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第二千二百四十一話 欲望の果て

 世界中のありとあらゆる罪、穢れを集めたようなどす黒い汚濁の如き欲望の海そのものが跡形もなく消え去れば、残るのは黒い大地だ。磨き抜かれた宝石のような輝きを発したのは、うずたかく積み上がった暗雲の狭間を雷光が駆け抜けたからにほかならない。天地を震撼させるほどの雷鳴も、海水の詰まった耳には遙か彼方で鳴った小さな物音でしかなかった。その海水も、口や鼻から入り込んだ汚水のようにやがて体に浸透し、細胞に溶け込み、原子よりももっと細かなものとなり、体の一部になっていく。

「違うな」

 ようやく吐き出した言葉には、汚水も混じらず、刺激臭も破壊的な痛みも伴わなかった。すべてが順調に純化し、順応していることがわかる。この世界を満たしていた欲望は、すべからく彼のものとなったのだ。

「これは俺の欲望だ」

 ランスオブデザイアがいっていたとおり、この世界を満たしていた欲望を意味する汚水は、なにもかもすべて、余すところなくセツナの欲望そのものだった。それを理解し、取り込んだからこそ、セツナは、ランスオブデザイアによってばらばらにされたはずの肉体を取り戻し、さらなる力をも得た。

 これが、試練。

「俺の……」

 欲望。

 セツナは、元に戻った以上の力を実感しながら、手の感覚を確かめた。手を開き、握りしめる。指先まで神経が行き渡り、あらゆる感覚が冴え渡っている。まるで召喚武装を手にしているような感覚だった。五感の肥大と鋭敏化がまさにそれだ。しかし、実際には召喚武装など手にしていなければ、補助を受けてなどいなかった。つまりこれは、欲望の海を取り込んだ結果だ。

 大地を見下ろしているのも、そうだ。

 セツナはいま、遙か上空に浮かんでいた。欲望の海を吸い込み、肉体を取り戻すと、力が湧いた。その力を思うままに解き放ったところ、空に浮かぶことができたのだ。まるで魔法のようだ。自由自在に空中を移動することができたし、速度もいくらでも早くできた。飛行速度に際限がないのは、きっと、欲深さの現れなのだろう。

 彼がいったように。

 もちろん、空を飛んで目指すべき場所は決まっている。

 ランスオブデザイアの待つ祭壇に向かわなければならない。ランスオブデザイアを倒し、鍵を手に入れることがこの試練の趣旨なのだ。すべての鍵を手に入れなければ、試練は終わらない。試練を終えることができなければ、現実に還ることもできない。

 いや、それは少し違う。

 還ることができたとしても、試練を終えていなければ意味がないということだ。

 きっと、この試練を突破しなければ、黒き矛は彼を主と認めてくれないだろう。となればどうなるか。簡単なことだ。なにもできなくなる――というのは言い過ぎにしても、以前のようにはいかなくなるだろう。目的も果たせなくなる。だれひとり護れなくなるかもしれないし、だれひとり、幸せにできなくなるかもしれない。

(それは嫌だな)

 それは、自分が自分ではなくなるということに等しい。

 存在意義の否定そのものといってもいい。

(俺はまだ、だれも幸せにできていないんだ)

 だから、この試練を突破し、現世に還らなければならないのだ。そして、かつて幸せにすると誓ったひとたちとの約束を叶えなければならない。でなければ、死んでも死にきれないのだ。

「まだ、そんなことをいっているのか」

 声が聞こえたのは、セツナが祭壇のあった場所に接近していたからだ。祭壇のあった大地は、この世界の大半を覆い尽くしていた汚濁の海が消失したことで、黒い大地の中でも丘陵地帯のようになっていた。そこにランスオブデザイアの破壊跡があり、祭壇は爪痕のすぐ近くにあった。そしてランスオブデザイアは、祭壇につまらなそうに腰掛けていたのだ。

「ランスオブデザイア」

 セツナは、彼の名を口にしながら、その目の前に着地した。メイルオブドーターの飛行能力を駆使するよりもずっと簡単でずっと速く飛行できた上、消耗も少なく、セツナはなんだか万能超人にでもなったような気分で、だからこそ、ランスオブデザイアとの対面に際しても強気だった。ついさきほど完敗した事実がまるで嘘のように思えるのだから、不思議だ。

 ランスオブデザイアはというと、やれやれとでもいうような態度で祭壇から腰を上げると、祭壇に立てかけていた大槍を手にした。くるくると槍を回転させながら、こちらに向き直る。

「貴公は自分の立場というものがよくわかっていないようだ。まるで、まるで自分に力があると想っている。黒き矛の、カオスブリンガーの力が自分の力だと、想っているのではないか? それは勘違いだ。自惚れも……自惚れも甚だしい」

「だから、ここにいるんだろ」

 セツナが彼の発言をすべて肯定してみせると、さすがの彼も予想外だったのだろう。険しい顔つきになった。

「なんだと?」

「俺は、黒き矛を自分の力にするために、ここに堕ちてきたんだ」

「それは……傲慢だな」

 ランスオブデザイアはそういって冷笑した――のではなかった。いや、冷笑しようとしたのだろうが、途中でなにかに気づき、そして、セツナを見た。

「ふ……くくく……ははは……なるほど。そういうことか。そういうわけか。わかった、わかったぞ。なにゆえ、なにゆえあのお方が貴公を主と定めたのか、召喚者と認めたのか、契約を結んだのか……いま、ようやく、やっとのことで理解した。把握した。認識したぞ」

