第二千二百十八話 九尾の狐対九頭の龍(一)
シーラは、いまこそ絶好の機会だと想っていた。
いま、このときこそ、自分の力を、自分とハートオブビースト――白毛九尾の力を解き放ち、使ってみせるときなのだと。
彼女は、ずっと考えていた。
ここ最近は特にだが、なにも最近だけの話ではない。ずっと。それこそ、彼女が新たな居場所をセツナに与えられたときからずっと、だ。
(ずっと、想ってた)
シーラは、ハートオブビースト・ナインテイルの真の力を発動しながら、彼のことを見ていた。自分の体を包み込み、血肉そのものとなっていく九つの尾が、彼女の目となり耳となり、戦場の光景を脳裏に描き出す。その中で、彼女の視線は、ひとりの男に釘付けとなっていた。
いうまでもなく、セツナだ。
シーラに居場所を与え、道を切り開いてくれた大恩人であり、彼女にとって命を賭しても惜しくない、ただひとりの最愛のひと。
彼女は常に考えていた。
彼に光を見たときから、ずっと。
彼の力になりたい、と。ずっと、彼を支えていたい。彼の力となって、彼の手となり足となり、彼とともに歩み続けたい。そのためにはどうすればいいのか。どうすれば、絶大で強力無比、無敵といっても過言ではない力を持つ彼の力となれるのだろうか。彼に補助など必要ないのだ。黒き矛を手にした彼は、最強無敵なのだから、協力する余地などあろうはずもない。
だから、考え続けた。
ずっと、ずっと。
(いまこそ、あなたの役に立って見せるよ)
ハートオブビーストは、戦場に満ちた血を啜ることで使用者であるシーラの身体に変化をもたらし、その変化に応じた強化をもたらす。ナインテイルはその変化の中でもっとも強力なものであり、ナインテイルの真の力こそ、さらなる血を流す最悪にして最凶の獣の顕現であり、ザルワーンのひとびとが九尾様と呼び、崇め称える白毛九尾の狐なのだ。その顕現には、前提として膨大な血を必要とするナインテイルの発動が必要であり、その状態でさらなる血が必要だった。血は、別にハートオブビーストで流させる必要はない。戦場に流れた血のすべてが、ハートオブビーストの能力の糧となる。
そして、この戦場には白毛九尾の顕現に必要なだけの血は十分に流されていた。
ザルワーンを包囲するように出現した九つの龍の首は、かつてこの地に現れ、ガンディア軍の快進撃に立ちはだかった守護龍、その真の姿だという。その力は想像を絶するものであることは間違いない。放っておくことはできないし、かといって、セツナに任せるのは負担が大きすぎる。
だからこそ、シーラなのだ。
白毛九尾ならば、九つの尾ならば、九つの龍の首にだって対応できる。彼女はそう信じた。自分の力と、ハートオブビースト、そして白毛九尾の力を。
(セツナ)
シーラが胸の内で彼の名を呼んだのとときを同じくして、嵐の如く殺到する九頭龍の攻撃をものともせず、ナインテイルは真の力を顕現させた。戦場を覆い隠すほどの巨躯を誇る、純白の対応に覆われた九つの尾を持つ狐。
金眼白毛九尾。
シーラは、自分自身がまさに白毛九尾そのものとなった感覚に目を細めると、まずは眼下、地上の敵勢力を尾の薙ぎ払いで吹き飛ばした。どれだけ強靱な肉体と絶大な生命力を誇る神人たちも、数十倍どころではない体積を誇る巨獣の攻撃には一溜まりもない。神人を滅ぼすには“核”を破壊する必要がある以上、完全に消滅させることはできないものの、戦場からはほぼ完璧に排除ができた。もちろん、人間の兵士たちもだ。もろともに戦場の遙か彼方に吹き飛ばし、戦場には同盟軍将兵と敵指揮官、女神だけとなる。戦場の外には、シーラに向かって攻撃を集中させる九頭龍がいるのだが、戦場だけを考えれば、同盟軍将兵の安全は確保できた形だ。
「シーラ殿が九尾様に……?」
「九尾様……九尾様だ!」
「おおおお! 九尾様が敵を一掃してくださったぞ!」
九尾信仰なるものが根付き始めていたというだけあって、同盟軍のうち、仮政府軍の兵士たちからは白毛九尾と化したシーラに対する歓声は凄まじいものであり、下がりに下がっていた士気が一気に盛り返していくのが実感できた。シーラが、戦場に戻ろうとする神人を打ち払い続けるうち、その熱量が帝国軍将兵に伝播し、同盟軍そのものの士気が高まっていく。戦況は変わった。少なくとも、同盟軍将兵がこれ以上死ぬようなことはなくなったはずだ。
