第二千二百二十六話 乱入者
斧を翻して大剣を地面に叩きつけ、黒き矛を突き刺して打ち砕く。あれだけ猛威を振るった大剣も、このような有様だ。ミズトリスが大きく飛び退いた。大剣を受け止められた瞬間には手を離していたようだ。追いはしない。その必要がないからだ。
セツナは、既に決着がついたのだということを認識していた。それもこれも、完全武装状態になり、感覚がより一層冴え渡ったおかげだろう。
「わたしは獅徒ミズトリス。おまえになど、負けるものか!」
ミズトリスは吼えるとともに、光輪から光の翼を生やした。美しくも神々しい光の翼は、ミズトリスがその力をさらに引き出したという現れなのだろうが、セツナには、哀れに想えてならなかった。その力も、完全武装状態のセツナに届くものではない。いや、そもそもだ。
「あんたは、最初から俺に負けてるんだよ」
「なにを……!」
セツナの発言が予期せぬものだったというのもあるだろうが、ミズトリスは、怒りに我を忘れたように飛びかかってきた。光の翼が彼女の速度をさらに引き上げている。以前のセツナならばまったく見切れなかったほどの速度も、いまの彼には緩慢な動きにしか見えない。そして、そのゆっくりと迫り来るミズトリスの体内に広がる闇が、はっきりと見えている。
「ほら」
「なっ……!?」
ミズトリスは、セツナの眼前で動きを止めた。そして、みずからの胸を押さえ、苦痛に顔を歪める。胸のあたりに生じた黒い亀裂が、ミズトリスの白い肌を切り裂き、中から溢れ出んとしていた。さながら黒い光のようなそれは、セツナがモナナ神に叩き込んだ力の証明。黒き矛が神にとっての猛毒であることの証。そう、つまり、ミズトリスがモナナを取り込んだ瞬間、この結末は決まっていたということだ。
黒い亀裂は瞬く間にミズトリスの全身に広がり、空間を飛び越え、光輪までも侵蝕した。光の翼までもが黒い亀裂によって切り刻まれていく中、ミズトリスが苦痛に満ちた声を上げる。その様子を、セツナは完全武装を維持したまま、見ていた。どれほどの痛みが彼女を襲っているのか、想像もつかない。神を滅ぼす力をそのまま感じているのか、それとも、多少はましなものなのか。いずれにせよ、想像を絶するものだろうということは疑いようもない。
(同情はしないがな)
ミズトリスの悲鳴を聞きながら、セツナは、顔を背けなかった。黒い亀裂が光輪や光の翼を粉々に打ち砕き、ミズトリスの鎧もばらばらにするのを見届け、その上で黒き矛の切っ先を彼女に向ける。苦痛に顔を歪めたミズトリスの眼は、元の灰色に戻っていた。モナナの神威が消え失せている。モナナ神が消滅したということだろう。ミズトリスを包み込んでいた黒い亀裂も、傷跡だけを残して消え去っている。
セツナが黒き矛を用い、神を殺したのだ。
「あんたの負けだ。ミズトリス」
「わたしは……まだ……!」
ずたずたに切り裂かれた肉体で、それでも立ち向かってこようとするミズトリスの執念に、セツナは目を細めた。その頑張りには素直に感心するが、だからといって、手を抜いてやるつもりも、そんな余裕もない。完全武装状態となったいま、時間はあまり残されていないのだ。
「俺の勝ちだ」
「ええ、まったくその通りです」
黒い風のような声だった。
セツナは、透かさず飛び退いてミズトリスと距離を取った。声は、至近距離で聞こえたからだ。
「新手かよ」
「ええ、まあ、そうなりますが」
困ったような、そんな声で応じてきたのは、女だった。黒い女という形容詞の似合う人物で、喪服のような黒装束に黒い帯のようなもので目元を隠している。目は隠されていても、声音や顔立ち、体型から女とわかる。女は、ミズトリスとセツナの間に立っている。ミズトリスが女を見上げ、睨み付けた。
「貴様は……!」
「まあ、ミズトリス様におかれましては、随分と傷つかれたみたいですね」
「なぜ、貴様がここにいる……! 援軍を頼んだ覚えはないぞ……」
