第二千二百四十三話 女神と
自室を出ると、通路になる。
船内の通路は、余程のことがない限り、昼夜問わず、常に照明がついている。全階層とも、通路は船外の光を取り入れるための窓がないため、朝でも昼でも暗いからだ。とはいえ、昼間は極めて明るい照明も、夜となるとその雰囲気を壊さないためか、あるいは雰囲気を盛り上げるためか、穏やかなものへと変えられた。
そういった船内照明の明るさを制御しているのは、無論、方舟の全動力を支配する女神マユリだ。もっとも、常に明るさの制御に集中しているというわけではない。方舟は、極めて高度な機械仕掛けの飛行船であり、ほとんどの機能が機械的に制御することができるということだった。つまり、照明の明度も機械によって制御できるらしく、その設定をしたのが、マユリということだ。
マユリは、方舟の機構をほとんど完全に把握しているとのことであり、そのためだけにかなりの時間を費やしたという話だ。神ですらそれなりの時間を必要とする複雑な機構だそうだが、ネア・ガンディアは、そんなものをどうやって建造し、量産しているのか、まったく想像もつかない――とは、マユリ神の談だ。神ですら、これほどの飛行船を作り上げるのは、至難の業だという。
そもそも、空を自由に飛び回れる神々にとって、空飛ぶ船を作ろうと思い至るわけもない上、複雑な機構を作り上げる利点もないため、そういった発想すらありえないのだろうが。
いずれにせよ、この方舟は、一柱の偉大なる女神によって支配されている。
そして、その女神は、先ほどの戦いにおける勝利の立役者でもあり、セツナが機関室に足を向けたのも、そのためだった。
セツナたちの自室が集中する居住区は、方舟の上層にあり、機関室は下層の奥まったところに位置していた。上層から下層に行くには、二通りの方法があり、ひとつは階段を降っていくというこの世界においても一般的な方法であり、もうひとつは、この方舟が技術の粋を結集して作り上げられたものだということがよくわかる方法だった。
昇降機を使うのだ。
船内各所に設置された、自動扉に仕切られた箱形の空間がそれであり、乗り込み、行きたい階層の起動装置を押せば、自動的に指定した階層まで上り下りしてくれた。方舟内の移動は、これがあるかないかで随分と勝手が違う。なぜならば、とてつもなく広く、階段での上り下りだけでは疲れ果てるからだ。
昇降機は、方舟内のほかの機構、機能と同じく、神威を動力としている。厳密にいえば、神威を動力に変換したものであり、神威とは大きく異なるもののようだが、セツナたちが認識する上では神威でも構わない、とのことだ。
セツナは、居住区の昇降機を使って下層に降りると、疲れの取れきっていない足を引きずるようにして機関室に向かった。
機関室までの道のりは、複雑でもなんでもない。通路をただまっすぐに進めばいいからだ。しかし、そのただまっすぐ歩くだけが、いまのセツナには辛く厳しいものがあり、彼はたびたび引き返そうかと思ったほどだった。だが、それもある程度進めば、引き返すほうが辛いだろうという現実に直面し、前進する以外の選択肢はなくなっていくのだが。
やがて機関室の扉が見えてくると、彼は疲労を堪え、前に進むことに集中したものだ。いつも以上の集中力には、内心、呆れるほかなかった。
「おまえがひとりでここを訪れるとは、めずらしいこともあるものだ。明日世界が滅びるかもな」
機関室の扉が開くなり飛び込んできた言葉が、それだった。セツナは渋い顔をしながら扉を潜り、機関室の中心に備え付けられた機材の上に鎮座する女神を仰ぎ見た。女神マユリは、相変わらず神々しくも美しい姿でそこにある。金細工も美しい装飾品で頭髪を飾り、同じように全身を着飾っているのは、それがマユリ神の想像図だからだという。少女染みた美貌に均整の取れた肢体も、マユリ神を望んだひとびとの祈りの具現であるのだ、と。無論、その背後に眠るマユラ神との一体化も、祈りの具現なのだろう。
