第二百二十四話 エインは考える
エイン=ラジャールは、ルウファ・ゼノン=バルガザールからの報告を聞いてからというもの、地図との睨めっこをやめられなくなっていた。西進軍の斥候が描き記した周辺の地図にルウファがいろいろと書き加えたもので、敵軍の位置まで克明に記されている。
バハンダールの周囲一帯を覆う湿原を北へと抜け、少し進めば東西への分岐路がある。その分岐路を無視してまっすぐ進めば鉢合わせするような位置に、敵軍は布陣しているという。兵数は、千五百は下らないだろうというのがルウファの目測である。千人以下、ということはあるまい。近くにはルベンという都市があり、龍鱗軍が駐屯しているのならば千人くらい簡単に用意できるだろう。もっとも、隣国イシカのことを考えれば、ルベンの兵力を簡単に動かせるとも思えないが、かといって眼前に迫る敵軍への対応こそ優先するべきだという考えもある。なんにせよ、人数の把握は難しい。
南に向かって広がるように扇状の陣形を取っているということだったが、北進軍が分岐路をどちらに進んでも対応できるように、という布陣なのかもしれない。敵に接する南側の人数が多いということは、扇型防陣と呼ばれる陣形だ。逆に、扇の支点を手前にした陣形を扇型攻陣と呼ぶ。もっとも、扇型攻陣は突甲陣と混同されることも多く、扇型陣といえば扇型防陣を指すようになってしまっている。
扇型防陣の場合、指揮官は扇の支点である最奥に位置することが多い。この敵部隊も、指揮官と本隊は支点に配置していると見て間違いはない。敵指揮官を討つには、分厚い防壁を突破しなければならず、真正面からぶつかり合うのならば相応の損害を覚悟しなければならない。
もちろん、正面からぶつかるつもりなど、毛頭なかった。それならルウファに敵情視察して貰う必要はない。黒き矛を筆頭とする《獅子の尾》を全面に押し出し、突撃すればいいだけだ。それでも簡単に勝てるかもしれない。が、ここで気をつけなければならないのは、ザルワーンにも武装召喚師がいるということだ。
中央軍がゼオルへの道中に遭遇した聖龍軍と名乗る敵部隊には、ふたりの武装召喚師がいたらしい。中央軍に《白き盾》がいなければ全滅していた可能性もあるほど、敵武装召喚師は猛威を振るったそうだが、クオン=カミヤのシールドオブメサイアと《蒼き風》のルクス=ヴェインの活躍もあり、中央軍は勝利を得ることができたということだった。
戦勝直後各地に放たれたのであろう早馬からの情報では、それくらいのことしかわからなかった。中央軍が被った損害は不明だったし、戦闘の経緯も不明のままだ。しかし、レオンガンド王は勝利し、ゼオルに進むことができるようだった。連戦になるだろうが、シールドオブメサイアがあるかぎりは負けはしないだろう。西進軍にカオスブリンガーがあるように。
北進軍の様子は、十八日にはマルウェールに到着するだろうということくらいしかわかっていない。その予測が正しければ、昨日のうちにマルウェールに辿り着いたはずだ。そして、攻撃も始めていると見るべきか。北進軍にはレノ=ギルバースのログナー方面軍第二軍団が編入されており、さらにエリウス=ログナーというログナー人にとっては特別な人物が従軍しているということもあって、その動向が気になるところだ。
レノが優秀なのはわかりきったことだからどうでもいいとして、気にかかるのはエリウスのことだ。ログナー最後の王である彼に、特別、軍事の才能があるという話は聞いたことがなかった。剣術を学び、実戦の経験もあるということは知っている。だが、彼のような人間が前線に出て戦う必要はなく、戦果を求められてもいまい。ログナー軍人とガンディア軍人の間を取り持つことを期待されているのだ。
北進軍の指揮官はデイオン=ホークロウ左眼将軍である。ガンディアに良い印象を持たないログナー人が、彼の命令を素直に聞かないという可能性も、皆無ではない。無論、そんなことをすれば自分たちの首を絞めるだけだということは、だれもが知っている。馬鹿げたことだ。それでも、人間の感情というのは、ときとしてどうしようもなく制御不能に陥ってしまう。理屈ではわかっていても、頭では納得していても、だ。そういう感情の暴走が起きないように調整するのが、北進軍におけるエリウスの役目といっても過言ではないのだ。彼は聡明な人物だというのは、アスタル=ラナディースのお墨付きでもある。きっと、自分の役割を理解し、振る舞ってくれているだろう。
