第二千二百四十二話 愛情表現
全身を苛む痛みに身を捩らせながら瞼を開けて、彼は、いまのいままで現実とは別のところに意識を持って行かれていたのだと気づいた。
(夢……か)
そう、それは夢だ。現実とは隔絶された夢想の世界。しかし、ただの夢ではない。過去の記憶から再構築された映像であり、情景であり、情報の数々は、現実と遜色なく彼の意識を苛み、苦痛をもたらし、あるいは、勝利の実感を再確認させるに至った。もっとも、その過去の記憶さえも極めて夢想に近く、虚構の城のようなものなのだが。でなければ、ばらばらになった肉体を瞬時に再構築することや、死んで蘇るようなことなどあろうはずもない。
とはいえ、その夢想は、現実ではなくとも真実に限りなく近いものでもあり、故にこそ彼は、こうしてこの現実を生きていられるのだから、なにもいうことはないだろう。
ここでいう夢想とは、地獄での修行の日々のことだ。
地獄という名の虚構の城。
だがしかし、その虚構の城での経験は、決して嘘偽りではなかった。彼の肉体は、地獄での二年余りに及ぶ血反吐を吐くような修練によって、以前とは比べものにならないほどに鍛え上げられていた。もし仮にあの地獄の日々がただの夢想に過ぎなければ、彼の肉体は、見違えるほどにみすぼらしいものになっていただろう。筋肉とは、常に鍛えていなければ維持できないものだ。エインやドルカが痩せていたように。彼とて例外ではない。例外があるとすれば、二年前となんの変化もなかったシーラや、すぐに回復して見せたレムだが、そのふたりも特例中の特例だろう。シーラは、ハートオブビーストこと白毛九尾が彼女を護っていたからであり、レムは、彼女自身が特異な存在だからだ。常人である彼が、彼女たちのような特別扱いを受けるわけもない。
つまり、夢は夢ではなく、現実だったということだ。
塔へ至るまでの試練も、塔へ至った後の試練も、すべて、現実だった。
そうして強くなったはずだというのに、と、セツナは拳を作り、苦痛に顔を歪めた。全身の痛みは、ネア・ガンディア軍との連戦に際し、自身を酷使した結果であり、自業自得といえばそれまでのことだった。しかし、これほどまでに肉体や精神を酷使しなければ倒せない相手ばかりが敵となって立ちはだかるなど、彼にしてみても想定外のことだった。
強くなったはずだ。
限りなく肉体を鍛え、精神と鍛え、武装召喚術の使い手としても二年前とは比べものにならないくらい、強くなったはずなのだ。実際、素の身体能力も遙かに向上し、戦竜呼法を用いれば超人的な能力を発揮できる上、武装召喚師としての実力も高まっている。これまで、召喚武装は黒き矛ひとつ使うだけでも手一杯で、複数同時併用するとなるととてつもない消耗を覚悟しなければならなかったが、いまでは、複数同時併用が普通になっているくらいだ。それがどれほどの修練の成果であるか、優れた武装召喚師であるファリアやミリュウなどは、いうまでもなく理解してくれている。だからこそ、ふたりともセツナの実力を一切疑わず、全幅の信頼を寄せてくれているのだ。
なのに、神や獅徒を相手に圧倒するには、さらなる力が必要だという可能性に直面し、セツナは、渋い顔をせざるを得なかった。無論、地獄の修行が無意味だった、などと想っているわけではないし、あの時期に地獄を脱し、地上に舞い戻ったのはちょうどよかったということも理解している。それでも、と、想わざるを得ないのは、ザルワーン方面での戦闘における同盟軍の損害があるからだ。同盟軍が甚大な損害を被ったのは、ひとえにセツナが敵指揮官の早期撃破という作戦目的を遂行できなかったからにほかならない。
もっと力があれば。
(いや、違う……)
もっと、完全武装を有効に長期的に利用することができるようになっていれば、ああはならなかった。完全武装状態になれば、モナナ神程度の神であれば翻弄できることがわかったし、獅徒も圧倒できたのだ。最初から完全武装状態に移行することさえできていれば、あそこまで被害は出なかったのではないか。
しかし、開戦と同時に完全武装を頼るのは、少々不安があった。なにせ、相手の力量がよくわかっていないのだ。もしかすると、モナナ神もミズトリスも、完全武装で圧倒しきれないくらいの力の持ち主かもしれない。そんな相手に燃費の悪い完全武装で挑みかかれば、最悪、セツナが先に力尽きることだってありうる。様子見から入らざるを得なかった。さらにいえば、ザルワーンの戦いの後、ログナーに飛ばなければならないという前提があった。ログナー島まで飛んでいくには、余力を残す必要があり、故に安易に完全武装を使うわけにはいかなかったのだ。
もっと、完全武装状態を長時間使えるようになっていれば、最初から全力全開で挑むことができただろうし、同盟軍の被害も抑えることができただろう。
つまり、完全な力不足だ。
ゆっくりと息を吐く。暗闇が視界を覆う中、いくつもの呼吸音が聞こえている。馬車の中なのか、と想ったが、どうやらそうではない。セツナの体は揺れていないし、椅子に腰掛けてもいない。寝台の上にあり、掛け布団が乗せられているという状態だ。おそらく、方舟内のセツナの部屋にある、彼の寝台の上だ。馬車の中で眠りに落ちたセツナをレムかダルクス辺りが運び込んでくれたに違いない。