「笑えねえ冗談だ」
「む?」
「なんだよ」
「おかしい……」
「なにがおかしいんだか」
セツナは、マユリ神が難しい顔をして首を捻る様を見て、苦笑するほかなかった。マユリ神としては、笑える冗談のつもりだったのもしれない。が、当然のことだが、世界が滅びる云々で笑えるセツナではない。
セツナは機関室に備え付けられた椅子に腰を下ろし、伸びをした。眠気がないわけではないが、眠れそうになかった。全身の痛みや疲労が眠りを妨げるのだ。それ故、つい先ほど覚醒してしまったというわけだ。
「まあ、よい。それでセツナよ。おまえがここを訪れた理由はなんだ? 船ならば順調にザルワーンを目指しておるぞ。ただ、無理が祟ったのか、あまり速度を出せぬがな」
「どういうことだ?」
セツナは、マユリの思わぬ発言に目をぱちくりとさせた。
「おそらく、ネア・ガンディアの方舟に体当たりをぶちかましたのが原因だろう。敵船を直接攻撃するため防御障壁を中和したのだがな、そのためにこちらの方舟の護りも手薄になってしまった」
「見た目には、被害は見受けられなかったが?」
セツナは、脳裏に夕焼けに照らされた方舟を思い浮かべて、質問した。戦後、セツナが見た方舟の外観には傷ひとつ見当たらなかった。
「外観にはな。だが、内部には結構な被害が出ておるのだ。わたしはおまえたちがマイラムに立ち寄っている間中、ずっと修理に奔走していたのだが……こういう細かい作業は専門外でな」
「専門の神様とかいるのかよ」
「いないはずがあるまい。神は、ひとの祈りより示現するものぞ」
「……まあ、そうか」
それはつまるところ、祈りの数だけ神がいるということでもある。希望の神がいれば絶望の神がいるように、刀工の神もいれば、鍛冶の神もいて、技術の神もいるだろうし、機械技術を専門とする神がいたとしても、なんら不思議ではない。
(八百万の神……とは、ちょっと違うか)
祈りの数だけ神がいるというのは、すべてのものに神が宿るという考え方とは、まったく別物だろう。
マユリ神が腕組みした。
「そもそも、この方舟は神も知らざる智慧で作られていると、わたしは見ている」
「神も知らざる智慧……?」
「触れ得ざるもの――というべきか。神々にとっても禁忌とされる知識のことよ。神の力たる神威を動力へと変換する機構があり、それによって船が動いているということがその証だ。神に祈り、神に願い、神に望む弱者である人間が、一方的に神を利用するなど、恐れ多いことだとは想わぬか?」
マユリ神の言い分もわからないではなかったが、セツナは、微妙な気分に鳴らざるを得なかった。
「……まあ、ね」
なぜならば、既に神を利用しているという自覚があるからだ。龍神ハサカラウはもちろんのこと、マユリ神だって、そういう部分がないわけではない。女神の善意を思い切り利用しているという後ろめたさがある。
「ふむ……そういえば、おまえは神をも畏れぬ、神の敵であったな」
「はは……どうも」
マユリ神のどこか面白そうなものでも見るようなまなざしに対し、セツナはどのような反応をすればいいのかわからず、言葉を濁した。すると、マユリ神は目を細め、組んでいた腕を解いた。
「セツナよ。黒き矛の、魔王の杖の護持者よ。わたしはおまえに問おう」
女神は、極めて冷ややかに見つめてくる。
「神殺しを成した気分はどうだ」
いつになく冷たく輝く金色の瞳は、セツナにある種の緊張感を与えた。マユリ神がそのような真に迫った質問を投げかけてくることなど、これまでほとんどなかったからだ。
マユリ神は、いまやセツナたちにとって大切な仲間のひとりのような位置づけになっていた。