「それはそうでしょう。わたくしは援軍ではなく、あなた様を救助するために馳せ参じたのですから」
ミズトリスの剣幕から、女とミズトリスの間に協調といったものはなさそうに想えた。女の発言から、彼女もネア・ガンディアの関係者であり、ミズトリスにとっては味方なのだということは間違いなさそうだが、味方だからといって全員が全員、仲良くはないというのはどんな組織でもあることだ。特にネア・ガンディアが神々の集まった組織というのであれば、上に立つ神同士がいがみ合っていれば、下のものも自然とそうなるものだろう。
「救助だと……」
「はい。あなた様を失うのは、ネア・ガンディアにとって大きな痛手となる、と」
女の穏やかな話し方に対し、ミズトリスは敵愾心さえ隠していない。女にとっては、ミズトリスなどどうでもいいとでもいいたげですらあった。とはいえ。
「おいおい、勝手に話を進めるなよ」
「はい?」
「逃がすと想うのか?」
「はい」
女が平然とうなずいてきたものだから、セツナは、憮然とした。
「セツナ=カミヤ殿、あなたがミズトリス様と交戦なさったのは、この地よりネア・ガンディアの軍勢を退去させるため、でしょう?」
「……ああ」
「であらば、これ以上戦う必要はないでしょう。全軍、引き上げさせますので」
「なんだと」
セツナは、女が当然のようにいってきたので、面食らうしかなかった。確かにセツナが戦った目的は女のいうとおりだし、女が全軍を引き上げさせるというのであれば、これ以上戦う必要はない。ミズトリスを殺したいから戦ったわけではないのだ。ザルワーン島からネア・ガンディア軍が引き上げるというのであれば、なにもいうことはない。
しかし、だとすれば、この戦いはなんだったのか、という疑問も抱かざるを得ない。
ネア・ガンディアは、ザルワーンを欲し、侵攻してきたのではないのか。これで、勝敗が定まり、あきらめてくれたというのか。ミズトリスの存在が、ネア・ガンディアにとってそれほど大きなものだというのか。
(だとすれば……)
ログナーを攻撃中のネア・ガンディア軍も、ウェゼルニルなる指揮官を追い詰めれば、引き上げるというのか。
セツナがそんな風に考えていると、女がミズトリスの肩に触れた。ミズトリスの口惜しそうな表情は、セツナに敗れたことと女に助けられること、そのふたつが入り交じっているように想えた。女の装束が揺らめいたかと思うと、黒い風が吹いた。ふたりを包み込む。セツナは、攻撃しなかった。女のいうことを真に受けただけでなく、余力を残したかったということもある。このあとには、ログナーの戦いが控えている。
黒い女が、右手を掲げ、別れを惜しむように手を振ってきた。そして、想わぬことをいってくる。
「では、ごきげんよう……お兄様」
「は、え、おい、いまなんていった!?」
セツナの疑問は、黒い風に阻まれ、女には届かなかったのか、あるいは黙殺されたのか。いずれにせよ、黒い竜巻に包まれた女は、ミズトリスとともにセツナの目の前から消えて失せた。飛んでいったのではない。空間転移能力だ。跡形も残さず消えている。
「お兄様……?」
女の言葉を反芻して、呆然とする。
「だれがだよ」
この場には、セツナ以外、だれもいない。となれば当然、女の発言はセツナに対するものだ。だが、当然のことだが、セツナには妹などいない。いるわけもない。生まれながらの一人っ子だった。従妹はいないではないが、お兄様などといってくれる可愛げのある従妹はひとりとしていない。それにたとえそのような従妹がいたとして、この世界にいるはずがないのだ。
わけもわからないままもやもやしていると、この苦悩こそがあの女の発言の狙いなのではないかと思えてきて、彼は苦笑した。まんまと術中にはまるところだった。ありもしないことに頭を悩ませるなど、自分らしくもないことだ。
頭を振り、マルウェール付近に意識を向ける。
戦闘は、終わっていた。