北進軍の状況についてわかるのはしばらく先になる。武装召喚師と戦ったのかどうかが判明するのもそれからだ。北進軍にはカイン=ヴィーヴルとかいう仮面の武装召喚師がついている。戦闘面での心配はあまりない。
ザルワーンがどれほどの武装召喚師をこの戦いに投入したのかは不明だが、少なくともそのうち二名は中央軍との戦闘で死亡している。そのふたりで打ち止めならばありがたいのだが、そんなことはありえないと考えておくべきだ。ザルワーンには武装召喚師養成機関があり、何百人もの人間が、そこで武装召喚術を学んだという話もある。その十分の一でも戦場に現れれば、戦局は、瞬く間にザルワーン有利に傾くだろう。いくら黒き矛であっても、何十人もの武装召喚師を相手に戦い抜けるとは思えない。
(それでも、セツナ様なら戦い抜こうとするかな)
エインは、セツナの顔を思い浮かべて、苦笑した。彼ならばやりかねない。どんな任務であろうと必ずやり遂げるのが、セツナだ。エインの中のセツナとは、そういう印象の人物だった。そして、不可能を可能にしかねないところが、恐ろしくもあり、頼もしくもある。
バハンダール北方に布陣した敵軍を撃破するための作戦も、セツナを使うことに決めていた。当然のことだ。セツナは、ただひとりで圧倒的な戦力なのだ。彼を使わずに戦術を考えるなど、宝の持ち腐れにほかならない。彼の力を最大限引き出すような戦術を建てることこそ、エインの夢のひとつである。黒き矛の使い手の使い手になりたいのだ。
彼は、伸びをすると、思い切りあくびをした。
バハンダール仮説本部の会議室には、エイン以外の人影はない。右眼将軍や軍団長たちはおろか、彼の部下たちですら出払っている。皆、出発準備に忙しいのだ。いまごろバハンダール市内は兵士や人夫でごった返しているに違いない。
特に西進軍の行軍方法だと、数多の馬車に物資や兵糧を積載し、兵士たちもつめ込まなければならない。馬車の数がとにかく多かった。バハンダール制圧後、もっとも問題になったのもそれだ。一台の馬車の荷台に詰め込める人数などたかが知れている。何十台どころではない数の馬車が用意された。もちろん、騎馬隊は馬車に乗る必要がないとはいえ、軍団の半数が騎馬兵であるはずもない。歩兵の数が最も多い。その全員を馬車に乗せるという無茶なことを、アスタルは平然とやってのけた。結果、西進軍の行軍速度は、他の部隊よりも格段に速くなったのは間違いない。
準備は大変だが、速度を考えれば悪くはない。おかげで、別のことに時間を費やすことができる。戦術を練る時間もたっぷり取ることができた。考えに考え抜いた策が功を奏するのか、こればかりはやってみなければわからない。が、今度は先のような真似にはならないだろうという確信がある。様々な状況に対応できるように練り上げた。
エインは、机の上に広げていた地図を折りたたみ、懐に収めると、会議室を後にした。戦術の概要は既に説明してある。そのための隊列でバハンダールを出発する手筈になってもいる。準備は万全。バハンダール制圧後はビューネル砦に向かう予定であり、つぎの戦いは予定外のものだ。しかし、避けては通れぬ位置に陣を築いている。
無論、バハンダールを南から出て、大きく迂回するように進めば、敵部隊と遭遇せずにビューネル砦に辿り着けるかもしれない。だが、そうすると、無視された敵部隊はバハンダールを攻撃するか、西進軍の後背を衝いてくるだろう。
バハンダールには、グラード=クライド以下五百人を守備隊として残していくため、ただバハンダールに攻撃してくるならば簡単に撃退できる。難攻不落の城塞都市の面目躍如となること請け合いだ。しかし、敵部隊に武装召喚師がいた場合、話は違ってくるだろう。武装召喚師は、黒き矛のセツナでなくとも、ただそれだけで強力なのだ。湿原を踏破し、丘を登り、城壁をも突破してくる可能性も捨てきれない。
バハンダールにはグラードがいる。彼も召喚武装の使い手であり、武装召喚師とも対等に戦うこともできるだろう。だがそれは、敵武装召喚師がひとりの場合のみだ。たとえグラードほどの猛者であっても、ふたり以上の武装召喚師を相手に戦えるとは思えない。
もちろん、敵部隊に武装召喚師がいない可能性も十分にある。しかし、可能性に賭けてバハンダールを奪い返されるわけにはいかない。なにより、グラードや兵士たちを失うわけにはいかないのだ。
だったら、正面切って突き進み、戦えばいい。
こちらには《獅子の尾》という最高の手札がある。
三人もの武装召喚師がいて、そのうちひとりはガンディアの最大攻撃力だ。
セツナ・ゼノン=カミヤ。
彼を軸とした戦術は、敵部隊をでたらめに破壊してくれるに違いない。