第二百二十三話 風と遊ぶ
空は、晴れていた。
国境突破時の雷雨が嘘のように、連日快晴が続いている。見渡す限りの青空は気持ちいいばかりで、流れる雲も心地よさそうに泳いでいるように思える。直射日光はさすがに暑いのだが、それさえも爽快に感じるのは、風のおかげだろう。
彼は、バハンダールの遙か上空を泳いでいる。
空を泳ぐとき、彼は、自分がなにものなのかわからなくなるときがある。
翼を広げ、大気の流れに身を任せるうちに、意識が空に融け、雲に混じる。大空そのものになってしまったような錯覚に襲われ、それを受け入れると、しばらくは元に戻れなくなる。酷いときは、半日ほど空をたゆたい続けたこともあった。そういう場合、精神が消耗しきってようやく現実を取り戻すのだが、高度によっては命を落としかねないのが恐ろしいところだ。
肉体という魂の容器から抜け出した精神は、望むままに自然との同化を果たす。だが、それは錯覚なのだ。彼はどんなときも彼であり続けたし、魂が肉体を遊離するようなことはなかった。
召喚武装を身に纏うが故の副作用というべきか。
武装召喚師は、召喚武装を手にすると、感覚の肥大という現象に直面する。召喚武装により五感が強化されるということであり、それにより武装召喚師は超人的な力を持つに至る。
普通、召喚武装の形状というのは、ありふれた武器に似ている。セツナのカオスブリンガーは黒き矛の異名通り漆黒の矛だったし、ファリアのオーロラストームは異形ではあったが弓を意識した武装だというのがわかる。武器と接するのは、手や腕くらいのものだ。
だが、彼の召喚武装は、およそ一般的な武器とは趣を異にするものだった。
純白のマントである。普段身に付けていても別段おかしくはない意匠であり、意味もなく召喚して装着することもあった。もっとも、無意味な召喚は無駄に精神を消耗するだけなのだが。
マントは、彼の全身を覆った。肉体の表面積のほとんどが召喚武装に触れているといっても過言ではなく、ゆえに感覚の肥大が暴走を起こすのではないか、というのが彼の師の推測だった。もちろん、マントの下は裸ではないのだが、衣服の上、鎧甲冑の上から纏ってみても同じことだった。
意識が空に融けるというのは、修行時代からの悩みでもあったのだ。
とはいえ、ここ数ヶ月、意識が空に溶けるほどゆったりと空を泳いだことはなかった。それもこれも、セツナ=カミヤとの出逢いによって彼の運命が激変してしまったからだ。
ガンディオンでの遭遇は、セツナが皇魔と戦っている最中だった。その出会いのおかげもあり、彼はガンディア王家に仕えることができた。長い間夢見てきたことが一瞬にして叶ってしまったのには驚くよりも、喜びのほうが大きかった。王家の役に立ちたい。バルガザール家に生まれ落ちた彼には、それしかなかったのだ。それだけのために武装召喚術を学び、自身を鍛え抜いた。無論、鍛錬するだけで、ただ漫然と士官の機会を窺っていたわけではない。将軍である父にも働きかけたし、騎士として王に直接目通りする資格を持つ兄にも武装召喚師としての実力を主張してきたのだ。しかし、それらは上手くいかなかった。当然だろう。バルガザール家の人間とはいえ、彼はまだ、なにも成していなかったのだ。だから、彼は待った。機会が訪れるのを待ち続けた。戦いが起これば、勝手に参加し、自分の実力を見せつけようとしたのだ。が、機会は思っていたよりも早く訪れ、トントン拍子に仕官が決まった。
王の名の下に最初に下された命令がセツナ=カミヤに変装することだったのが、いまでも記憶に残っている。初任務だ。忘れようがないともいえる。
セツナはログナーに潜入し、戦争に発展した。彼は、ファリア=ベルファリアとともにガンディア本土の防衛に当ってはいたが、小さな戦いさえ起きなかった。出番はなかったのだが、なぜか評価され、王宮召喚師を叙任されるという事態になってしまった。そして、王立親衛隊《獅子の尾》副長に任命され、いまに至る。
