第二千二百二十一話 九尾の狐対九頭の龍(四)
「余所見をするとは随分と余裕だな、セツナ=カミヤ」
それこそ余裕に満ちた言葉を吐いてきたのは、ミズトリスだ。
「そりゃあ……」
そうだろう、と、いいかけて、セツナは言葉を詰まらせた。ミズトリスの姿に大きな変化があったからだ。いまのいままではなにもかもが白く染まった、神人のなり損ないとか、変異体のような姿をしていた彼女だったが、白く長い髪が逆立ち、まるで白い炎のようだった。全身が淡く発光しているのもそうだが、セツナが破壊したままだったはずの白甲冑が変異しているのも、どこか神秘的に想えた。変異した鎧は全身を覆うのではなく、肩や胸など、人体の一部を庇う形になっている。その上で、背後には光の輪が浮かんでいた。神々が負う光背のようなそれは、ミズトリスの姿を神々しいものとして錯覚させた。
手には、一振りの大剣。さっきまで手にしていた二本の剣がひとつになったような形状から、融合したのではないかと想えるが、なぜ融合したのかはわからない。
セツナは突然の変化に、困惑を隠せなかった。
(なんだ? どういう……!?)
ミズトリスから目を離したのは、一瞬のことだ。シーラを見やるべく視線をそらした一瞬。その一瞬のうちに、ミズトリスは姿を変容させたというのか。しかも、違和感はそれだけではなかった。別の、強烈な違和感が手のうちにある。
やがて違和感の原因が目の前にあることに気づき、セツナはただただ愕然とした。黒き矛が滅ぼさんとしていたはずの女神の姿が眼前から消え去っていたのだ。なんの前触れもなく、突然にだ。無論、黒き矛が滅ぼし尽くしたからではない。そうならば、黒き矛が歓喜しているはずだが、そうではなかった。むしろ、怒り狂い、荒ぶっていた。さながら逆流のように流れ込んでくる黒き矛の力と意思が、今度はミズトリスに向けられている。つまり、ミズトリスに神威を感じているということではないか。
確かに、ミズトリスの姿には変化があった。さっきまでとは異なる気配がミズトリスから放たれている。女神モナナを始めとする、神属から感じる気配。神々しさとでもいうべき、荘厳で偉大なる響き。それがミズトリスから感じられるのだ。
まるで、ミズトリスが神になったかのように。
セツナは、黒き矛を闇の手から右手に持ち替えながら、ミズトリスに向き直った。
「神と……ひとつになったってのか?」
「御名答」
ミズトリスの両目が金色に輝いた。金色の目には、神性が宿る。
「これがその力だ」
いうが早いかミズトリスが振り下ろした大剣をかわすことそのものは、なんの問題もなかった。しかし、大剣の剣閃は、直線上の虚空を切り裂いただけでなく、そのまま膨大化し、大地を断ち割り、天を引き裂いていく。さらにはセツナの遙か後方、同盟軍とネア・ガンディア軍の戦場をも両断し、無数の断末魔を上げさせた。多数の同盟軍兵士が犠牲になったのは、いうまでもない。
「てめえ!」
繰り出した黒き矛による突きは、大剣によって弾かれる。黒き矛の切っ先が虚空に流れるわずかばかりの隙をミズトリスは逃さない。切っ先を翻し、返す刀で胴を薙ごうとしてくるも、それには闇の手に握った槍が対応する。ランスオブデザイアの金切音を上げて回転する穂先が大剣を弾き返し、状況は五分となる。だが、ミズトリスの表情には余裕が満ちていた。それがセツナにはたまらず不愉快だった。
ミズトリスがその場から飛び退きながら虚空を撫でるように大剣を振り抜く。またしても剣閃が飛ぶ。かわせば、当然、セツナの遙か後方の戦場にいる味方に被害が及ぶ。避けられない。矛と杖を目の前で交差させて力を収束し、翅を前方に広げる。剣閃を押さえ込むように展開した翅は見事なまでに切り裂かれ、その衝撃がメイルオブドーターに悲鳴を上げさせるが、剣閃の拡散は防げた上、セツナ自身に到達することもなかった。杖と矛が受けきったからだ。しかし、同じようなことを続けられれば、後方を気遣い、防戦一方にならざるを得なくなる。