だとすれば、どうして他人の呼吸音が聞こえるのか。考えるまでもない。ミリュウがセツナの寝台に潜り込み、そのまま寝てしまったのだ。右腕に押しつけられるような肉感は、彼女の豊かな胸の感触のようだ。押しつけてきているわけではないが、結果としてそうなってしまっている。左を見れば、エリナがいる。ミリュウに比べれば主張のおとなしい体つきではあるが、二年前に比べて成長した彼女は、少女ではなく女として認識せざるを得まい。とはいえ、彼女の幸福そうな寝顔を見れば、そんな生々しい考えも霧散するが。
「お早いお目覚めでございますね、御主人様」
「レムか……っておい」
セツナが驚いたのは、レムが頭上から覗き込むようにしてその顔を近づけてきたからだ。セツナが寝ているのは寝台で、寝台は壁際に設置されている。レムがどうやってセツナの顔を覗き込んできているのか、即座にはわからなかった。
「なんでございましょう?」
「なんなんだ?」
「膝枕……でございますが? お気に召しませんでしたか?」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
レムの膝枕そのものは、決して悪くはない。十三歳の少女のまま成長をしていないため、肉付きがいいというわけではないが、だからといって寝心地が悪いわけではないのだ。ただ、セツナにはどうしても解せないことがあった。
「おまえも疲れ切ってるだろうに、休みもせずになにやってんだよ」
ウェゼルニル戦におけるレムの活躍については、ミリュウやエリナだけでなく、シグルドたちからも賞賛の声が上がっていた。”死神”とともに果敢にも攻め立て、十体にも及ぶウェゼルニルの分身を殲滅する起点となったという。その際、レムと”死神”たちが黒き矛と六眷属に似た武器を用いたという話も聞いているが、それについてはセツナも実感があった。完全武装状態だったことが、レムに影響を及ぼし、彼女の力をさらに引き出した、ということだろうか。
いずれにせよ、そこまでしたレムの消耗は想像するまでもなく膨大に違いなく、いまもこうして起き続けていることがセツナには心配でならないのだ。
「御主人様の愛情に心打たれまして……それで、なにかしら恩返しをしたいと想った次第でございます」
「愛情?」
「ウェゼルニル様との戦いの最中、窮地に陥ったわたくしを救ってくださったではありませんか」
マスクオブディスペアの能力を介し、レムを援護したことをいっているようだった。
「……ああ、そのことか。それで恩返しか」
「はい。わたくしよりも御主人様のほうがずっと疲れ果てられておいででございますし……少しでもお力になりたくて」
レムは、愛情をたっぷり込めたまなざしでセツナの目を覗き込んできながら、その細い両手で顔を包み込むようにした。優しくも穏やかな気持ちになるのは、彼女の愛情に嘘偽りがないことがわかるからだろう。
「だったら、寝ろ」
「はい?」
「寝て、休んで、心身ともに回復させるんだよ。そうして、今後、俺の力になってくれればいい」
「御主人様……」
「いいな。おまえは寝るんだ、レム」
「はい……」
ぼんやりとし始めた彼女の顔を見て、セツナは、ミリュウとエリナの腕の中から両腕を解放させると、重力に従って落下してきたレムの上半身を受け止めた。戦闘によって消耗し尽くしたいまならば、レムの意識を支配することは容易いのだ。レムは、不老不滅だ。肉体的にはいくら傷ついても、立ち所に回復してしまうという特性を持っている。しかし、精神はどうか。”死神”を用いるたび、回復するたび、消耗し、削り取られているのではないか。魂は無限の力を持っているのか。精神は、無制限に消耗し続けても問題ないのか。そういったことを考えると、彼女に無理ばかりさせることはできなかった。だから、セツナは、強引にでも彼女を休ませることはできないかと思案し続けてきた。その答えが、いまの精神支配による意識の操作だ。
それは、彼女がセツナと特別な絆で結ばれた存在だからこそできる芸当であり、だれにでも作用するものではない。そんなことができるのであれば、だれにでも作用するのであれば、戦わずして勝利することも容易くなるが、そういうわけではないのだ。セツナと生命の糸で結ばれたレムだけが、彼の精神支配の影響を受ける。そして、それも常にではない。レムが万全の状態であれば、セツナがどれほど強く念じようとも撥ね除けられ、彼女の意思が優先されるのだ。つまり、作用したということは、それだけレムが精神的に消耗しているということでもあり、なんとか布団から抜け出したセツナは、彼女を寝台に横たえながらその労をねぎらった。
無論、ミリュウとエリナにもだ。
彼女たちの働きがログナー方面の解放に繋がったのは紛れもない事実であり、セツナは、部屋を出る間際まで彼女たちを見守り続けた。




