第二千二百二十三話 九尾の狐対九頭の龍(六)
「くだらんな。見え透いている」
龍の男が吐き捨てるようにいった言葉を聞いて、シーラは内心ほくそ笑んだ。実際、シーラの目論見は、あまりにも見え透いていただろうことは、わかりきっている。上空への自暴自棄的な体当たりなど、だれがどう見ても罠だ。そしてその罠とは、白毛九尾本体の体当たりをかわしたあとに来る、唯一の尾による攻撃。それくらい読めない相手ではないし、シーラによる神速の突進を回避しきれない相手でもない。だからこそ、シーラは真正直に直線を描き、大地を踏みしめ、飛んだのだ。
当然、龍の男は、体当たりを食らうのも尾の一撃を受けるのも嫌い、大きく右に避けて、かわして見せた。その移動先に”混沌”の尾が潜んでいる。龍の男は、当然、移動先にも罠が仕掛けてあることくらい見抜いている。龍の八首を巡らせ、周囲に攻撃を振りまいたのもそれ故だ。しかし、それらの攻撃は虚空を貫いただけであり、なんの効果も及ぼさなかった。そのため、男は移動先の中空に留まり、シーラが駆け抜ける様を見届けたのだが、それこそ、シーラの思う壺だった。
「これは……馬鹿な!?」
男が突如として狼狽えたのは、右腕の肘から純白の狐の尾が出現し、前腕を消し飛ばしたからだ。腕と手だけではない。龍の剣そのものも混沌に飲まれるようにして消滅している。一瞬にして、だ。男は咄嗟に左手で”混沌”の尾を掴み、引き抜こうとしたが、時既に遅しとはまさにこのことで、シーラは、”混沌”の尾を振り回し、男を嬲った。具体的には、左手を吹き飛ばし、龍の八首にも尽く痛撃を叩き込んでいる。
「ぐおおおおおっ!?」
男が激痛に打ち震えるのを認めつつも、シーラは、気を緩めない。九頭龍はまだ生きている。八首は残っているし、男そのものも厳然として存在するのだ。
しかし、白毛九尾の”混沌”の尾が、その名のままに混沌を振りまき、男に苦痛を与えることに成功したことには会心の笑みを浮かべる。
”混沌”の尾とはまさに混沌そのものだ。なんでもありといってもいい。故に強力なのだが、同時に扱いの難しい能力でもあった。今回のように制御できていればなんの問題もないのだが、わずかでも制御に失敗すれば、混沌はシーラ自身に牙を剥く。いくら強力だからといって、”混沌”の尾の力に過信し、頼り切っていては、いずれ自滅することになるだろう。
いまでさえ、”混沌”の尾の反動がシーラに響いている。そのため、追撃に移れなかったのだが、それで良かったのだろう。龍の男は、次第に態勢を整えつつあった。八首の攻撃によって”混沌”の尾を消し去った彼は、両腕をものの見事に再生してみせた。
「……なるほど、吼えるだけのことはある。さすが我が宿敵第一の家臣といったところか」
「だれが宿敵だって?」
シーラが疑問をぶつけたのは、相手の精神を揺さぶるためだったが、効果はなかったようだ。龍の男は、背後に右手を伸ばすと、龍の口の中に手を突っ込み、なにやらおもむろに引き抜いた。龍を模した剣がもう一振り、そのきらびやかな姿を見せつけてくる。龍の剣は、破壊しても意味がないとでもいわんばかりだった。
「我こそは、セツナ=カミヤが最大最強の宿敵サハカラウなり! その名を魂に刻み、死後も来世で語り継ぐがよい!」
いうが早いか神速の切り込みを見せてきた龍の男に対し、シーラは”混沌”の尾で対抗した。尾で虚空を撫でた瞬間、シーラの、白毛九尾の巨体が上空へ大きく跳ね飛び、サハカラウと名乗った男の斬撃が空を切る。剣閃は、そのまま虚空を突き抜け、遙か彼方へと至る。凄まじい斬撃。いくら白毛九尾といえど、まともに受けるべきではない。
「だれが死ぬか!」
《そうじゃそうじゃ! 思い切りいうてやれ!》
白毛九尾の声援が、シーラの魂を鼓舞する。シーラは、白毛九尾をこれほど頼もしく感じたことはなかった。いや、違う。ずっと白毛九尾が見守ってくれていたことはわかっていたし、ずっと頼っていたのも間違いない。ただ、いまはそれがこの上なく嬉しいのだ。白毛九尾は、シーラのことをなにもかも知ってくれている。その事実が、シーラに戦う力を与えてくれる。