事実、立て続けに放たれてくる剣閃に対し、セツナは同じように防御する以外に対処方がなかった。しかも、受けるたびに翅は切り裂かれ、メイルオブドーターの損傷が蓄積していくものだから、翅の再形成も間に合わなくなっていく。このままでは、剣閃攻撃を抑えきれなくなるのも時間の問題だ。そうなれば、同盟軍を護ることもできなくなる。これでは、セツナがなんのためにここにいるのかもわからなくなるだろう。
ただでさえ強敵だったミズトリスが神と一体化したのだ。それくらいの攻撃を行ってくるのは覚悟するべきだったし、覚悟していたのだが、それにしても、と、セツナは想わざるを得ない。
(俺と黒き矛が押されるだと)
二対一ならばまだしも、一対一でここまで押されることなど、あるべきではない。なんのための地獄の修練だったのか。なんのための二年間だったのか。なんのためにあのとき現実から逃げたのか。
なんのために。
ミズトリスが、にやりとした。
「九尾は龍に押され、おまえはわたしに圧倒される。形勢は逆転したな」
「はっ……そういうありもしない戯言は、俺を斃してからいうんだな」
黒き矛を構え直しながら告げたのは、強がりでも何でもなかった。
彼方、白毛九尾がその態勢を立て直していた。
シーラは無事だ。
きっと、九頭龍を斃してくれることだろう。
同盟軍も、決して悪い状況にはない。ほぼ、神人のみが相手となっているからだ。もちろん、神人の相手ほどきついものはないが、シーラのおかげで人間兵の大半が行動不能となったことは、同盟軍の戦意を大いに高揚させ、ファリアたち主戦力も神人に意識を集中させることができるということなのだ。
問題は、セツナだけだ。
そして、その問題も、たいしたものではないといいきれる。
セツナは、神の如く悠然と振る舞うミズトリスの瞳の奥に確かな亀裂を見ていた。
「ふはははは! どうした、シーラよ! 威勢が良かったのは最初だけか!」
龍の男の傲岸不遜そのものといっていい台詞を聞きながら、シーラは地に伏していた。白毛九尾の巨躯をいいように投げ飛ばされ、地に背中を打ち付け、その痛みに堪えているのだ。龍の男は、九頭龍状態のときよりも遙かに強くなっていた。九頭龍状態では遠距離攻撃に徹していたこともあるだろうが、九つに分かたれていた力がひとつになったことで、何倍にも膨れあがったのは紛れもない。
戦闘の再開と同時に感じたのは、圧倒的な力だ。神に等しい力が龍の男にはあった。そして、シーラの感覚の正しさを示すように激闘が始まった。龍の男は、右手に握った剣による斬撃を主体としながら、左手や両足による打撃を交え、さらに魔法にも似た攻撃も繰り出してきた。その上、背中に生えた八つの首が間断なく攻撃を繰り出してくるものだから、シーラも圧倒されざるを得なかった。龍の首は、火球や雷撃を放つだけでなく、一気に間合いを詰めては頭突きを繰り出し、あるいは鋭利な牙で噛みついてきたのだ。それらを九つの尾を振り回して打ち払い、男の斬撃も爪で受け止め、弾き返すのだが、わずかな隙を突かれた。
気がつくと宙を舞い、着地も許されずに叩きつけられていた。
龍の男が調子づくのも無理はない。
《龍如きがいい気になりおって。これ、シーラ。なにをしておる》
白毛九尾の憎々しげな聲に、シーラは顔を上げた。九尾を振るい、態勢を整える。龍の男が嬉しげに笑った。剣を掲げる。八つの龍の首が口を開いた。口腔から放たれた八つの力が掲げた剣の切っ先に集まり、剣そのものがまばゆい輝きを放ち始める。
(うるせえ。あいつが強いんだよ)
《そんなことはわかっておる。妾はそなたの不甲斐なさを嘆いておるのじゃ》
(そんな暇があったら力を貸せってんだ)
《貸しておるではないか》
人型の白毛九尾が腕組みして嘆息する様が脳裏に浮かぶ。実際にはそのような態度を取っているわけではないし、白毛九尾の姿が目に映っているわけでもない。だが、おそらくはそのような様子でシーラを見守っているに違いないのだ。そして、ぐうの音もでない正論には、シーラも口をつぐむしかない。
事実、シーラは白毛九尾の力を借りれるだけ借りていた。これ以上の力を引き出すには、もっと多くの血が必要だ。