第二千二百四十六話 神の国にて(一)
ミズトリスが意識を取り戻したのは、神都ネア・ガンディオン神皇宮の一室でのことだった。
そこは、神皇宮内においては数少ない獅徒が寛ぐことのできる場所であり、彼女を除く獅徒たちも当然のように室内にいて、彼女が目を覚ますのを待ちわびているかのようだった。実際、待ちわびていたのだろう。彼女が意識を取り戻すと、素早く駆け寄ってきたのは、獅徒ファルネリアとイデルヴェインの二名だ。ふたりとも獅徒の甲冑を着込んでおらず、素顔と普段着だった。
めずらしいこともあるものだ、と、いまだ判然としない意識のミズトリスが想っていると、ファルネリアが寝台の横の椅子に腰を下ろし、彼女の手を握った。ファルネリアの穏やかで美しい容貌も、たおやかな手も、獅徒として生まれ変わったことで真っ白に染まっている。腰辺りまで伸びた長い髪も、なにもかも真っ白だ。それがどうにも残念でならない。
それは、イデルヴェインにもいえることだった。ファルネリアとは反対側の椅子に座ったイデルヴェインの貴族然とした整った顔立ちも、美しく均整の取れた肢体も、獅徒に生まれ変わった結果、純白に塗り潰されてしまっている。だからといって美貌であることに変わりはないのだが、なんだか味気なくなったというのがミズトリスの本音だった。
「目が覚めたようで、よかったですわ……ミズトリス」
「ファルネリア……イデルヴェイン……わたしは……」
「よいよい。いますぐにはなにが起こったのか、思い出せぬのも道理。いましばらくはゆるりと致すがよいぞ。ウェゼルニルも、まだ目覚めておらぬ故な」
「ウェゼルニルも……?」
ミズトリスは、イデルヴェインの説明にきょとんとした。イデルヴェインが見やった方向を見れば、確かにもうひとつの寝台の上にウェゼルニルの巨体があり、レミリオンが看病しているようだった。
ウェゼルニルがなぜ眠っているのか、よくわからない。いやそもそも、自分もなぜ、意識を失っていたのか、その原因が記憶から抜け落ちているようだった。自分の身になにが起きたというのか。なにか、とても重要なことを忘れ去っているのではないか。焦燥感に駆られたのは、それがもしかするとヴィシュタルの身に危険の及ぶことかもしれない、と、思い至ったからだ。上体を起こし、寝台から抜け出そうとすると、ファルネリアとイデルヴェインのふたりがかりで抑えつけられた。
「イデルのいったとおり、いましばらくはお休みなさい、ミズトリス。あなたはまだ本調子ではないのですから」
「ファルネリアのいうことを聞くがよい。そなたは、死にかけておったのだからな」
「死にかけて……?」
反芻して、彼女は、脳裏に閃光を見た。網膜を焼き切るのではないかというほどの強烈な閃光が過ぎり、その狭間に闇を見た。どれほど強烈な光でも決して掻き消すことのできない、絶対の闇黒。黒き矛。その切っ先が閃く光景が脳裏に焼き付いている。自分は、黒き矛に斬られ、絶命しかけたのだ。
そして、あの女の介入によって命拾いをした。
そのことを思い出したとき、いても立ってもいられなくなった。かといって、ミズトリスになにができるわけもないことも、わかりきっている。騒ぎ立てたところで、どうにかなるものでもない。ましてや、彼女の言葉がこの場にいないのであろうヴィシュタルに届くはずもないのだ。
「ヴィシュタルは……?」
「軍議の最中ですよ」
「軍議……」
「なんの心配もいりませんよ、ミズトリス。あなたはまず、回復することを優先なさってください」
「……ああ」
とはいったものの、心配せずにはいられなかった。
自分がここにいて、ウェゼルニルも意識不明の重体だということは、どういうことなのか。考えられるのはひとつだけだ。ログナー・ザルワーン同時再侵攻作戦が失敗に終わった、ということだ。獅子神皇の勅命によって発動した大作戦が完膚なきまでに失敗し、獅子神皇直属の獅徒が手痛い敗戦を喫したとあれば、獅徒の長たるヴィシュタルがその責任を問われるのは必至だ。
軍議の場で、彼の責任が追求されるに違いないのだ。
