が混じりつつある。年齢的には、白髪が生えるにはまだ若いはずだ。
「……相当、苦労されたようですね」
「はは。領伯様のことを考えれば、苦労などと呼べるようなものではありますまい」
「苦労っていうのは、だれかと比べてどうこういうものじゃないですよ」
「……確かに、そういうものでもありますが。外で立ち話もなんですから、中へ入られますか?」
「お言葉に甘えて」
セツナは、ゴードンの招きに応じると、ファリアたちを振り返った。皆、ゴードンの姿を見て、安堵したようだった。当然のことだが、戦場ではないこともあり、ゲインとミレーユという非戦闘員の二名も同行している。ふたりには、方舟生活で世話になっているのだ。天然温泉に浸かって、疲れを癒やしてもらいたいという想いもあった。
「二年あまりの間、なんの音沙汰もなかったのは、そういうわけだったのですか。確かに、領伯様におかれましては、以前お会いしたときよりも見違えますな」
ゴードンは、セツナの掻い摘まんだ説明に対し、素直に感心したようだった。説明というのは、セツナたちが最終戦争からここに至るまでの出来事の簡単な説明だ。詳細に話せば長くなるし、暗くもなりかねない。できるだけ明るい話題だけを選んで、伝えている。
役所の応接室にてセツナたちの応対をしているのは、ゴードンただひとりだ。役員たちを交えての談笑など、セツナたちは望まないだろうという彼の判断は正しい。無論、役員たちが悪いわけではなく、セツナたちと特に交流があるのがゴードンくらいだ、というだけの話だ。特に面識もない役員たちを交えて長々と話をするのは、セツナはともかく、人見知りの激しいミリュウには苦痛だろう。
「わたしはといいますと、一見しただけではわからないかもしれませんが、この二年でかなり痩せまして。健康的そのものですよ」
「元々、太ってたもんねえ」
「ははは、返す言葉もありません」
ミリュウが軽口を叩くと、ゴードンは嬉しそうに笑った。基本的には場を弁えるミリュウだが、ゴードンに対しては身内という認識があるのか、口が軽かった。その機微がゴードンにはわかるのかもしれない。セツナとしても、ミリュウがこのエンジュールをもうひとつの故郷のような感覚で捉えているらしいことが嬉しかった。他人に対して心を開くことの少ない彼女にとって、心安まる場所があるというのは、喜ばしいことだ。
それから、エンジュールのこの二年あまりについても、掻い摘まんで説明を受けた。エンジュールがどうやって最終戦争、”大破壊”という二度に渡る厄災を乗り越え、”大破壊”後の混沌たる時代を乗り切ってきたのか。ある程度知っていたことの詳細が知れて、セツナたちは大いに納得したりもした。
エンジュールは、嵐を操る守護精霊ゼフィロスによって護られたのだ、という。その守護精霊ゼフィロスはというと、エレニア=ディフォンが使役しているのだといい、エレニアがエンジュールを護ったも同然のようだ。
「守護精霊……ですか」
「はい。“守護”殿と守護精霊のゼフィロス様がいなければ、エンジュールはヴァシュタリア軍に蹂躙されていたことでしょうし、天変地異に巻き込まれていたのは間違いありません。エンジュールがほとんどなにひとつ変わることなく、日々を過ごすことができていたのは、“守護”エレニア殿のおかげといっても過言ではないのです」
「だから、“守護”?」
「はい。領伯様には勝手なことながら、司政官権限によってエンジュールに“守護”なる役職、立場を設けさせて頂き、エレニア殿に引き受けて頂きました。無論、領伯様が否やを申されるのでありましたら――」
「俺にそんな権利はないよ」
セツナは、苦笑交じりに告げた。
「俺は確かにこの街の領伯かもしれない。けれど、この二年ほどは、ゴードンさんを始めとする役所の皆が街を護ってきたといっても過言じゃあない。俺は、なにもしなかった。そんな人間に口を出す権利なんてあるはずがない」
「そうよ、ゴードンさん。名ばかりの領伯様の意見なんてなにも聞かなくていいのよ」
「それは言い過ぎじゃないかしら」
「そう?」