ルウファ・ゼノン=バルガザールは、空との同化を楽しむのもほどほどに、翼を翻した。シルフィードフェザーを広げて風の流れに乗っている間に、彼の体はバハンダールを北上し、湿原の上も通過するところだった。青々とした湿原に一本の細い街道が見える。湿原は陽光を反射して輝いており、数多の水溜りが自己主張しているかのようだった。歩行での踏破は辛いに違いないが、空中を飛行できるルウファには関係のない話だ。
そのまま風に乗り、北へ進む。
九月十九日。
バハンダールの制圧から四日が経過している。この四日、バハンダールは平和そのものだった。バハンダール市民のうち、メレド人の多くは、ガンディア軍に対して協力的であり、友好的だった。ザルワーン軍を撃滅してくれたことに感謝するものまでいたし、協力を惜しまないと公言するものも多かった。もちろん、バハンダールに住むザルワーン人のほとんどはガンディア軍に対して敵意を隠さなかった。小さな諍いもあったようだ。が、アスタル=ラナディースによるログナー軍人の統制は、レオンガンドによるガンディア軍の支配よりも余程厳粛であり、兵士たちが進んで問題を起こすようなことはなかったらしい。模範のような軍隊であり、普段からだらけているようなドルカの部隊ですら粛々としていたし、真面目そのものだった。
むしろ、《獅子の尾》のほうが緩みきっているといってもいいのではないか、とルウファは思わないでもなかった。隊長は、日課の訓練に没頭して周りが見えていないし、隊長補佐はいつものように雑務をこなす傍ら、そんな隊長の様子にばかり気を取られている。いや、仕事をこなしているのだから、なにも問題はないのだが。《獅子の尾》隊長の仕事とは、戦場で力を発揮することであり、そのために鍛錬に打ち込むのは悪いことではない。それに、隊長の健康状態を把握するのも隊長補佐の大事な仕事には違いなかった。
そして、副長であるルウファは、このシルフィードフェザーの能力のおかげもあって、バハンダール中を飛び回るはめになってしまった。仕事があり、必要とされるのはいいことだろう。それに、十分な休憩時間も与えられている。食事も美味い。なんら問題はないのだ。
(うん、なにも問題はない)
なぜか目の前が滲んで見えたが、気のせいだろう。
ルウファはいま、ログナー方面軍第三軍団長エイン=ラジャールの要請を受け、敵情視察を行おうとしていた。バハンダールの北部、ルベン付近に敵部隊が陣を築いているという報告があり、詳細を知るには地上からだけでなく、上空からも調べておくほうがいいだろうというのがエインの考えだった。エインは、セツナ投下作戦を提案したような少年だ。またしてもとんでもない作戦を立案するのではないかと不安になったものだが、敵情視察だけならば安心して請け負うことができた。戦う必要はない。敵に見つからないような上空から、敵軍の布陣を確認するだけでいいのだ。
もし、敵が攻撃してくるということがあれば、それは敵軍に武装召喚師がいるということにほかならないだろう。ルウファが飛翔しているのは、地上の人間には目視できるはずもない高度だ。ルウファは召喚武装の感覚強化によって、通常時よりも強化された視覚を得ている。同じようにこちらを視認できるのは、武装召喚師くらいのものだ。
そういう意味でも、ルウファが上空から敵陣を伺うのは有効だった。敵部隊に武装召喚師がいるのといないのとでは、戦い方も大きく変わってくる。武装召喚師は、それだけで強力な兵器だ。放っておけば、部隊が半壊しているということもありうる。武装召喚師には武装召喚師で当たるよりほかはなく、野放しにはできない。
(敵に武装召喚師がいて、召喚武装を手にしていたら、だけどね)
敵部隊に武装召喚師がいたとしても、召喚していなければ、こちらを視認することはできない。武装召喚師が常に召喚武装を弄んでいるはずもなく、召喚している可能性のほうが遥かに低いと見るべきだろう。