神皇直属ということもあり特別待遇を受ける獅徒に対する嫉妬というのは、ここのところますます強くなっている。神皇が眠っている間は、獅徒が厚遇されることがなく、名ばかりの存在であったこともあり、大した影響もなかったのだが、神皇が目覚めてからこっち、獅徒の待遇は良くなる一方であり、それが神将や神々には気にくわないのだ。
獅徒とは、古くから神皇に仕えていた神将にとっては新参者以外の何者でもなく、神々にとっては裏切りもの以外の何者でもないのだ。そんな連中が獅子神皇に重用され、寵愛を受けているとなれば、嫉妬のひとつもしよう。しかし、だからといって足を引っ張るようなことはできないのが、神将にとっても神々にとっても、厄介なところなのかもしれない。そんなことをすれば、神皇の不興を買い、存在をしていることさえ許されなくなる。
獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアは、ネア・ガンディアにおいて絶対の存在であり、万物の支配者と言い換えてもいい立場にあった。獅子神皇の一声は天地を揺るがし、獅子神皇の一存は神の存在さえ揺るがす。
永久不変の存在たる神を滅ぼし得る数少ない力。
それが獅子神皇なのだ。
故に、神々は彼を仰ぎ、彼に従い、彼に準ずる。
彼のお気に入りである獅徒の足を引っ張ろうものならば、害をなそうものならば、立ち所に全存在を否定され、因果律からも消えてなくなるだろう。
そういう意味においては、ミズトリスたち獅徒の立場というのは絶対的に安全ではあるのだが、かといって、作戦失敗の責任を取らずに済むかといえば、そういうわけにはいかないだろう。
それはそれ、これはこれ、なのだ。
ミズトリスは、ファルネリアの手の温もりを感じながら、悔しさに唇を噛んだ。
セツナとの戦いの結果は、ミズトリスの完敗だった。完膚なきまでに、敗北を喫した。しかも、ミズトリスには、モナナ神がついており、相手はセツナひとりだったというのにだ。二対一。数の上では、こちらの方が多く、大いなる神の加護を得たミズトリスが負けることなど、普通ならばありえないことだ。そもそも、獅徒なのだ。獅徒は、人間ではない。人間を遙かに超えた次元の存在といってもよかった。身体能力、動体視力、反射神経、すべてにおいて人間の限界を凌駕し、超越している。そこに神の力が加わっていたのだ。
だというのに、ミズトリスは負けた。
完膚なきまでに、徹底的に負け尽くした。
最後の手段たる神との合一さえ、届かなかった。
それが彼女には悔しくてたまらなかった。
これでは、ヴィシュタルの力になることさえ、かなわない。
これでは、彼の望みを叶えることもできない。
それが彼女には辛い。
軍議は、いつものように神皇宮上層区画中枢部、大会議室にて開かれた。
出席者は、三神将と軍神に加え、数名の一級神、それに獅徒の長たるヴィシュタルだ。ほかにはいない。ネア・ガンディアの支配者である神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアが軍議に姿を見せることはなく、神将たちによって進行された。
三神将とは、ネア・ガンディアを実質的に取り仕切っている三名の神将のことだ。神将とは即ち神々の将のことだが、彼らは神属ではない。むしろ、属性的には獅徒に近い立ち位置だった。軍神にもいえることではあるが、元人間の転生者である以上は仕方のないことだろう。転生し、神に等しい力を与えられたものたち。それが神将と軍神なのだ。
獅徒と違うのは、獅徒が獅子神皇直属の使徒であるのに対し、神将も軍神も神皇配下ではあるが、王と家臣という立場にある、ということだ。獅徒はいわば神皇の親衛隊であり、神皇に厚遇されている。それが神将たちには気に食わないところなのだろうが、最も気に食わないのは、その出自だろう。
獅徒は、傭兵集団《白き盾》の幹部を前身とする。ネア・ガンディアの前身であるガンディアとは、ほとんどなんの関わりもない傭兵集団の幹部たちが、ネア・ガンディアにおいては重要な立ち位置にいるのが気に入らないというのは、神将の立場になってみれば、必然的な感情ではあった。
感情は、この世のすべてといってもいいものだ。
感情こそが、世界を突き動かしている。
ヴィシュタルには、それがよくわかっていた。
だからこそ、彼は、ここにいる。