第二千二百四十四話 神殺し
「おまえは、神を殺した」
マユリの背後に光の輪が出現し、彼女を幻想的かつ神々しく演出していく。光背から放出される輝きが、室内を急速に満たしていく。その光に気圧されたわけではないが、セツナは目を細めた。マユリ神の神としての力を直接目の当たりにするのは初めてのことではないにしても、めずらしいことだ。
「モナナなる神をその手で殺し、滅ぼし、この百万世界から消し去ったのだ。それは百万の祈りを消すも同じこと。極悪の所業。魔の御業にほかならぬ。魔王と魔王の杖の護持者以外に成し遂げたものは、だれひとりおらぬ。この百万世界における最大の悪事を働いたのだ。感想のひとつもあろう?」
促されて、セツナは、首を捻らざるを得なかった。頭をかきながら、本音を告げる。
「よく、わかんねえ……ってのが俺の本音だよ、女神様。俺は確かに神様を殺した。でもそれはほかに方法がなかったからだ。ほかに解決策があれば、軍を引いてくれるのなら、殺しなんてしなかった。ただそれだけのことさ」
それはつまり、いつもと変わらないということだ。
人間を殺してきたのだって、同じ理由だ。皇魔を殺したのも、神人、神獣と化したものたちを殺してきたのだって、まったく同じだ。必要に迫られたから、力を振るった。結果、命を奪うことになった。ただそれだけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「相手が神だからとか、ネア・ガンディアだからとか、そんなことは関係ないんだ。俺たちの敵になった。俺たちが斃すべき敵となって立ちはだかり、滅ぼす以外の選択肢がなくなった。それ以上でもそれ以下でもないんだよ」
たとえば、相手が黒き矛やその眷属であったとしても、同じことだ。これまでがそうだった。目の前に立ちはだかった敵が眷属だったときも、セツナは容赦しなかった。情けもかけなかった。敵として立ちはだかり、交渉の余地がなければ、全力で叩きのめす。それで終わるのなら、解決できる問題ならば、そこまでのことだ。それでもなお立ち上がり、殺す以外の選択肢がなければ、滅ぼし尽くす。
それがすべてだ。
不必要なまでに命を奪ってきたのだ。もう、殺したくはない。だが、そうもいっていられない敵が相手となれば、そのときは、情け容赦なく奪い尽くすのみだ。そこに躊躇いが生じれば、最悪の場合、大切なひとを失うことだってありうる。
「だが、世界はそうは見ない。そうは受け取らない。おまえの神殺しを知った神々は、ますますおまえへの憎悪を募らせ、忌み嫌い、討ち滅ぼさんとするだろう。この世界に召喚された神々だけではない。百万世界のすべての神々が、おまえを知ったのだ」
マユリは、極めて冷酷な声音で告げてきた。これまで聞いたこともない、底冷えのするような声色。セツナは、マユリの態度の変化と、言葉の意味することに肝の冷える想いがした。
「え……?」
「おまえが魔王の杖を用い、神を殺したその瞬間、百万世界の神々はおまえを認識した。おまえの存在を。おまえの名を。おまえの魂を。認知し、把握した。おまえが今世の護持者であり、魔王の杖の使い手であると、知ったのだ。知ってしまったのだ」
女神はゆらりと立ち上がり、動力装置から飛び降りてきた。まばゆい光を帯びた女神の飛翔と降臨はあまりにも優雅で、セツナが思わず見取れ、腰を上げてしまうほどだった。降り立ったマユリは、膨大な光輝を拡散させながら、その光の乱反射の中を歩いてくる。
「おまえは、いまや億千万の神々の敵となった。戦うべき、斃すべき、滅ぼすべき最大の悪となったのだ。百万世界における極悪そのものとなったのだ」
思わず立ち上がったままのセツナの顎に、マユリが伸ばした指先が触れる。そのとき浮かべたマユリ神の微笑みは冷笑にも近い。
「はっ……」
セツナは、マユリの指先から逃れるように後退すると、女神の圧力を撥ねのけるように見つめ返した。女神は、セツナを試しているのだ。真意はわからないし、なにを目的としているのかも不明だが、どうやら、そうらしい。だから、というわけではないが、セツナは、膨大な輝きを放つ金色の瞳を見つめ、問いかけた。
「あなたも、俺の敵になるのか?」
すると女神は、一笑に付した。
「……なにを馬鹿なことを」
マユリ神は、苦笑とともに表面に現れていた冷酷さを掻き消してしまった。それだけで彼女が纏っていた威圧感や重厚感といったものが形を潜め、いつもの親しみやすい、柔らかな空気感へと変わっていった。光背も消えて失せた。
「約束しただろう、セツナ。わたしはおまえたちの希望となる、と。たとえ億千万の神が敵になろうとも、百万世界そのものが敵に回ろうとも、わたしはおまえたちの味方だ。わたしとこいつだけは、おまえたちの敵には回らない。おまえたちが本願を成し、この世界を――いや、百万世界を呪詛から解き放つのを助ける。それがわたしの存在意義だ」
「マユリ様……」
セツナは、マユリ神の真に迫った発言に心を打たれ、言葉を失った。