敵情視察の目的は、武装召喚師の有無の確認ではない。
街道を辿るように飛行し、道が二手に分かれている地点の上空に到達する。バハンダールから半日もかからない位置だ。とはいえ、バハンダールの街道は狭く、全部隊が勢揃いするには、半日はかかるだろうが。行軍時は、バハンダール侵攻時と違い、湿原を進むという手段を取る必要がないため、時間がかかってでも街道を進むことになるはずだ。わざわざ泥に浸かって汚れる必要も、ぬかるみに足を取られて転倒することもない。
分岐路を西に進めばルベンがあり、東に進めばヴリディア砦に至る。西進軍のつぎの目的地はヴリディアではなく、ビューネル砦であり、分岐路を東に進み、さらに北へ進路を取るということになる。行軍困難な地形があるわけでもなく、ビューネル砦までの移動に関しては問題ないだろう。
やがて、黒々とした人集りが見えてきた。とても旅人や商隊の集団などには思えない。陽光が反射するのは、彼らが甲冑を着込んでいるからだ。暑い中、敵襲を警戒してのことだろう。敵影を発見してから着込んでいては間に合うものも間に合わない。
ルウファの目に映るのは、甲冑の集団だけではない。その集団の後方には大小無数の天幕が設置されていたのだ。その内部がどうなっているのか、上空から覗けるはずもない。
軍隊なのは明白だった。
軍勢は、分岐路の北方に広がる平原に展開されている。バハンダールを制圧したガンディア軍が、北に向かって進軍してくると予想しての布陣なのだろう。扇状の陣形を構築する兵士の総数は正確にはわからないが、千人から千五百人以上いると見て間違いない。龍鱗軍の動員人数よりも多いところから考えると、ルベンの龍鱗軍だけではないのかもしれない。
兵力では西進軍が優っているように思えるが、過信は禁物だ。どこに罠が潜んでいるのかもわからない。
高度を落とし、大きく円を描くように旋回するが、敵陣に反応はない。敵部隊に召喚武装を手にした人間はいないようだ。それが武装召喚師の有無に繋がらないのが辛いところだが、上空からの観察でわかることなどその程度のものだと諦めるしかない。
ルウファは、再び高度を上げると、周囲の地形も見渡した。湿原の先に広がるのは見渡す限りの平原だ。西方にルベンの都市があり、遠方に山々が見える。国境沿いのあの山の向こう側がイシカであろう。
視線を分岐路にまで戻す。東部へと道なりに視線を動かしていくと、街道沿いに森が広がっているのがわかる。これがエインのいっていた森だろう。彼は敵部隊のいくらかをそこに誘い込みたいらしい。ルウファが彼に呼び出されたのは、そのための戦術を練っている最中だったらしい。誘引するのなら囮を使うしかないが。
(美味しい餌、ね)
ルウファは、エインのつぎの戦術もまたぞっとしないものになるに違いないと思いながら、翼を翻した。バハンダールに帰還しなければならない。
鳥ではなかった。
ザイン=ヴリディアは、草原に仰向けに寝転がり、青空を見ていた。晴れ渡った空を眺めているのは、苦痛ではない。なにも考えなくて済むからだ。わずらわしい人間のことも、この世界のことも、生きていくということすらどうでもよくなる。風の流れ、雲の動き、陽の光、ただそれらを享受しているだけだというのに、なんとも清々しい気持ちになれた。魔龍窟にいたころには考えられないような気分だった。鼻歌でも歌うことができれば、さらに心地よくいられるのかもしれない。
そんなことを自己鍛錬の合間の休憩中に考えていられるのは、ここが地上だからだろう。地の獄ではなく、地の上。太陽の下であり、生きとし生けるものが命を謳歌する世界。死に魅入られた龍どもが命の取り合いをする地獄などではないのだ。
ザインは、いつの間にか腹の上に這い上がってきた子犬を両手で抱えると、その困ったような顔をじっくりと見つめた。ルベンで出逢った犬だ。暇潰しに遊んでやったのだが、いつの間にか懐いてしまっていた。片時も離れようとはしないので、仕方なく引き連れている。