 唐突に熱を帯びていったランスオブデザイアの反応にセツナは戸惑いを隠せなかった。

「なんだよ、突然」

「なるほど……貴公は、似ているのだ」

「は?」

 セツナは、まぶしいものでも見るように目を細めたランスオブデザイアにきょとんとした。彼の反応はなにからなにまで意味がわからない。セツナの質問にも答えてくれず、自己完結している。

「似てるって、だれにだよ!」

「いずれわかる。わたしを倒せたら、の話だがな」

 彼が槍を構えたときには、セツナの右手には黒き剣が出現している。召喚したわけではない。望んだ瞬間、現れたのだ。セツナはその瞬間、力の使い方を理解した。欲望がこの世界を動かす原動力なのだ。

「倒すさ。いますぐにな」

「はっ……いうようになった。それでこそ、それでこそだ!」

 ランスオブデザイアが掲げた大槍の穂先が、けたたましい金切音とともに高速回転することで大気を巻き込み、物凄まじい竜巻を発生させた。その大竜巻を直接叩きつけてくるかのようにして槍を振り下ろしてきたのを目の当たりにして、セツナはその規模の大きさに苦笑しながらも避けようともしなかった。ただ左手を翳し、望む。すると、ランスオブデザイアが発生させた竜巻は霧散し、男は槍を振り下ろしただけに終わった。当然、槍は範囲外のセツナに届くはずもなく空を切る。

「ようやくわかったよ」

 セツナは、ランスオブデザイアが見せた隙にも突っ込まず、悠然と剣を構えた。その余裕に満ちた態度がランスオブデザイアの神経を逆撫でにすることを期待したが、しかし、彼は挑発には乗らなかった。ただ槍を返し、構え直しただけだ。

「あんたは、欲望の化身。そしてここは欲望の世界」

 暗雲立ちこめる空も、黒々とした大地も、大地を満たしていた汚濁の如き大海原も、すべて、欲望を象徴しているのだ。

「認めるさ。この世界を満たしていたあれは、俺の欲望だった。俺の欲望そのものだった。海に溺れて、理解できたよ。あんたのおかげだ。そしてその欲望すべてを飲み込んだいま、俺は、この世界においては無敵」

「では、その無敵の力、見せてみろ」

「ああ、いいぜ」

 踏み込み、剣を振り抜く。ただそれだけの動作が通常の何十倍以上の速度で繰り出されたことが感覚として、理解する。理解したときには、ランスオブデザイアの体を袈裟懸けに切り下ろしていた。大槍が空を切る間もなく、だ。一瞬にも満たない――刹那にすら届かない、極めて短い時間の出来事だった。セツナ自身、そこまでの速度を体感したこともなく、故に手の中に残る斬撃の手応えさえ、幻のような希薄さで漂い、消えて失せた。

 金属音が聞こえた。ランスオブデザイアが大槍を手放し、地面に落下したのだ。冴え渡る感覚が周囲の情景を脳裏に映し出している。

 ランスオブデザイアが、袈裟懸けの切り口から血ではなく、黒い闇そのものを噴き出させながら、崩れ落ちていく。その闇は、彼が人間ではない証明であり、また、セツナの斬撃が致命的な一撃となった証でもあるだろう。

「……そうだ。そうなのだ。まずは認めることなのだ。己の欲望を認め、受け入れ、そして、支配せよ。でなければ、欲望の海の底で藻屑となるがさだめ。この世は、欲と業に満ちあふれている。だが、欲深きことは、悪か? 欲を持つことは、それほど悪いことなのか?」

 ランスオブデザイアの自問のような問いかけには、セツナは答える言葉を持たない。

「違う。問題は、欲を支配できるかどうかだ。己の欲を支配できぬものは、己の欲に溺れ、堕ちていくだけだ。しかし、己の欲を支配するものは、他人の欲をも支配し、世界をも支配する権利を得る。貴公もようやく、世界を支配する権利を得たのだ」

 ランスオブデザイアが伸ばした手の先に闇が凝縮していく。

「これが始まりだ。すべての」

 手のひらに凝縮した闇は、やがてひとつの形を成した。黒く禍々しいそれは、黒き矛にも似ていたが、よく見れば探し求めていた鍵のようだった。

「貴公の覇道のな」

「覇道……?」

 セツナは、ランスオブデザイアがなにをいいたいのか理解できず、当惑した。覇道など、セツナの歩むべき道ではないことくらい、彼が一番よくわかっている。しかし、ランスオブデザイアは、自分の言葉に確信を持っているようなのだ。それが、不可解極まりない。

「俺の覇道……ねえ。そんなものに興味はねえが、これはありがたくもらっていくぜ」

 彼の手のひらから鍵をかっさらうと、ランスオブデザイアはどこか嬉しそうに微笑んだ。

「いずれわかるさ」

「あんた、そればっかりだな」

「ふふふ……」

 苦笑なのか失笑なのかわからないが、ランスオブデザイアは、ただ笑いながら影のように消えていった。

 そして、扉が目の前に出現する。

 余韻も残さない扉の出現には、セツナも眉根を寄せるしかなかった。

 第一の試練は、見事突破した、ということだ。

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