白毛九尾の巨躯を縮小し、代わりに失った尾を補充する。これで名実ともに白毛九尾狐へと舞い戻り、攻撃も防御も自由自在となった。失ったのは、大きさだけだ。そして、体格でいえば、まだまだ白毛九尾の方が圧倒的だ。
「俺はセツナと添い遂げると決めたんだよ。こんなところで死んでたまるか!」
《おお、よいよい! さすがは妾のシーラじゃ!》
白毛九尾の声援は加熱し、シーラ自身も猛烈な熱を帯びた。
《見よ、あやつめ、そなたの勢いに押されておるぞ》
とは、白毛九尾の言だが、実際のところ、ハサカラウがシーラの発言をどう受け取ったのか、その静かな構えからは不明だった。表情もない。剣を構え、シーラの攻撃に備えているようにも見えるが。
「呆れたものだ」
彼は、口を開くと、冷ややかにいった。そして、震える拳を振り上げ、切っ先をこちらに向けてくる。
「この崇高なる戦場に色恋を持ち込むなど、侮辱も甚だしい……! そのような覚悟で我を倒せるはずがなかろう」
その震えの正体は、計り知れぬ怒りのようではあったが。
怒りたいのは自分のほうだ、と、シーラは思わずにはいられなかった。
「侮辱だって? ふざけんじゃねえ!」
シーラは、叫ぶ。魂の限り力を込めて、ただ声を上げる。それは魂の奥底から力を呼んだ。シーラ自身の力だけではない。ハートオブビーストの、金眼白毛九尾狐の、内包された力のすべてを解き放つ。白毛九尾が雄叫びを上げるのが聞こえた気がした。シーラの魂の奥底で。
「こちとら、命がけなんだよ!」
命がけで、セツナを愛している。
だから、戦える。
すべてを失ってもなお、生きていける。
サハカラウは、冷徹に目を細めた。
「ならば、闘争を穢した罪、死によって贖うがいい」
「それはこっちの台詞だ!」
シーラは、思いの丈をぶつけるしかなかった。
「ひとの恋路を邪魔すんじゃねえ!」
《シーラの恋路を邪魔するでない!》
シーラと白毛九尾の叫びが重なり、天地に響き渡る中、サハカラウが動いた。八首が同時に咆哮し、凄まじい熱量の光を発すると、龍の剣に収束し、極大の光の刀身を形成する。ただでさえ巨大な剣が、天に突き刺さるほどのものになったのだ。シーラは、なにも感じない。本能の赴くまま、サハカラウに殺到している。上空から、地上へ。ただ、その巨躯をぶつけようとしている。
「逆上したか。痴れ者め」
サハカラウの嘲罵も、シーラにはなにも響かなかった。サハカラウが光の極大剣をおもむろに振り下ろし、シーラの巨躯を真っ二つに切り裂く瞬間も、極めて冷静に状況を見定めていた。
なにもかも、シーラの思い描いた通りに進行していた。
だから、焦りもしなければ、反応もしない。
超神速といっていい体当たりが掠ることもないまま、光の刃によって真っ二つに断ち切られたのは、白毛九尾の巨体だ。龍の男は、光の剣を振り下ろした態勢のまま、特に勝ち誇るでもなく、両断された白毛九尾を見つめている。彼も、冷静そのものだ。
そして、その冷徹極まりない表情が、一変する瞬間をシーラは見逃さなかった。
「な――」
サハカラウが反応するより遙かに速く、白毛九尾の巨躯は九つの尾に分解され、直後、瞬く間にサハカラウをも包み込む巨大な球体を形成した。純白の結界は、白毛九尾の九つの尾のすべての力が満ち足りた、いわばシーラの世界。サハカラウが事態を悟り、動き出すよりも先にシーラの肉体が躍動していた。いや、わずかにサハカラウの反応のほうが速い。だが、それもこの世界ではなんの意味もなさない。サハカラウの巨体が踏み出した足が結界に捕らわれ、動きが鈍ったところを逃さず、シーラはその懐に飛び込み、胸元にハートオブビーストの切っ先を突き刺した。
そして、九尾の力を収斂し、炸裂させる。
瞬間、力の爆発が起こった。それこそ、シーラが想像もできないほどの大爆発であり、結界そのものが瞬時に消え去り、青空の下、白い光の奔流が巨大な柱の如く聳え立ったほどだった。