この目の前にいる少女の姿をした希望を司る女神は、前々からそうだったが、セツナたちになぜこうまで協力的なのだろうか、と、考えてしまう。ただ協力的なだけではない。献身的ですらあり、ときに、セツナはマユリの優しさに触れて、感動のあまり泣きそうなってしまうくらいだ。それは、セツナひとりの意見ではない。ミリュウたちも皆、マユリ神を優しさの塊のように捉えていた。
マユリ神の気遣いや献身ぶりがこの方舟を包み込む優しい空気感に現れている。だから、セツナたちは、戦いに専念できるのだし、ゲインやミレーユのような非戦闘員も心豊かに日々を過ごすことができている。
「ただ、おまえの覚悟を聞きたかったのだよ。これから先、おまえの戦いはますます激しく、苛烈なものになっていく。神殺しの業が、おまえ自身を追い詰め、おまえから未来を奪い去ろうとするだろう。わたしはわたしにできる限りを尽くし、おまえに助力すると誓うが、それだけではどうにもならないこともある。今回のように」
「今回……? ああ、因果律云々の話か」
「わたしの与り知らぬところでおまえの存在が掻き消されては、手の施しようがない。この度はどうにかなったようだが……つぎも上手くいく保証はないのだぞ。くれぐれも、注意せよ」
「注意ったって……なあ」
マユリ神の忠告はありがたく受け取りたいのだが、しかし、注意のしようがなかったのも事実だった。セツナがモナナ神の攻撃を受けたのは、敵方舟に乗り込んだ直後で、前触れというものがなかった。攻撃を回避する余地がなかったのだ。敵地に乗り込むのと同じなのだから、細心の注意を払って突撃するべきだ、というのもわかるのだが、注意していたところでモナナ神の攻撃を回避できたかというと、疑問の残るところだ。因果律から消失するような攻撃をどう対処すれば良かったというのか。
元に戻ることができた原因も、実際のところはよくわかっていない。気がついたときには、復活していた。因果律からの消失は厳密には死とは異なる現象だったから復活できた、ということはなんとなくわかるのだが、なにが原因だったのか、どういう風に復活したのかは、把握できていなかった。
「神が敵である以上、どのような手を使ってくるかわかったものではないのだ。そのこと、肝に銘じておくように」
「それは……はい」
セツナは、反論を述べることを諦め、うなずいた。女神の意見はもっともだったし、ぐうの音も出ない正論以外のなにものでもなかった。確かに、いつなにがあるのかわからないのだから、常に気を巡らせ、神経を研ぎ澄ませておくべきだ。対応が遅れて命を落とすようなことがあっては意味がない。
マユリは、セツナの脇をすり抜けるように移動すると、機関室の椅子のひとつに腰掛けるようにして見せた。そして、右腕の一本でセツナを手招きし、もう一本で隣の席を指し示す。四本腕の上手い使い方だ、とセツナは感心しながらも、女神の望む通りにした。いつだってこちらの望みのままに行動してくれる女神だ。たまには、彼女の希望を叶えるのもいいだろう。
セツナが隣の席に腰を下ろすと、女神は満面の笑みを浮かべた。そういうところが人懐っこい子犬のようだといわれる所以だろう。
「ところで、話は変わるが……おまえはなにをしにここにきた。今日の戦いで限りなく疲れ果てているのは、見ればわかるぞ」
「えーと……それはだな」
「おまえは人間だ。わたしのように不眠不休では、生命活動に支障が出よう。休めるときに休んでおくべきではないか。というより、休め。でないと、わたしがミリュウに怒られる」
「そこが重要なのかよ」
セツナが呆れると、女神はむしろ当然のようにいってきた。
「うむ。ミリュウは怒らせると怖いのだ」
「マユリ様でも恐れることはあるんだな」
「うむ」
女神は小さくうなずいた。そして、おそるおそるとでもいうように、いった。
「……友に嫌われるのは、怖いな」
「友……か」
「うむ。ミリュウもファリアもエリナも、わたしの友だ。神が人間の友を持つのは、おかしなことだと想うか?」
「そうは想わないよ」
「だろう」
女神は嬉しそうに笑うと、セツナの頭に手を伸ばしてきた。セツナは、マユリ神のされるままに頭を撫でられたが、決して悪い気分はしなかった。女神に悪意も他意もないからだ。
「……わかったぞ。眠れぬのだな?」
「それもある」
「む? ほかにもあるのか?」
「あなたに感謝しなければならないと想って」
「ふむ? 感謝の言葉は聞いたぞ。さんざんな。身を粉にして働いた甲斐があったものよ」
「それでも足りないくらいですよ、マユリ様……」
セツナは、マユリ神の目を見つめ、しっかりと感謝の言葉を伝えようとしたのだが、言葉が続かなかった。視界が暗くなっていき、不安定に揺れる中で、女神の声だけが聞こえていた。
「よいよい。いまは眠れ。セツナ。ゆっくりと、たっぷりと、良い夢を見よ――」
優しくも穏やかな声は、まるで慈母のようであり、セツナは心地よさの中で意識を失っていった。