「いや、言い過ぎでもなんでもないさ。ミリュウのいうとおりだよ。ゴードンさんのやりたいようにやればいい。それに……」
「それに……?」
「俺は、領伯を返上するつもりでいるからさ」
「は……?」
ゴードンは、虚を突かれたように間の抜けた顔をした。
「いま、なんと……?」
「領伯の座を返上する、といったんだよ。龍府の領伯の座は、既に返上しているからね」
そういうと、ゴードンは驚きのあまり言葉を失ったようだった。
龍府にて、グレイシアに領伯の座と龍府を返上する際、エンジュールとセイドロックに関して言及しなかったが、それは現地に連絡が取れなかったからだ。エンジュールもセイドロックも”大破壊”以降、どのような状況にあるのかもわからない以上、勝手なことはできないというのがセツナの中にはあった。返上する以前に、別のだれかの支配地になっている可能性は大いにあるのだ。故に龍府だけをまず返上したのだが、当然、エンジュール、セイドロックの支配権も返上するつもりでいた。
返上するきっかけは、やはり、この二年あまり、領地に対してなにもできていなかったという大きすぎる事実がある。
元々、領伯というのは立場、肩書きだけのものといってもよく、領地の運営に関しては司政官に任せっきりだったのだが、それにしても方針さえ一切示さず、なにも手をつけなかったことはなかった。領伯として書類仕事をしたことだって、あるにはある。判を押すだけとはいえ、仕事は仕事だ。そんなことすらせず、司政官に任せきりだったのだ。領伯失格以外のなにものでもないだろう。
などとセツナがいうと、ゴードンは頭を振った。
「セツナ様が領伯失格? そんなことはないと、このゴードン=フェネックが断言いたしますぞ」
「ゴードンさん……」
「セツナ様という精神的支柱があったからこそ、エンジュールは今日まで道を違えることなく進んでこられたのです。仮にセツナ様以外のだれかが領伯であったならば、エンジュールはとっくにログノールに組み込まれ、ガンディアの国土ではなくなっていたでしょう」
彼の力説を、セツナは驚きをもって聞いていた。彼がここまで情感を込めて話をしたことなど、いままであっただろうか。
「ログノールを悪くいうつもりはありませんが、しかし、エンジュールは、ガンディアの国土としていまもここにある。そのことに誇りをもってやってこられたのは、セツナ様、あなた様が領伯だったからこそ。ガンディアの歴史に燦然と輝く英雄の領地だからこそなのです」
ゴードンは、力説を終えると、軽く咳払いをした。そして、セツナたちの反応に気づいたのか、気恥ずかしげに肩を小さくした。セツナたちは皆、熱弁を振るったゴードンの姿に驚きを隠せなかったのだ。
「……そうなのですか?」
「え、ええ」
ゴードンがうなずくと、ミリュウが感心したようにいった。
「なるほどねえ。ゴードンさん、なかなかいいこというじゃない」
「精神的支柱、か……」
「まあ、俺はわかるぜ。うんうん」
「わたくしにとっても、御主人様の有無は大きゅうございますので、ゴードン様の仰りたいことは理解致しますわ」
「お兄ちゃん、大きいもんね」
「本当に、そう思いますわ」
エリナに続き、ミレーユまでもが肯定するものだから、セツナはなんだか気恥ずかしくなってきた。褒められることには慣れているが、身内に激賞されるというのは、どうにも小っ恥ずかしい。ゲインもうんうんと頷いていて、反応していないのはダルクスくらいだった。彼とは交流自体がないのだから、そういう冷めた対応もわからなくはないし、なんだか救われる気がした。
「……ですから、どうか考え直して頂きたいのです」
「それは……」
「ではせめて、“守護”殿と話をしてから、結論を出して頂けませんか?」
「“守護”殿……ね」
エレニア=ディフォンのことを思い出して、セツナは、懐かしい気持ちになった。
まさか、彼女が愛するひとの仇であるセツナの領地の守護者になるなどと、だれが想像するものだろうか。
運命の皮肉というべきか。
それとも、運命の不思議というべきか。
いずれにせよ、セツナは、領伯問題に関する結論を先送りにせざるを得なくなった。