当然、この軍勢の指揮官たるミリュウとクルードには許可を取ってある。なにを考えているのかわからないふたりではあったが、ザインは、彼らのことは別に嫌いではない。同じ臭いがするからだろう。どれだけ洗っても拭い切れない血の臭い。死の臭いといってもいい。友を、仲間を、血縁者を、殺し過ぎたのだ。
生きるため、生き残るため、生き延びるため。
言い訳はいくらでもある。
だが、殺してきた事実を覆い隠せるものではない。だからこそ、ザインは自分が壊れたのだということも知っていた。殺戮してきたという事実に心が耐え切れなかったのだ。繊細だったというわけではない。優しかったわけでもない。普通の人間だっただけだろう。
危うく、妹を手に掛けそうになったこともある。親類縁者も関係なしに殺してきたのだ。妹だって、標的になり得た。そして妹も、彼を殺そうとした。互いに生き残ったのは、偶然に過ぎない。
その妹が、死んだらしい。
そういうことを、ミリュウとクルードが話していた。ふたりは彼にはなにもいってはこなかった。気を使ったのだろう。ふたりは、ザインに対して妙に優しかった。多分、自分が一番壊れているからだろう、と彼は納得していた。怒りはしない。当然の処置だと思う。むしろ、生かしてくれているだけでも感謝するべきなのだ。
妹フェイ=ヴリディアが死んだことは、普通に受け入れていた。魔龍窟で相対したときから覚悟していたことではある。魔龍窟で死ぬか、戦場で死ぬかの違いでしかない。戦場で死ねたのなら、魔龍窟で死ぬよりはいい最期だったのではないか。そんなふうに考えている自分にも、特になにも感じなかった。人間らしさが失われているのだろう、と他人事のように認識する。
ザインは、子犬を腹の上に戻すと、その背を撫でた。視線を空に戻し、先ほど見た影のことを考える。遙か上空を飛ぶ影。鳥ではなかった。
視力には、自信がある。
(翼があったな)
白く輝く翼があり、四肢を持っていた。人間のような姿形をしており、このルベン平原を見渡すように飛翔していた。
まるで天使のような。
(天使……か)
胸中でつぶやいて、彼は苦笑を浮かべた。
ヴァシュタリアならば、その手の話は腐るほどあるのだろう。しかし、ここザルワーンで天使の目撃情報などあるはずもない。
ザルワーンは龍の国だ。ザルワーンという国名も、伝説上の龍の名前から取られている。ザルワーンは龍によって拓かれた地であり、五竜氏族はザルワーンに国の統治を任されたものの末裔だという伝承が、いまもなお語り継がれているのだ。王と呼ばず国主と呼ぶのも、五竜氏族の当主が国主を順番に受け持つのも、その始まりに起因するものだという。
龍に纏わる神話と伝承で彩られた国。遥か昔、大陸が統一される前から連綿と続く幻想は、ザルワーンに生まれたものならばだれもが知るところではある。だが、多くの人間はそれをお伽話として記憶の縁にとどめているだけであろう。ザインとて同じだ。この国土が龍によって拓かれた、などという話は到底信じられるものではない。なにもかも、五竜氏族の統治を正当化するためのものにすぎないのだ。
ヴァシュタリアの神もそのようなものに違いない。神の実在を確かめたものなどいないのだ。天に神が在り、神の使いが実在するというのなら、ザルワーンという邪悪な国を滅ぼしてくれたはずだ。魔龍窟もろとも、この地上から消滅させてくれたはずだ。
だが、ザルワーンは滅びず、彼も生きている。
(この世に神はいない)
ザインには確信があった。神がいれば、魔龍窟のような不浄は存在し得なかったはずだ。ザルワーンは、断罪され、滅ぼされたはずだ。
では、いま見た天使は、いったいなんだというのか。
腹の上で丸まった子犬を撫でながら、空を睨み据える。
「敵……か」
彼にとっては、ミリュウとクルードを除く全てが敵と同じようなものだったが。
子犬を抱きしめると、ザインは上体を起こした。立ち上がる。
ふたりに伝えなくてはならない。