最初からこうすることができていれば、同盟軍の被害を最小限に抑えることができていたに違いないのだが、残念ながら開戦と同時に発動できるほど、この能力の条件は軽くはない。仮に条件を満たしていたのであれば、シーラはためらいもなくこの状態となってネア・ガンディア軍を蹴散らしていただろう。
それこそが、セツナの役に立つということなのだから。
同盟軍が乱れに乱れた陣形を立て直していくのを見守りつつ、遠方から飛来する数々の攻撃を九つの尾のいくつかで打ち落とし、弾き返し、薙ぎ払う。同盟軍は、エリルアルムの指揮の下、戦場後方に後退しつつあり、ファリアや武装召喚師たちは残る力の限りを尽くして、神人への攻撃を続けていた。
セツナは、女神とミズトリスとの激闘のまっただ中にいる。いくつもの召喚武装を同時併用しているセツナの速度たるや、現状のシーラでも追い切れないほどのものであり、それに食らいつくミズトリスの実力は疑うまでもなく凶悪極まりないものだ。仮に、ミズトリスをシーラ、ファリア、エリルアルムの三人で担当したとして、まともに戦えたものかどうか。やはりセツナでなければならないのだろう。
女神も、強力無比だ。
神なのだから当然だが、その絶大な力は、いまのシーラならばなんとか耐えることができるだろうが、真正直に力をぶつけ合うことのできる相手ではない。
そんな女神とミズトリスを相手に押しているのが、セツナなのだ。女神の右腕を切り飛ばし、ミズトリスの左腕を吹き飛ばすことでさらなる勢いを得、セツナの猛攻は続いている。複数の召喚武装の同時併用により、セツナの身体能力は極まっているといっても過言ではないのだ。おそらく、常人にはセツナの戦闘は目にも映らず、激突音や破壊音が響き、その余波が世界に及ぼす影響のみを感じ取れるに過ぎないだろう。
シーラにも立ち入る隙はない。
そもそも、シーラの相手は、女神でもミズトリスでもないのだが。
顔を上げる。
戦場北東、ザルワーンとクルセルクの境界付近の丘に巨大な穴が空いている。丘の大半を消し飛ばした大穴は、とてつもなく巨大な龍の首によって埋め尽くされており、その真紅の鱗に覆われた龍の首は、遙か上天に至るほどに長大かつ強大だ。見上げれば、厳めしい龍の頭部がこちらを見下ろし、口から火の玉を吐き出していた。頭部も、赤い鱗で覆われているようだ。蛇にも似た頭部、長めの顎の間には鋭い牙が並び、口の中には熱気が満ちている。ぎょろりとした眼球そのものが赤く、まるで炎の化身のようだった。
他方を見やれば、ほぼ同じ姿でありながら、鱗と眼球の色と攻撃手段が異なる龍の首が八つ、ザルワーンを包囲するように聳え立っている。マルウェールからすれば遙か彼方であり、普通ならば攻撃などできる距離ではないはずなのだが、龍たちは長い首を伸ばし、シーラを射程に収めていた。
そう、九つの龍の首は、すべて、白毛九尾と化したシーラに狙いを定めているのだ。
シーラは思惑通りに事が運んでいることに内心ほくそ笑むと、尾のひとつで同盟軍将兵を撫でるようにした。九つの尾には、それぞれ異なる力が宿る。そのひとつが癒やしの力だ。最終戦争時、ヴァシュタリアの飛竜に破壊された龍府を元通りに復元したのも、この尾の力だった。
復元は、癒やしの力の極致だ。もちろん、そのためには膨大な力を費やす必要があったはずであり、白毛九尾がザルワーン守護のため、どれだけの力を消耗したのか、想像にあまりある。
「き、傷が治っていく……?」
「どういうことだ?」
「九尾様だ! 九尾様が俺たちを癒やしてくれたんだよ!」
「おおお! 九尾様万歳!」
シーラは、同盟軍将兵たちの歓声を聞きながら、地を蹴った。ついでにまだ起き上がってくる神人や戦場に辿り着こうとしたネア・ガンディア軍将兵を尾の一撃で吹き飛ばし、戦場を離れる。あとのことはエリルアルムたちに任せればいい。
シーラにはシーラにしかできないことがある。
そしてそれこそ、セツナのためになるのだ。




